大東亜戦争
 
 
 
 【ドイツによるチェコ併合】
 昭和15年(1939)年3月、ドイツはチェコを併合しました。このとき、欧州各国はこれを傍観します。これにより、ヒトラーはミュンヘン会談での決定事項を破っても大丈夫だという確証を得ました。そしてポーランド併合に向けて動き出します。
 英仏の消極的な姿勢は、かえってヒトラーを増長させました。ドイツのチェコ併合時に英仏が開戦に踏み切れば、その後の大戦には至らなかったという見方もあるほどです。平和を願うために開戦しなかったことが、大きなツケとなったと言えます。
 
 
 
 【美濃部達吉の論説の変化】
 昭和15年4月、美濃部達吉は「日本行政法・下巻」を記します。
 
 「神社の祭祀は、若しこれを宗教であるとすれば、国家的宗教であり、国教である。神社を尊敬しこれに対して不敬の行為なきことは、臣民としての当然の義務であり、これを否定することは憲法に所謂『臣民タルノ義務』に背くもので、斯かる宗教は許されない。併しながら、それは決して他の宗教を排斥する趣意でないことは勿論、又宗教的の信仰を強要する趣意でもない」
 
 「神社の祭祀が国教であるとしても、それは現在の制に於いては宗教的の要素を含んだ儀礼として見るべきものであり、これに依つて偏信を強ふるものではないことは、言ふまでもない」
 
 かつて、美濃部は神道が国教であろうと宗教的儀礼を強要すれば憲法違反に当たると主張しました。昭和15年の論説では、神道は国教であり、その尊敬に対して不敬無きことは臣民の義務であり、このことを否定する宗教は憲法に違反すると考えを改めています。
 
 
 
 【萩窪会談】
 昭和15年7月19日、近衛文麿は東條英機、吉田善吾、松岡洋右を私邸に招きます。東條は第二次近衛内閣で陸軍大臣に就任する予定でした。同じように吉田善吾は海軍大臣、松岡洋右は外務大臣に就任する予定です。この4名による会議は近衛の私邸の所在地にちなみ、「萩窪会談」と呼ばれます。
 萩窪会談では以下のことが決められました。
 
 1.世界情勢の急変に対応し、かつ速やかに東亜新秩序を建設するため、日独伊枢軸の強化を図る。
 2.対ソ関係は、国境の不可侵協定を結び、その有効期間内に対ソ不敗の軍備を充実する。
 3.東亜にある英仏蘭葡の植民地を新秩序に包含するために積極的な処理を行う。
 4.米国との無用の衝突を避けるが、東亜新秩序の建設に対する米国の実力干渉は、これを排除する堅い決意を持つ。
 
 同月22日、近衛文麿は再び首相となりました。第二次近衛内閣です。近衛文麿はその後、「東亜新秩序建設」を掲げ、国民党政府が「更生ノ実ヲ挙ゲ」て日本政府の政策に賛同するならば歓迎すると表明。「善隣友好」、「共同防衛」、「経済提携」の近衛三原則を打ち出しました。そして、支那における日本の友好政府として汪兆銘政権の擁立を目指します。
 
 
 
 【基本国策要綱】
 昭和15年7月26日、「基本国策要綱」が政府によって決定されます。8月1日、基本国策要綱が発表されました。その際、「八紘一宇」の言葉が初めて公式文書に取り入れられました。
 
 「皇国の国是は、八紘を一宇とする肇国の大精神に基き、世界平和の確立を招来することを以て根本とし、先ず皇国を核心とし、日満支の強固なる結合を根幹とする、大東亜の新秩序を建設するにあり」
 
 また、松岡外相は国策要綱の解説の中で「大東亜共栄圏」の言葉を用いました。
 
 「わが国眼前の外交方針としてはこの皇道の大精神に則り先ず日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立を図るにあらねばなりませぬ」
 
 
 
 【ドイツのポーランド侵攻】
 昭和15年(1940年)9月1日、ドイツはポーランドに攻め込みます。9月3日、遂に英仏はドイツに対して開戦しました。英仏がポーランド併合を見逃すと思ったヒトラーは驚愕します。
 9月17日、ソ連がドイツ支援のため戦争に参戦。こうしてドイツのポーランド侵攻は第2次世界大戦に発展していきます。
 
 
 
 【日独伊三国同盟の締結】
 昭和15年(1940年)9月27日、日本政府は「日独伊三国軍事同盟」を締結します。松岡外相と駐日ドイツ大使オットーとの交渉によって同盟が成立しました。
 
 「第一条 日本国ハ独逸国及伊太利国ノ欧州ニ於ケル新秩序建設ニ関シ指導的地位ヲ認メ且之ヲ尊重ス」
 
 「第二条 独逸国及伊太利国ハ日本国ノ大東亜ニ於ケル新秩序建設ニ関シ指導的地位ヲ認メ且之ヲ尊重ス」
 
 また、同盟締結の詔書が発されました。
 
 「大義ヲ八紘ニ宣揚シ坤輿ヲ一宇タラシムルハ実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕カ夙夜眷々措カサル所ナリ」
 
 「惟フニ万邦ヲシテ各々其ノ所ヲ得シメ兆民ヲシテ悉ク其ノ堵ニ安ンセシムルハ曠古ノ大業ニシテ前途甚タ遼遠ナリ。爾臣民益々国体ノ観念ヲ明徴ニシ深ク謀リ遠ク慮リ協力戮力非常ノ時局ヲ克服シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼セヨ」
 
 松岡は「ユーラシア大陸同盟」を形成することでアメリカとの戦争を回避しようとしました。日独伊蘇の4ヶ国が結ぶことで米英に対する抑止力を持とうとしたのです。松岡が大東亜共栄圏構想を初めて用いた政治家であることも、大陸同盟構想を抱いていたことを思えば肯けます。
 しかし、この同盟は完全な失政でした。ドイツ、ソ連の交戦国は反日感情を悪化させ、後に石油の輸出を禁止したのです。
 
 
 
 【紀元2600年記念大祭】
 昭和15年(1940年)12月、「紀元2600年記念大祭」が行われました。
 
 
 
 【リカルテの帰国拒否】
 昭和15年(1940年)、フィリピンのケソン大統領はリカルテに帰国を勧めました。しかし、リカルテは星条旗の翻る限りは戻れないと主張しました。
 
 
 
 【臣民の道】
 昭和16年(1941年)7月、文部省教学局は「臣民の道」を発行。戦争の気配に不安になる国民を案じ、日独伊三国同盟の締結と大東亜共栄圏の建設という国策への理解を求めるためでした。
 第一章「世界新秩序の建設」には日本の世界史的使命がどの様なものかが記されます。
 
 「万邦協和し、万民各々その所を得るに至るべき道義的世界の確立に寄与」し、大東亜において諸国を指導する立場にあること。これが日本国の使命である。三国同盟もそのために締結された。
 
 「政治的には欧米の東洋侵略によつて植民地化せられた大東亜共栄圏内の諸地方を助けて、彼等の支配より脱却せしめ、経済的には欧米の搾取を根絶して、共存共栄の円滑なる自給自足経済制を確立し、文化的には欧米文化への追従を改めて東洋文化を興隆し、正しき世界文化の創造に貢献しなければならぬ」
 
 「八紘を掩ひて宇となす我が肇国の精神こそ、世界の新秩序の基本理念」
 
 アジアから欧米の権力を駆逐し、共存共栄の自給自足経済制を広める。これは植民地の否定とブロック経済の実施を明確に謳ったものです。
 列強による有色人種の差別と支配。日本は白人至上主義に対し、人種差別の撤廃を訴え続けました。世界恐慌後の経済危機により、いよいよ白人至上主義の打倒を掲げるに至ったのです。
 
 
 
 【大西洋憲章】
 昭和16年(1941年)8月、ルーズベルト米国大統領とチャーチル英国首相は「大西洋憲章」を発表します。無論、これは両国間の憲章であり、国際的な法的拘束力は持ちません。そこに示された内容はドイツ、イタリアへの武装解除を行うというもので、従来の戦後処理(領土割譲、賠償金支払い)とは大きく異なるものでした。
 参戦前のアメリカが戦後処理に踏み込んでいることから、ルーズベルト大統領に交戦意欲があったと判ります。
 
 
 
 【参戦時期を見定めるアメリカ】
 昭和16年9月4日、アメリカ海軍駆逐艦「グリーア」とドイツ海軍潜水艦が砲戦を行います。同年10月17日、アメリカ海軍駆逐艦「カーニ」はドイツ海軍の攻撃によって大破。11名が行方不明になりました。11月30日、アメリカ海軍駆逐艦「リュベン・ゼームス」がドイツ海軍と交戦して撃沈。115名が戦死します。
 この時期、米軍はドイツへの抗議に消極的でした。これを不審に思った米国上院海軍問題委員会がH・R・スターク海軍作戦部長に質問状を提出したほどです。
 
 
 
 【対日石油禁輸政策】
 オランダはドイツに占領された経緯から、ドイツの同盟国である日本に石油を輸出しないと主張しました。イギリスもドイツと戦争状態にあるため、日本への石油輸出を禁止しました。日本政府はインドネシアから石油を輸入しようとしましたが、アメリカ、イギリス、オランダの圧力によって石油の輸入は出来ませんでした。
 日本の石油備蓄は7ヶ月分から6ヶ月分と推測されます。各国の石油輸出禁止が1年間も続けば、日本軍はほぼ完全に軍事力を失い、国内産業は根本から破壊されるという非常事態に陥りました。
 
 
 
 【ハル・ノート 運命の最後通牒】
 野村吉三郎特命全権大使は米国国務長官コーデル・ハルを交渉をします。野村大使は通訳を入れず、自身の言葉でハル国務長官と交渉を重ねました。
 しかし、ハル国務長官は回顧録のなかで「野村大使の英語はよく分からなかった」と記しています。これでは交渉になりません。日本側の失敗は野村大使を信用し、相手に言葉も通じないまま時間を消費してしまったことでしょう。
 後に昭和天皇はハル・ノートを拒否しなければ、政変が起きただろうと回想なさっています。
 
 
 
 【佐藤信淵の思想利用】
 昭和16年、「小学国史下巻」に佐藤信淵の記述があります。
 
 「本多利明や佐藤信淵などのやうに、開港の急を説き、進んで海外に植民地を開拓し、国力を伸ばさなければならないと主張する学者があらはれた」
 
 大東亜戦争開戦の危機に際し、日本政府は国民の志気を向上させるため、創作された佐藤信淵像を利用したのです。佐藤の受けた高い評価は、どの国も行ってきた歴史、思想の戦時利用なのです。
 
 
 
 【南機関の設立】
 昭和16年(1941年)、日本軍はビルマの独立支援、蒋介石軍への補給路を断つため、大本営直属特務機関「南機関」を設立します。鈴木啓司大佐が機関長を務めました。
 
 
 
 【リカルテ帰国】
 昭和16年(1941年)12月19日、アルテミオ・リカルテは日本軍の援助でフィリピンに帰国します。12月21日、リカルテはビガンの市庁舎屋上に独立旗を掲げました。この写真はフィリピン全土に配られ、日本軍の正当性とリカルテの帰国をフィリピン国民に伝えました。
 12月23日、第十四軍参謀長前田実中将はアルテミオ・リカルテと会談。マニラ制圧が日本軍の目的だと伝えました。リカルテは米軍がバータン半島に籠もればマニラ湾も封鎖され、攻略は難しくなると助言します。そして、作戦の変更を求めました。しかし、大本営はマニラ制圧を厳命。第十四軍はマニラ攻略に取りかかりました。
 
 
 
 【大西洋憲章と連合国宣言】
 昭和17年(1942年)1月1日、大西洋憲章が連合国宣言に取り入れられました。
 
 
 
 【今村中将のジャワ攻略 インドネシア独立への道】
 昭和17年(1942年)3月1日、今村均陸軍中将はジャワ派遣軍第十六軍二個師団5万5000名を率いてジャワ島に上陸しました。同部隊は治部隊と呼ばれ、2倍の戦力を有したオランダ軍をわずか9日で降伏させました。
 今村中将は日本とインドネシアは同祖同族であり、両国の共存共栄を願うと主張しました。そのためにインドネシアの近代化に協力し、子供には近代教育を施し、成人には近代農業の手法を伝えました。インドネシア人の愛国心の育成のためにインドネシア語を公用語と定め、民族運動や政治参加を認めました。インドネシア人による中央参議院が設立されたのです。こうしてインドネシアでは言論の自由が認められるようになり、様々な集会が開かれるようになり、独自の新聞も発行されました。
 日本軍はインドネシアの独立維持のために「インドネシア祖国義勇軍(PETA)」を結成。進んで近代戦術を指導しました。
 これらは総じて今村中将の独断であり、大本営は今村を解任しました。しかし、今村中将の英断によってインドネシアは独立の準備を整えることが出来たのです。
 大東亜戦争敗戦後、戦犯としてチビナン収容所に収容された今村中将を救出するため、多くのインドネシア独立運動家が活動を開始しました。今村中将は死刑直前に釈放され、奪回計画は行われませんでした。インドネシア人の今村中将への尊敬の念を知ることが出来ます。
 また、2000名を越える日本人が大東亜戦争敗戦後もPETAに参加し、インドネシアの独立のために戦いました。
 スカルノ初代大統領は昭和24年(1949年)8月17日、インドネシア第三共和国の独立に際し、独立宣言書に「05年8月17日」と署名しました。05年とは皇紀2605年を意味します。インドネシア独立に尽力した日本軍に最大級の敬意を表したのです。
 
 
 
 【マッカーサーの逃亡 駐フィリピン米軍への勝利】
 昭和17年(1942年)3月12日、マッカーサーは日本軍に敗れ、4隻の魚雷艇でフィリピン・コレヒドール島を脱出しました。ルーズベルト大統領の厳命によって逃亡したのです。
 代わりにウェンライント中将が指揮を執りましたが、権限のおよぶ範囲がコレヒドール区域のみなのか、それともバータン全域におよぶものが不明確でした。ウェンライント中将が日本軍に降伏の意を示すと、日本軍は中将に戦闘中の米兵への降伏を命令させようとします。しかし、中将は権限の範囲が不明確なため、降伏令を出す資格がないと断りました。
 5月7日、駐フィリピン米軍は日本軍に降伏。5月10日、ミンダナオ島の米軍も降伏しました。
 日本軍はフィリピンの政治機構を今後も活用することを決定。駐米政府に関係した者をフィリピン政府に登用しました。
 
 
 
 【ソロモン沖海戦】
 昭和17年8月7日、三川軍一第8艦隊長官はラバウルを出港。ガダルカナル島にて上陸を計画する敵輸送船団との戦闘に備えました。11時、「鳥海」、「青葉」、「加古」、「古鷹」、「衣笠」、「天龍」、「夕張」、「夕凪」が南下します。
 
 「帝国海軍ノ伝統タル夜襲ニ於テ必勝ヲ期シテ突入セントス。各自冷静沈着克クソノ全力ヲ尽スベシ」
 
 連合国海軍南方部隊はクラッチレー少将が率います。重巡洋艦は「オーストラリア」、「キャンベラ」、「シカゴ」。駆逐艦は「バターソン」、「バークレー」です。
 北方部隊はリーフコール大佐が率いました。重巡洋艦は「ビンセンス」、「クインシー」、「アストリア」。駆逐艦「ヘルム」、「ウィルソン」です。
 スコット少将率いる東方部隊は軽巡洋艦「サンジュアン」、「ホバート」、「モンセン」、「ブキャナン」、「ラルフタルボット」、「ブルー」で構成されます。
 23時30分、日米海両軍はソロモン海で激突。砲撃距離は2500〜8000mです。
 8月8日、第1次ソロモン海戦が勃発。「加古」が沈没し、「鳥海」が大破しました。連合国海軍は「キャンベラ」、「クインシー」、「アストリア」、「ヴィンセンス」が沈没。「シカゴ」、「ラルフタルボット」が大破。「バターソン」は小破しました。
 8月24日、第2次ソロモン海戦が行われます。近藤信竹中将率いる第2艦隊の戦力は戦艦1隻、巡洋艦6隻、駆逐艦8隻です。戦艦「陸奥」、重巡洋艦「愛宕」、「高雄」、「摩耶」。軽巡洋艦「由良」などを率いました。
 第3艦隊は南雲忠一中将が率いました。空母「翔鶴」、「瑞鶴」、「龍驤」。戦艦「比叡」、「霧島」。重巡洋艦「筑摩」、「鈴谷」、「熊野」、「利根」。軽巡洋艦「長良」。駆逐艦「秋雲」、「巻雲」、「風雲」、「初風」、「秋風」、「浦波」、「敷波」、「綾波」、「時津風」、「天津風」。
 田中頼三少将 は軽巡洋艦「神通」と駆逐艦を率います。駆逐艦「陽炎」、「磯風」、「涼風」、「海風」、「江風」、「睦月」、「弥生」、「望月」、「卯月」、「夕凪」。
 10月13日、ガダルカナル島飛行場砲撃。
 10月26日、南太平洋海戦。
 11月12日から14日にかけて第三次ソロモン海戦が行われます。
 11月30日から12月12日にかけて駆逐艦隊によるガダルカナル島食料輸送作戦が行われました。
 
 
 
 【ビルマ独立義勇軍】
 昭和17年(1942年)、南機関はビルマに軍政を敷き、「ビルマ独立義勇軍」を結成しました。ビルマ独立の志士アウン・サン将軍も日本軍によって近代戦を学びます。こうした経緯から、ビルマ国軍のパレードは軍艦マーチで始まるようになりました。
 昭和17年(1942年)、フィリピンのルソン島西部バータン半島の米軍が日本軍に降伏し、7万余名が捕虜になりました。日本軍は多数の捕虜と共にマリベルからサンフェルナンドまで97kmを徒歩で行進。食糧不足から死者1万4000名を出しました。これを「バータン死の行進」と呼ばれます。捕虜はサンフェルナンドから貨車で収容施設に輸送されました。
 
 
 
 【憲法略説】
 昭和17年、宮沢俊義は「憲法略説」を記します。宮沢は美濃部達吉に学んだ人物です。
 
 「『天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ』。この規定はわが国は天皇が神の御裔として、現人神としてこれを統治し給ふとする民族的信念の法律的表現である」
 
 「それは古来わが国において国教的地位を占めるものであり、この憲法の定める信教の自由の原則もこの伝統の基礎の上に、それと両立する限度においてのみみとめられると解すべきである」
 
 宮沢は大日本帝国憲法第3条について、天皇陛下が現人神に在らせられるということの法律的表現と解釈しました。神道は日本の国教であり、信教の自由は神道を基礎とするか、若しくは両立するものにおいてのみ認められる。
 これは大きな思想の転換です。帝国憲法の定める信教の自由とは、国体に反することが無ければ如何なる宗教も許可するというものでした。宮沢の論説は本来の憲法解釈に反します。
 大東亜戦争の開戦が憲法解釈を大きく変えたのです。総力戦は戦争当事国のあらゆる資源を投入します。それは歴史、宗教、法律なども含みます。憲法解釈の変化は共産主義への対抗によって始まり、大東亜戦争によって決定的になりました。
 
 
 
 【ガダルカナル島食料輸送作戦】
 昭和18年1月3日から1月14日、そして2月1日から2月7日にかけてガダルカナル島食料輸送作戦が行われました。
 
 
 
 【国家の無条件降伏論】
 昭和18年(1943年)1月、ルーズベルト米国大統領はカサブランカ会議で「国家の無条件降伏論」を打ち出します。
 
 「この戦争の最終目標をドイツ、イタリア、および日本の無条件降伏に求めることであり、世界平和を合理的に保障することを意味する。無条件降伏はこれら三国の人民の破砕を意味するものではなく、他国の征服と屈従に基礎をおく、これら三国の哲学そのものを破砕することである」
 
 以降、連合国首脳部は戦後処理について自国民に演説するようになります。
 
 「罪ある人々に法の裁きがなければならない」 昭和18年年2月11日、チャーチル英国首相の演説より
 「罪ある野蛮な指導者層に刑罰を加える方針である」 昭和18年2月13日、ルーズベルト米国大統領の演説より
 「(枢軸国の)抵抗力が完全に打破され、彼らがわれわれの審判と慈悲に、絶対的に従うことを意味する」 昭和20年6月30日、チャーチル英国首相の戦後政策についての演説より
 
 
 
 【共産主義を容認するルーズベルト】
 昭和18年(1943年)、フランクリン・ルーズベルトは「(スターリンを)共産主義者と考えるのは馬鹿げている。彼はただロシアの愛国者であるだけだ」と述べました。
 それだけではありません。ルーズベルトはスペルマン司教に次のように伝えました。
 
 「我々はロシアの驚くべき経済的成果を見落とすべきではない。財政は健全である。(中略)ヨーロッパの人々は、10年、20年先にロシア人とうまくやっていけるようになるという希望を持って、ロシアの支配を、ただ甘受しなければならない」。
 
 イギリス以外の欧州各国がロシアの支配下に置かれることを容認したのです。
 
 
 
 【ビルマの独立】
 昭和18年(1943年)、バー・モウ長官を国家主席としたビルマ共和国が独立しました。
 
 
 
 【フィリピンの独立】
 昭和18年(1943年)5月5日、東条首相がマニラを訪問。フィリピンの独立を確約しました。
 10月14日、黒田司令官は日本軍の統治機構を解体し、フィリピン政府の結成をバルガス行政長官に通達します。そして、フィリピン国会議事堂前にてフィリピン共和国の独立式典が催されました。参加したフィリピン国民は約30万人に上ります。アギナルドが国旗を掲揚し、ラウレルが大統領に就任しました。
 ここにフィリピンは独立を果たしました。
 
 
 
 【モスクワ宣言】
 昭和18年10月30日、連合国はドイツに対して「モスクワ宣言」を発表します。これは通例の戦争犯罪を行ったと見なされたドイツ将兵を被害国に引き渡し、その国の裁判に委ねるという宣言です。
 同時に連合国将兵がドイツに対して行った通例の戦争犯罪を裁くことを規定しない、一方的な宣言でした。
 
 
 
 【大東亜会議】
 昭和18年(1943年)11月、東京で「大東亜会議」が開かれます。大日本帝国からは東条英機総理大臣。満州国からは張景恵国務院総理。中華民国(南京政府)からは汪兆銘行政院院長。タイからはワンワイタヤコーン首相代理。フィリピン第二共和国からはホセ・パシアノ・ラウレル大統領。ビルマ共和国からはバー・モウ国家主席。自由インド仮政府からはチャンドラ・ボース首班。このようにアジア各国の首脳が一同に揃い、今後のアジア情勢について会談しました。
 日本、朝鮮、台湾、満州、南京、タイ、フィリピン、ビルマ、インドという広大な地域の代表者会談であり、正に大東亜共栄圏構想の結実と言えます。会議で大日本帝国は米英の搾取から大東亜を守るために開戦したと主張しました。
 会議の結果、各国首脳は大東亜各国が協力し、人種差別撤廃や経済発展を約束した「大東亜宣言」を採択します。これは同時代に置いて最も道徳的、先進的な宣言であり、歴史的な意義は極めて大きいと言えます。
 
 
 
 【カイロ会議】
 昭和18年(1943年)11月、エジプトのカイロでアメリカ、イギリス、中華民国の首脳会談が行われました。「カイロ会議」です。3ヶ国の首脳は対日戦争の戦略、さらに戦勝後の領土割譲について話し合いました。
 ルーズベルト米国大統領は台湾、満州の支那への返還に合意します。しかし、チャーチル英国首相は台湾の支那への返還に反対しました。さらにチャーチルは支那を対日軍事拠点にすることにも反対。ルーズベルトは蒋介石に沖縄返還を申し出ましたが、蒋介石はこれを断っています。
 このように三首脳の意見は噛み合いません。そのため、チャーチルは「カイロ宣言」への署名を拒否しました。チャーチルの署名拒否によってカイロ宣言は無効となりました。
 アメリカは会議の草案として「カイロ公報」、イギリスも草案として「新聞公報」、中華民国は公文資料として「会議公報」をまとめました。
 昭和18年12月5日、宋美齢はルーズベルト米国大統領に電報を送っています。その中でカイロ公報には触れましたが、カイロ宣言には一切触れていません。カイロ宣言が存在しなかったため、草案に触れる程度の扱いだったのです。
 昭和30年(1955年)2月1日、チャーチルは英国議会でカイロ宣言の存在を自ら否定しています。成立していない宣言に法的拘束力は無く、日本がカイロ宣言を受け入れる必要はありませんでした。
 
 
 
 【昭和18年に創られた国家神道】
 国家神道とは本来、「神社神道が国家によって保護されている状態」を指す言葉です。大日本帝国期における尊皇思想は様々な発揚がありました。国体さえ守られていれば思想の中身は自由だったのです。
 現人神、八紘一宇は昭和になってから生まれたものであり、国家神道と呼べるほど確立されたものではありません。
 そもそも、国家神道など存在しないのです。明治から昭和にかけて日蓮宗の田中智学、浄土真宗の加藤玄智の提唱した論理が国家神道と呼ばれるものの原点です。彼等の著書には天皇陛下の神格化が記されますが、あくまでも民間の一意見であり、政府の見解ではありません。
 昭和の軍人は田中、加藤の著書を読み、精神的な影響を強く受けました。昭和14年頃から教科書は大東亜戦争を意識した政治色の強いものになります。同年、現人神という言葉が教科書に記載されました。
 昭和18年以降、政府は戦意高揚の手段として、民間に広まっていた現人神説を前面に立てます。逆を言えば、政府は戦局が悪化するまで現人神説を認めなかったのです。
 国家神道なる思想が戦争をもたらす原因だったのではなく、戦局悪化によって政府が見解を変えたと解釈すべきです。
 
 
 
 【神道の積極的戦争参加】
 大東亜戦争中、神宮皇學館の原田敏明は学生に次のように訓示しました。
 
 「前の世界大戦のあと日本の国には、無政府主義、マルクス主義等々が横行して国体を揺るがす事件が連続し、社会不安は頂点に達したのであった。その時にこの思想問題に正面から立ち向かったのは僧侶であった。当時神道人は何もしなかったのである。今度の戦争では神道人が以前のように、他に遅れをとるということがあっては断じてならない。この戦争が終わってあと、必ずわが国は危険思想にさらされ、思想的な混乱が起こるに違いない。その時こそ粉骨砕身活躍するのは君達でなくてはならない」
 
 原田は思想問題が原因で神道が戦争に寄与出来なかったという後悔を抱いていました。既に僧侶は戦争に寄与すべく行動をしています。大東亜戦争で神道が仏教に遅れをとってはならない。この訓示は大東亜戦争まで仏教の方が積極的に戦争協力や思想支援をしていたことを裏付けています。
 
 
 
 【大国隆正の思想利用】
 昭和18年、大崎勝澄は「大国隆正」を記します。
 
 「惟ふに、日本史上、彼ほど偉大にして然も彼ほど無視又は軽視されて来た人物は蓋し希であらう。明治維新に際し、彼はあれ程大きい思想的貢献をなしたにもかかはらず、その思想があまりに深遠宏大であつたためか、従来、維新史が、その世界維新的性格を明示し得なかつたのは理の当然であらう。維新史は、彼の思想に照合して書き直されることによつて、今後あらたなる世界史的意義を獲得するに至るであらう。それほど彼の思想は、明治維新から今日の皇道世界維新に直通一貫して生きてゐるのである」
 
 「(天皇中心の世界一体観は)もともと国学者自身の創建にかゝるものではなく、国学によつて発掘された日本の肇国理念そのものであり、大和民族の宿志であつた。暗気なして漂へる四方の世界をつくり固め成すことは、天津神がことよさし給へる天業的使命であり、『六合を兼ねて都を開き、八紘を掩うて宇と為す』ことは畏くも、神武天皇が抱懐せられたる世界史的御雄図であつた。国学はたゞこの宏遠なる肇国理念をまともに承けて之を学的に闡明し、更にこれを国民的自覚にまで深く堀り下げたのである。謂はゞ、国学の力によつて大宇宙をも包含するが如き深遠宏大なる日本肇国理念が再発見され、大和民族本来の世界史的使命が明瞭にされたのである。久遠のむかしから日本民族のたましひの深底を無意識的に流れ来つた惟神的世界観が、国学によつて自覚的に意識の表面に浮び出たのである。ここに国学が発見したものは『自我の発見』に非ずして『古事記の発見』であり『真日本の発見』であつた」
 
 「かく自覚的に発見された純乎として純なる日本的世界観こそは、明治維新を神武の古に直接せしめて之を世界史的展望の下に敢行せしめた唯一の思想的原動力であつたのである」
 
 「最も大胆に日本の世界史的使命を宣言し、最も鮮明に、天皇政治の世界性を高唱し、最も的確に日本の世界史的発展を予言したものは実に大国隆正その人であつた」
 
 「時は彼の思想を過去の世界に追ひやる力を有たぬ。寧ろ時が彼の思想によつて創造されて行くのである。それは時を超えて永遠に新鮮な世界観である」
 
 大東亜戦争によって、大国隆正の評価は最高に達しました。大崎の著書はその代表と言えます。
 
 
 
 【Modern Japan and Shinto Nationalism】
 昭和18年、D・C・ホルトムが「Modern Japan and Shinto Nationalism」を刊行。加藤玄智の個人的な理想を日本の現状と誤解し、東亜新秩序などの思想や戦闘能力は全て神道を基礎にしていると記します。
 この神道をホルトムは「State Shinto」と呼びました。これが「国家神道」の正体です。
 
 「何人を問わず今日の日本宗教界の支配的な動向を知ろうとするならば、近代の初めたる1867年以来進行を続けてきた国家神道の繁栄が驚くべき上昇をとげたことに、もつとも重要な手がかりを見出さなければならない」
 
 「このような情勢は1890年、教育勅語が発布されてから後の50年間に、絶えず発展を続けて来たものであるが、最近の10年間には、特に大きな刺激を与えられて、全く面目を一新した前代未聞の強力なものとなつた」
 
 「近代日本は祭政一致の土台の上に、慎重に建設された。1868年、神道は国教となり、その後は政治上の必要性に基いて、神道は国教にあらずと強力な反対の声明がなされたにもかかわらず、今日までずつと国家宗教の地位を保つている」
 
 ホルトムが国家神道と呼んだ思想は、加藤玄智の内面にのみ存在していました。それが拡大解釈され、慶応3年頃から国家神道的な要素が存在し、教育勅語で強化されたと云われるようになったのです。
 
 
 
 【東トルキスタン共和国の建国】
 昭和19年(1944年)、ウイグル族は「東トルキスタン共和国」を建国しました。
 
 
 
 【現人神 戦意高揚のための虚像】
 昭和19年7月、小磯国昭首相はラジオ演説で国民を鼓舞します。
 
 「天皇陛下は宇宙絶対の神に在しますこといまさら申すまでもなく」
 
 「この信念に立脚して億兆一心総力を発揮するとき、その結果は宇宙を貫く絶対力となってあらわれ」
 
 「ここに人類最高の道義は確立せられ、戦勝に必要なる物量も天佑神助とあいまっておのずから獲得せられ」
 
 戦局悪化に伴い、政府は思想の戦争利用を積極的に進めました。天皇陛下は「宇宙絶対の神」に在らせられ、国民が一丸となれば陛下の御神威によって日本は必ずや勝利する。この考え方は戦局悪化という極限状況で生まれたもので、それまでの大日本帝国の思想とはかけ離れたものです。
 天皇陛下は最も神に近い御方であり、日本の繁栄を神々に祈念される御立場に在られる。国民は神の御子孫という陛下の御血統と日本の歴史、伝統とを重んじ、皇室を扶翼することで国家を繁栄させていく。これが明治以来の日本の国柄です。
 国民の戦意高揚のため、政府は従来の思想を放棄。人種差別、植民地政策、共産主義、総力戦思想、ブロック経済、大東亜戦争。こうした脅威に対抗し、国民の思想を統合するため特異に発生した理論。それが「現人神」の正体です。
 政府が現人神思想を認め、実行力を持った期間は僅かに過ぎません。戦前の日本は国家神道を掲げ、一貫して軍国主義という道を歩んできた、という俗説が如何に間違っていることか。共産主義が生まれなければ、大東亜戦争が起こらなければ、現人神思想が広まることは無かったのです。
 
 
 
 【山下大将のマニラ派遣】
 昭和19年(1944年)10月、山下奉文大将がマニラに派遣されました。山下大将は劣勢の日本軍が米軍と戦うにはマニラを放棄し、山岳地帯にて応戦すべきと考えます。
 しかし、陸軍山下支隊と海軍防衛隊はマニラ防衛に固執。結果、マニラでは米軍の艦砲射撃によって6万人を超える民間人が命を落としました。
 
 
 
 【ダンバートン−オークス会議】
 昭和19年10月から11月にかけて米英中ソは「ダンバートン−オークス会議」を開き、後の連合国機関(国連)の具体案を審議しました。
 
 
 
 【レイテ島の放棄】
 昭和19年(1944年)10月、米軍がレイテ島に上陸。12月、米軍がミンドロ島に上陸すると日本軍はレイテ島を放棄しました。
 
 
 
 【神社本義】
 昭和19年、神祇院は「神社本義」を刊行。戦局悪化に伴い、神道会も思想面での強化政策を行うようになりました。
 
 「大日本帝国は、畏くも皇祖天照大神の肇め給うた国であつて、その神裔にあらせられる万世一系の天皇が、皇祖の神勅のまにまに、悠遠の古より無窮にしろしめし給ふ。これ万邦無比の我が国体である」
 
 「我が国にあつては、歴代の天皇は常に皇祖と御一体にあらせられ、現御神として神ながら御代しろしめし、宏大無辺の聖徳を垂れさせ給ひ、国民はこの仁慈の皇恩に浴して、かくて君民一致の比類なき一大家族国家を形成し、無窮に絶ゆることなき国家の生命が、生々発展し続けてゐる」
 
 
 
 【教科書の記述の変化】
 大東亜戦争後、教科書の記述は東亜親秩序、大東亜共栄圏の影響を受けました。
 
  【昭和14年 尋常小学修身書 巻六児童用】
 「我等国民が神と仰ぎ奉る天皇は、天照大神の御裔であらせられ、常に天照大神の御心を御心として国をお治めになられます」
 
 「天皇を神と仰ぎ奉ると共に、皇室を宗家といたゞき奉るのが、我が国の成り立ちの世界に比類のないところであります」
 
 昭和15年、小学児童用の日本史教科書に「天壌無窮の神勅」の文字が記載されます。同書は北畠親房の「神皇正統記」を載せ、日本が「神の国」であることを説いたと記しています。
 
  【昭和16年 小学国史下巻】
 「かくのごとき御盛徳の下に、わが国民は、天皇を現御神とも国の御親ともあふいで、身命をさゝげて世々忠誠をはげんで来た」
 
  【昭和17年 初等科修身一】
 「いま日本は、遠い昔、神様が国をおはじめになつた時の大きなみ心にしたがつて、世界の人々を正しくみちびかうとしてゐます」
 
  【昭和17年 ヨイコドモ下】
 「日本ヨイ国、キヨイ国、世界ニ一ツノ神ノ国 日本ヨイ国、強イ国、世界ニカガヤクエライ国」
 
 昭和18年、「八紘一宇」の言葉が教科書に掲載されます。神武天皇の大御心は日本のみならず、広く世界に向けて発せられたと記されました。
 
  【昭和18年 初等科修身三】
 「私たち日本の国民は、天皇を現御神と仰ぎたてまつるとともに、また皇室を宗家としていただいてゐるのであります」
 
 「わが大日本は、道の国であり、義の国であります。四海同胞のよしみを結んで一致協力し、ともにさかえ、ともに楽しむ世界平和をつくらうとする国であります。この精神は、み国のはじめから今日まで貫ぬいて、変るところがありません」
 
 「神武天皇は、大和の橿原に都をおさだめになつた時、「八紘を掩ひて宇と為む。」と仰せになつて、皇祖天照大神の大御心をおひろめになりました。御代御代の天皇は、この大御心のもと、皇化をあまねく四海にしくやうに、大みわざをおたてになつたのであります」
 
 「国史が文字でしるされる前、国史がことばでかたり伝へられる前から、神の国日本は続いてゐます」
 
  【昭和18年 初等国史上】
 「やがて天皇は、畝傍山のふもと、橿原に都をおさだめになり、この都を中心にして大神の御心をひろめようと思し召し、かしこくも「八紘を掩ひて宇と為む」と仰せになりました」
 
  【昭和18年 初等科国史下】
 「御恵みのもと、世々の国民は、天皇を現御神とあがめ、国の御親とおしたひ申し上げて、忠誠をはげんで来ました」
 
 歴史、伝統は戦争という危機的状況のなかで戦意高揚にしばしば用いられます。小磯演説や教科書の記述は当時の日本人の悲鳴と言えます。これは他国にも多く見られる現象です。
 
 
 
 【米軍のフィリピン上陸作戦】
 昭和20年(1945年)1月9日、米軍はフィリピン・リンガエン湾に上陸。2月3日、米軍はマニラに到達。第十四軍はマニラ市民に被害が及ばないように、マニラを無防備都市にしました。
 3月5日、米軍はマニラ方面での対日軍事作戦を終了しました。日本軍はフィリピン政府らと共に山岳地帯に逃れ、米軍との戦闘を継続。3月21日、ラウレルは日本に亡命します。7月31日、アルテミオ・リカルテはフィリピン山岳地帯の小屋で死去。80歳でした。彼は最後まで日本への亡命を拒み、米軍と戦ってフィリピンの独立を貫こうとしました。
 
 
 
 【ヤルタ会談】
 昭和20年(1945年)2月11日、「ヤルタ会談」が開かれました。ルーズベルト米国大統領は大連、旅順の権益をソ連に譲ると約束します。これはカイロ宣言を否定するものであり、カイロ宣言自体が成立していないことを示しています。
 ヤルタ会談でルーズベルト米国大統領、チャーチル英国首相、スターリン蘇連首相は「全ての戦争犯罪人を正当かつ迅速に処断する不動の方針」を表明。無論、全ての戦争犯罪人とは日独の将兵を指し、連合国将兵は含まれていません。
 また、会談ではポツダム公告(Proclamation)の決議に焦点が絞られました。チャーチル英国首相はカイロ宣言同様、ポツダム公告の署名を拒否します。これによってポツダム公告も成立せず、その内容は無効となりました。また、蒋介石は公告に領土返還(台湾など)の明記を求めませんでした。
 2月中旬、スェーデン・ストックホルム駐在武官であった小野寺信氏少将は、同じくスェーデン駐在武官であったフェリックス・ブルジェスクウィンスキーからヤルタ協定の情報を入手します。「ソヴィエトハナチス降伏後3ヶ月ヲ準備期間トシテ対日参戦スルトイフ密約ガデキタ」。
 小野寺少将婦人百合子はこの情報を大本営参謀本部次長秦彦三郎中将に宛てて打電。スェーデンが中立国であったため、日本の助けとなる情報がもたらされたのです。しかし、この電文が日本に届いた形跡はありません。その後の戦局を左右する重要な情報が届かなかったのです。
 
 
 
 【ルーズベルトの死】
 昭和20年4月12日、ルーズベルト米国大統領が死去します。トルーマン副大統領が大統領に就任しました。
 
 
 
 【ロンドン会議】
 昭和20年6月26日、連合国首脳部はロンドンで「ロンドン会議(軍事裁判に関する国際会議)」を開きます。ドイツは4月に降伏しており、連合国は降伏した国の将兵を捕らえてから、その罪状を論議したのです。これは罪刑法定主義を踏みにじる行為です。
 出席者はロバート・H・ジャクソン米国連邦最高裁判所判事、ジョウィット英国法務長官、ロベール・ファルコ仏蘭西大審院判事、I・ニキチェンコ蘇連最高裁判所副長官の4名。ロンドン会議で彼らは16回の論議を行いましたが、罪刑法定主義の違反、連合国間の法体系の相違(米英は英米法系、仏蘇は大陸法系)を埋めることは出来ません。フランスのファルコ判事は裁判そのものに消極的でした。一方、アメリカのジャクソン判事は枢軸国首脳陣を裁くことを強く訴えました。
 同年8月8日、「ロンドン協定(欧州枢軸諸国の重大戦争犯罪人の訴追及び処罰に関する協定)」が締結されます。ニュルンベルク条例はロンドン協定を基に起草されました。ニュルンベルク条例第6条は次の内容を戦争犯罪と認定し、個人的責任が成立するとしました。
 
 1.「平和に対する罪」、「人道に対する罪」。
 2.枢軸国指導者は即決処刑ではなく国際軍事裁判所方式によって処罰される。
 3.国家が犯したこれらの犯罪について、政府の責任者など戦争指導者と目される個人が刑事責任を追及される。
 4.「共同謀議」罪を導入する。
 
 共同謀議罪は英米法系の罪状であり、大陸法系には存在しない罪状です。フランス代表がそれを訴えると、英国代表はフランスも英米法系に倣えばよいと返答しました。法律は万人に平等に適応されるべきものであって、戦勝国将兵に罪状を適応せず、敗戦国将兵のみを裁くことなど許されません。ニュルンベルク条例は到底、法律とは言えません。
 そもそも、アメリカ合衆国の憲法第1条は「法なければ罪なく、法なければ罰なし(nullum crimen sine lege, nulla poena sine lege)」です。極東国際軍事法廷、ニュルンベルク裁判は公正と正義というアメリカの建国精神への冒涜なのです。ルーズベルトやトルーマンは自国の建国精神を踏みにじる行為を行ったのです。
 
 
 
 【ポツダム宣言】
 昭和20年7月26日、連合国は日本に対し、条件付降伏案「ポツダム宣言」を通告しました。
 日本政府はポツダム宣言の受諾の時期を議論し、「日本軍の無条件降伏を条件とする日本国の条件付降伏」が可能であるのか確認を急ぎました。日本軍はやむを得ず降伏するものの、日本政府は日本の存続を最後まで考え続けたのです。
 ドイツは連合国に対して完全な無条件降伏をしたため、カサブランカ会議に基づいた国家改変を余儀なくされました。
 
 
 
 【中ソ友好同盟条約】
 昭和20年(1945年)8月、「中ソ友好同盟条約」が締結されました。蒋介石はソ連への満州鉄道、港湾の権益委譲を認めました。
 
 
 
 【ポツダム宣言受諾の通知】
 昭和20年8月10日、日本政府は国体護持を条件としてポツダム宣言を受諾するとアメリカに通知します。しかし、アメリカからの返答に国体に関する文言はありませんでした。そのため、継戦派は国体護持のために戦争継続を主張しました。
 継続戦派の阿南大臣が辞任をして、陸軍省が後継を出さないとします。内閣が組織出来ないために停戦派の鈴木内閣は崩壊します。そして継戦派の人物が総理大臣に就任すれば、日本軍はアメリカが国体護持を保証するまで戦うことが出来ます。本土決戦に持ち込み、米軍に打撃を与え、より有利な条件で米軍と交渉する。これが継戦派の考えでした。本土決戦が行われる可能性は高かったのです。
 
 
 
 【昭和天皇と阿南惟幾】
 8月14日、「終戦の御前会議」が開かれました。昭和天皇陛下は各大臣が出席を拒まぬよう自らの御名で各大臣を招集なされました。
 会議の末に、遂に鈴木貫太郎総理大臣は昭和天皇陛下の御聖断を仰ぎました。昭和天皇陛下は後年、立憲君主としてのお立場を離れたことは昭和11年の2.26事件と、終戦の御聖断の2回しかないと回想なされています。
 陛下は阿南陸軍大臣に「我慢してほしい」と玉音を発せられました。静まりかえった会議室に、近臣のすすり泣く声が聞こえたと云います。阿南は陛下の玉音により、終戦の詔書への署名を決断しました。継戦派の竹下正彦中佐らは戦闘継続を訴えましたが、阿南は陛下の大御心に背くわけにはいかぬとして、これを断乎拒否します。
 詔書への署名の後、阿南は正装に着替え、鈴木貫太郎を訪ねました。そして、これまでの対立について謝罪しました。その瞬間、鈴木は阿南の自決の意志を確信したと云います。阿南は継戦を主張したことは最後まで国に尽くすためであり、偽りなく無私であったと述べました。
 陸軍大臣阿南惟幾が自決したのは昭和20年8月15日、終戦の日の未明のことです。
 
 「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 神州不滅ヲ確信シツツ」
 
 これが阿南惟幾の「血染めの遺書」です。割腹の際の鮮血により、遺書は赤く染まっていました。人はその死の間際に人間性が現れます。阿南は国体護持のため、血を吐くような思いで継戦を訴えていました。だからこそ、陛下の御心を乱したことと、終戦に際して戦争を僅かでも長引かせた責任を取り、自決をしたのです。昭和天皇は「阿南にはすまないことをした」とおっしゃったそうです。
 終戦の詔書の4番目の署名「陸軍大臣 阿南惟幾」。この一文をめぐり、このような経緯がありました。終戦の詔書について考えるとき、日本の未来と平和を案じた天皇陛下、鈴木貫太郎、阿南惟幾命について思いを馳せていただきたいと思います。
 
 
 
 【宮城事件】
 昭和20年8月15日未明、陸軍将校が昭和天皇弑逆、皇太子殿下(今上陛下)擁立を企てた「宮城事件」が起こりました。
 逆賊は玉音盤を奪い、偽命令を出すことで戦争を継続させようとしたのです。政変に反対する数名の将校が殺害されましたが、阿南陸軍大臣の死により計画は頓挫します。
 天皇陛下は御自ら継戦派将校の説得に赴かれました。陛下は「なぜ、私のせつない思いが伝わらないのか」とお嘆きでありました。事件を画策した田中軍司令官は失敗を悟り、将校に撤退を命じました。
 こうして玉音盤は守られ、玉音放送が行われました。宮城事件の首謀者は次々に自決しました。
 
 
 
 【終戦の詔】
 朕、深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ、非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ、茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク。
 朕ハ帝國政府ヲシテ、米英支蘇四國ニ對シ、其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨、通告セシメタリ。
抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ、萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ、皇祖皇宗ノ遺範ニシテ、朕ノ拳々措カサル所、曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ、亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ、他國ノ主權ヲ排シ、領土ヲ侵スカ如キハ、固ヨリ朕カ志ニアラス。
 然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ、朕カ陸海將兵ノ勇戰、朕カ百僚有司ノ勵精、朕カ一億衆庶ノ奉公、各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス、戰局必スシモ好轉セス、世界ノ大勢亦我ニ利アラス、加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ、頻ニ無辜ヲ殺傷シ、慘害ノ及フ所、眞ニ測ルヘカラサルニ至ル。
 而モ尚交戰ヲ繼續セムカ、終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス、延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ。
 斯ノ如クムハ、朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ、皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ。
 是レ朕カ帝國政府ヲシテ、共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ。
 朕ハ、帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ、遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス。
 帝國臣民ニシテ、戰陣ニ死シ職域ニ殉シ、非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ、五内爲ニ裂ク。
 且戰傷ヲ負ヒ、災禍ヲ蒙リ、家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ、朕ノ深ク軫念スル所ナリ。
 惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ、固ヨリ尋常ニアラス。爾臣民ノ衷情モ、朕善ク之ヲ知ル。
 然レトモ朕ハ、時運ノ趨ク所、堪ヘ難キヲ堪ヘ、忍ヒ難キヲ忍ヒ、以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス。
 朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ、忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ、常ニ爾臣民ト共ニ在リ。
若シ夫レ情ノ激スル所、濫ニ事端ヲ滋クシ、或ハ同胞排擠、互ニ時局ヲ亂リ、爲ニ大道ヲ誤リ、信義ヲ世界ニ失フカ如キハ、朕最モ之ヲ戒ム。
 宜シク擧國一家、子孫相傳ヘ、確ク神州ノ不滅ヲ信シ、任重クシテ道遠キヲ念ヒ、總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ、道義ヲ篤クシ、志操ヲ鞏クシ、誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ、世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ。
 爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ。
 御名御璽
 
 
 
 【蒋介石演説】
 8月15日、重慶で蒋介石演説が放送されました。玉音放送の始まる一時間ほど前のことです。蒋介石は日本の復興、戦後世界の安定への寄与を求めました。
 岡村寧次陸軍大将はこの演説の内容を知ると、翌16日には「和平直後における対支処理要綱」をまとめました。「この際、帝国は愈々宿志に徹し、日支間の行き懸りを一掃して、極力、支那を支援強化して以て将来における帝国の飛躍と東亜の復興に資す」。
 国民党は300個師団、300万人を動員できると公表していました。それが終戦当時には100個師団しか残っていません。3分の2が壊滅し、残りの軍勢は敗残兵を取り纏めただけの雑兵集団です。国民党上層部は派閥争いから内部崩壊しており、組織としての機能は著しく低下していましたた。日本は国民党との戦争に勝利する寸前だったのです。
 中共も主な軍事作戦はゲリラ戦のみで、大規模な戦闘を起こせるほどの軍事力は持っていませんでした。しかし、国民党の衰退、日本軍の撤退という好機を活かし、その勢力を増大させました。
 国民党は共産党に敗れ、大陸から台湾に逃れました。そして台湾の6割から8割もの資産を接収しました。台湾総督府の残した行政機構。日本人の残した109億9090万円分の私的財産。20万の軍勢を2年間維持するだけの軍事物資。軍用機889機、軍船525隻。231万トンもの食料。これらは国民党に収奪されました。
 しかし、支那人に近代化された台湾を統治することは困難でした。支那人は台湾人から財産を奪い取り、そのために社会制度や治安は著しく乱れました。各種産業の停滞は台湾人の生活水準を低下させました。
 
 
 
 【敗戦後も戦い続けた日本軍】
 昭和20年8月16日から18日にかけて、張家口北方で日本軍歩兵2500名とソ連軍1万名が交戦します。日本軍は70余名が戦死。ソ連軍は500名以上が戦死しました。装甲車を失ったソ連軍はそれ以上の追撃を諦めました。4倍の兵力を相手に戦い、これだけの戦果を挙げたのです。
 大東亜戦争のため主力部隊が南方に配備され、北方の守りが手薄になったと言われた日本軍ですが、兵士の末端に至るまでもが精強だったのです。
 
 
 
 【大東亜戦争敗戦】
 昭和20年8月26日、バーンズ米国国務長官とワイナント駐英大使はマッカーサー司令官に重大戦争犯罪者の名簿が作成中であると報告。8月29日、「連合国戦争犯罪委員会」、「極東国際軍事裁判所」の設置が勧告されました。8月30日、マッカーサー司令官が厚木飛行場に到着。エリオット・ソープ准将に重大戦争犯罪者の逮捕を命令します。
 昭和20年9月2日9時、東京湾に停泊した米国戦艦「ミズーリ」上にて、日米両国は停戦協定を締結。マッカーサーは調印式にて次の演説を行いました。
 
 「日本ハ吾人ノ条件ヲ以テ降伏シ吾人ハ之ヲ受諾ス。日本ハ右諸条件ヲ忠実且迅速ニ履行セサツヘカラサル処吾人ハ何等憎悪等ノ念ヲ抱クモノニアラスシテ世界ニ真ノ平和恢復セラレ自由ト寛容ト正義ノ遵奉セラレンコトヲ期待ス。茲ニ日本全権ノ署名ヲ煩ハシタシ」
 
 そして、昭和天皇は「ポツダム宣言誓約履行の詔書」を発されました。同日16時、終戦連絡事務局長鈴木九萬公使はニューグランドホテルのGHQ総司令部に呼び出され、調印式での演説を完全に反故とする「総司令部布告」を通知されました。
 
 「日本帝国政府ノ連合国軍ニ対スル無条件降伏ニヨリ日本国軍ト連合国軍トノ長期ニ亘リ行ワレタル武力紛争ハ茲ニ終局ヲ告ケタリ」。
 
 昭和20年9月6日、トルーマン米国大統領はマッカーサーに対し、日本との関係は日本政府の無条件降伏を基礎とし、貴官の権限は最高であるとの通達を出しました。トルーマンはポツダム宣言の内容を破棄し、日本政府から全ての権限を奪いました。9月11日、GHQは東条英機陸軍大将ら39名を逮捕します。
 昭和20年9月22日、米国政府は「降伏後における米国の対日初期方針(United States Initial Post-Surrender Policy for Japan)」を発表。第一部「究極の目的(Ultimate Objectives)」は「日本国が再び米国の脅威、または世界の平和および安全の脅威とならざることを確実にすること」、「他国家の権利を尊重し、国際連合憲章の理解と原則に示されたる米国の目的を支持すべき、平和的かつ責任ある政府を、究極に置いて擁立すること」でした。
 
 
 
 【日米停戦協定書(米国曰く降伏文書)の矛盾点】
 日米停戦協定書には様々な矛盾点があります。下記にその要点をまとめます。
 
 第6項「日本国国民を欺瞞し誤導して世界征服の挙に出でしめたる者の権力及び勢力は永久に除去せられざるべからず」
 日本政府の世界征服野望説は連合国の妄想。個人の権力の排除ではなく、国家改変を行ったことは協定違反。
 第7項「連合国の追って指定すべき日本国領域内の諸地点は、吾等が茲に指示する根本的目的の達成を確保する為占領せらるべし」
 日本国領域内の諸地点ではなく
日本国全領域を占領したため、連合軍は協定に違反したと断言出来ます。
 第8項「カイロ宣言の条項は履行せらるべし」
 カイロ宣言自体が無効であるため、第8項は全くの無効です。
 第8項「日本国の主権は、本州、北海道、九州及び四国並に吾等の決定する諸小島に局限せらるべし」
 昭和16年(1941年)8月の大西洋憲章第2項「関係国民の自由に表明せる希望と一致せざる、領土的変更の行われることを欲せず」に違反します。戦後処理での領土割譲は仕方のないことですが、戦勝国が敗戦国の領土を自由に分断するなど戦時国際法に明記されていない重大な違法行為です。まして千島、樺太のソヴィエト領有を認めたヤルタ秘密協定を認めれば、秘密協定という不透明な条約で国家間の領土を決めても良いということになります。
 第9項「日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し平和的且つ生産的なる生活を営むの機会を得しめらるべし」
 ソヴィエトによる「シベリア抑留」、イギリスによる捕虜の不当就労など、連合国は日本国軍人及び民間人の平和的生活を大いに阻害しました。
 第10項「吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳格なる裁判が行はるべし」
 A級戦犯の罪状とされた「平和に対する罪」は敗戦当時、戦時国際法として認められていません。罪刑法定主義を無視した事後法です。被告とされた方々は厳格な裁判を受ける権利を有していましたが、連合国による報復裁判を受けることになったのです。
 第10項「日本国政府は日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去すべし」
 日本政府は大日本帝国憲法において保障された憲君主制議会政治、議会制民主主義の維持を考えていました。しかし、GHQは敗戦憲法(日本国憲法)を日本国民に押しつけました。これは日米停戦協定だけでなく、ハーグ陸戦法規第43条「占領地の法律の遵守」にも違反します。
 第10項「吾等は日本人を民族として奴隷化せんとし、又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ず」
 GHQは日本政府、日本国民に完全なる隷属を要求します。昭和20年9月22日、米国政府が発表したは「降伏後における米国の対日初期方針」の第一部「究極の目的」は、日本に米国の従属政権を樹立させることでした。
 第10項「言論、宗教及び思想の自由並に基本的人権の尊重は確立せらるべし」
 GHQは日本政府、日本国民の占領政策に対する批判を許さず、日本の伝統的信仰、道徳心である神道を弾圧しました。昭和20年9月19日、GHQは日本国の情報検閲を定めた「対日プレス・コード」を発表。SCAP(GHQ)批判、極東国際軍事法廷の批判、SCAPによる日本国憲法起草の批判、検閲制度への言及、米国への批判、ソヴィエトに対する批判、イギリスに対する批判、朝鮮に対する批判、支那に対する批判、他の連合国への批判、占領政策の批判、戦争弁護の禁止、大東亜に関する宣伝の禁止、戦争犯罪者の弁護の禁止など、30項目の検閲方針を定めました。今日も朝日新聞社などの報道各社は自虐史観でしか大東亜戦争を語りません。共産主義者の影響もあるにせよ、未だにGHQの検閲の影響から抜け切れていないのです。
 第10項「日本は其の経済を支え且つ公正なる実物賠償の取立を可能ならしむるが如き産業を維持することを許さるべし」
 日本から連合国に賠償請求を求めることは認められません。さらにGHQは財閥の解体によって日本の工業力を奪おうとしました。GHQは朝鮮戦争勃発まで日本を無戦力農耕国とする構想を抱いていました。ドイツにも同じ事が言えます。モーゲンソー米国財務長官はドイツの工業力を解体し、農耕と牧畜を主産業とする国家への改変を考えていました。ドイツに対するこの案は撤回されました。
 
 
 
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