明治維新までの国際情勢
 
 
 
 【外交国選択政策】
 江戸幕府は外交国を選択して貿易を行う政策を執りました。決して外国との関係を断ってはいません。それがなぜ、「鎖国」という言葉が使われ、江戸時代は国を閉ざしていたと誤認されたのでしょうか。
 1690年9月25日、ドイツ人エンゲルベルト・ケンペルがオランダ商館に雇われ、平戸に来航します。1733年、ケンペルは鎖国論の元となる「The History of Japan」を記しました。そのなかに「keep it shut up」という言葉が使われます。
 「The History of Japan」は蘭訳され、通訳志筑忠雄が「日本誌」という書名で和訳し、「keep it shut up」という言葉を「鎖国論」と呼びました。
 後に鎖国という表現は攘夷思想と結びつき、江戸時代は国を閉ざした時代という印象が生まれました。これが鎖国の由来です。しかし、幕府が採用した政策は外交国選択政策であり、国を閉ざすような政策は行っていません。
 ケンペル自身も日本が閉鎖的な国とは考えていません。逆に日本のような国は外交の必要性が少ないのではないかと推察しています。
 ケンペルは交易によって人々が友好関係を築き、扶助しあうことこそ神意にかなうと考えていました。この論理からすると、江戸幕府の外交国選択政策は不当なものになります。
 しかし、ケンペルは四方を荒海で囲まれた日本では貿易が難しいと考えました。国内需要は国内生産によって、ある程度は満たされています。日本人が勤勉であることも挙げ、貿易に頼らなくても国を治めることが出来ると記しました。
 また、徳川家が基督教の普及によって国が乱れる事を懸念し、禁令を発布した事に理解を示しました。基督教禁令は国内の安定を保つために必要な処置であり、宗教戦争を防ぐための政策だったのです。
 このように、ケンペル自身は外交国選択政策を肯定しました。「日本誌」が西洋で高い評価を受け、幕末のペリーやハリスも日本への知識を深めるために同書を活用しています。
 一部の西洋人は外交国選択政策が時代遅れになる可能性を悟り、日本に外交の幅を広げるよう助言しました。
 
 
 
 【風説書による情報収集】
 幕府はオランダに対し、西洋の情勢を記した「風説書」の提出を求めます。オランダからの風説書は「阿蘭陀風説書」、支那からの風説書は「唐船風説書」と呼ばれました。風説書によって西洋の情報が幕府に届けられました。
 
 
 
 【ベニョフスキーの逃亡】
 ハンガリー人ベニョフスキーはポーランド軍に加わり、ロシア軍と交戦。捕虜となってカムチャッカ半島に送られました。
 明和8年(1771年)、ベニョフスキーは船を奪い、千島列島から奄美を経てマカオに逃れます。そこからフランスへと渡りました。
 途中、ベニョフスキーは長崎のオランダ商館長にロシアの南下政策を伝えています。これが幕府にも伝えられ、蝦夷の防衛策が検討されるようになりました。
 
 
 
 【田沼意次の蝦夷開拓構想】
 江戸時代中期、田沼意次は外交国選択政策を放棄し、広く海外との貿易を行おうと考えていました。田沼意次は幕府の財政再建のため商業を保護し、そこから間接税を徴収しています。もはや年貢に頼るような時代ではなく、幕府が税に対する意識を変えなければならないと考えたのです。
 田沼に反対する勢力は、こうした政策は従来の政策に合致しないと強弁。祖法を敬う儒学の毒が幕府に浸透していました。後世、田沼意次は汚職の代名詞という悪名を被りますが、それは田沼に反対する意見を持つ者が大勢いたためです。
 「古今百代草叢書」には、田沼意次の賄賂政治を揶揄した「まかない鳥」が書かれていると云われます。しかし、これが本当に田沼を揶揄したものかは分かりません。文面、絵とも田沼に結びつくようなものが無いのです。そもそも田沼が賄賂政治をしたという史料は無いのです。
 一応、松平出羽守が将軍に鰤を献上するとき、その取次料として田沼に鰤2尾を贈ったという史料は残っています。しかし、これは賄賂ではなく取次料です。つまり、田沼の汚職とは失脚後に作られた話なのです。
 田沼の不幸は在任中に天災が多発したことです。天明3年、浅間山が噴火。天明の大飢饉の要因になりました。これを田沼の失政によるものという落書が江戸に溢れました。誰かを悪玉にしなければならないほど人々の心が荒んだのでしょう。
 そして、こうした人々の中心に松平定信がいました。松平定信の田沼嫌いは常軌を逸しています。田沼刺殺のために懐剣を隠し持ったと云われるほどです。
 天明3年(1783年)、白河11万石の領主となった松平定信は、大飢饉に際して倹約策を実行します。各地から購入した食料を使い、領民から餓死者を出すことはありませんでした。さらに桑、漆、楮などの農作物を育成。徳川吉宗の孫という血統に、傑出した政治家という評判が加わりました。
 田沼意次に権力を奪われたと逆恨みした者は、松平定信の台頭を待ち望みます。官の側は田沼排除、民の側は悪玉糾弾という形で結びつき、後世に伝えられた田沼意次の人物像が出来上がったのです。
 こうした反対勢力と対立しながら、田沼は海外貿易を行うために尽力しました。
 天明年間頃、工藤平助は「赤蝦夷風説考」を記しました。赤蝦夷とはロシア人のことであり、ロシアから日本を守らなければならないと訴えたのです。天明3年、勘定奉行松本秀持は田沼意次に「赤蝦夷風説考」を献上。蝦夷では日本人商人(アイヌも含む)と赤蝦夷(ロシア人)が密貿易をしていると書かれていました。
 著者の仙台藩医師工藤平助は赤蝦夷が食料、薪炭などを求めているとして、貿易を公認したほうが国防上の利益になると提案します。
 蝦夷の情勢を知った田沼は、蝦夷を開拓して貿易の拠点にしようと考えます。
 また、オランダ商館長イサーク・チチングは日本での洋式船の建造を考えていました。日本側もチチングの意見に賛成。バタビアから船大工を招くよう求めます。しかし、オランダはイギリスと戦争中であり、貴重な船大工を減らすわけにはいきません。逆に日本人をバタビアに送ってはどうかと提案しました。
 幕閣はこれに反対。チチングは諦めずにバタビアから洋式船の設計図、模型、地図、書籍を日本に送ります。この資料を参考に、田沼意次は洋式船の建設に取りかかりました。
 日本製の洋式船で蝦夷の海産物を海外に輸出する。鮑、昆布、海鼠は支那への輸出品にする。貿易の対価として金銀を受け取れば、日本から流出した金銀を取り戻すことが出来る。田沼の夢を大きく広がりました。
 田沼には協力者もいました。長男田沼意知、長崎奉行久世丹後守、平賀源内らは田沼の思想に共感しました。田沼意知は洋式船の建造に従事しました。久世丹後守は蝦夷の海産物を長崎に集め、貿易の中継地とするという田沼の構想を助けます。平賀源内は輸入品の国産化を進め、金銀の流出を防ごうとしました。こうした人物に支えられながら、田沼は幕府の改革を断行しようとしたのです。
 天明4年(1784年)3月、田沼意知が旗本佐野政言に殺害されました。田沼の汚職が原因とする説、政敵による暗殺説が飛び交うなか、「鉢植えて 梅か桜と 咲く花を 誰たきつけて 佐野に斬らせた」という落首も詠まれています
 チチングは田沼意知暗殺を幕閣の仕業と断定し、これによって自由貿易の道が閉ざされたと悲観しました。
 こうした中でも洋式船の建設は続けられます。天明5年(1785年)、1500石級の俵物(海産物)廻船が完成。「三国丸」です。三国とは日本、支那、オランダを指します。ジャンク、西洋船の利点を取り入れた日本船によって、広く海外と貿易を行うという意味が込められています。三国丸の建造には船大工のべ6000名が参加し、銀159貫が費やされました。三国丸の画像は石川県立図書館に保管されています。
 天明6年(1786年)2月、田沼は蝦夷に7万人の移民を送るという計画を立てました。移民による蝦夷開拓によって日本は大きな利益を得る事が出来ます。また、蝦夷の防衛について本格的な議論も起こるでしょう。田沼にとって生涯を賭けた夢が叶おうとしていたのです。
 しかし、蝦夷開拓は中止されました。同年、田沼は松平定信らの暗躍によって失脚し、蟄居の身になったのです。
 天明8年(1788年)7月24日、田沼意次は70歳で没しました。
 
 「やみの夜に 光かがやく 七つ星 夜明けてみれば 跡かたもなし」
 
 幕末、内藤阿波守はこの時代に松平定信、田沼意次がいたら、と夢想しています。松平定信では旧例を引くばかりで変革は出来ません。田沼意次であれば英雄無量の決断をする、と内藤阿波守は考えたのです。
 今日も田沼意次は田沼稲荷に祀られ、地元の人々の尊敬を集めています。
 
 
 
 【ラスクマンの通商要求】
 寛政4年(1792年)、ロシアのエカテリーナ女帝はラスクマンを使者として日本に派遣します。その際、ロシアに漂着していた伊勢白子の船頭大黒屋光太夫らを帰国させました。
 ラスクマンは日本に通商を求めます。当時、漂流民の送還は通商交渉に向けた足がかりになっていました。幕府はラスクマンに対し、長崎にて入港許可証を与えると伝えました。
 
 
 
 【イギリスによる蝦夷の測量】
 寛政8年(1796年)、英国人ブロートンは室蘭近海の海図を作成するため、測量を行いました。
 
 
 
 【東蝦夷の直轄地化】
 寛政10年(1798年)、幕府は近藤重蔵、最上徳内を千島列島に派遣。得撫島まで探索させました。
 寛政11年(1799年)、幕府は東蝦夷を直轄地にします。享和2年(1802年)、函館奉行が設置されました。
 
 
 
 【レザノフの通商要求】
 文化元年(1804年)、ロシア公使レザノフが長崎に来航し、幕府に通商を求めました。幕府はこれを拒否します。理由は琉球、オランダ、朝鮮、清以外の国とは通商を結ばないという慣習法があるというものでした。レザノフは帰路、日本に対して武力で通商を認めさせるべきだと考えました。
 
 
 
 【フヴォストフ事件と蝦夷全土の直轄地化】
 文化3年(1806年)、ロシア艦隊が樺太、択捉島を攻撃します。択捉島の守備兵はロシア海軍に敗れました。これを「フヴォストフ事件」と言います。
 日本国内は緊張した雰囲気に包まれました。文化4年(1807年)、幕府は蝦夷全土を直轄地とし、松前奉行を置きました。
 
 
 
 【間宮海峡】
 文化5年(1808年)、幕府は間宮林蔵に樺太探索を命じます。蝦夷の地理は不明確であり、防衛に支障を来すと考えられたのです。樺太と沿海州にある海峡は、間宮の功績を讃えるために「間宮海峡」と名付けられました。
 
 
 
 【ゴローニン事件】
 文化8年(1811年)、ロシアの軍艦が国後島に上陸。幕府は艦長のゴローニンを捕らえ、無断で国後島を測量したとして拘束しました。ゴローニンの身柄は函館、松前に移されます。拘束期間は2年3ヶ月に及びました。
 文化9年(1812年)、ロシアは前年のゴローニン拘束の報復として、淡路の商人高田屋嘉兵衛を拘束します。文化10年(1813年)、ロシアは国後島上陸の件について、海軍の独断によるものと幕府に説明。幕府はゴローニンを釈放し、ロシアも高田嘉兵衛を釈放しました。
 
 
 
 【オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフと長崎との交流】
 文化11年(1814年)12月、オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフは帰国に際し、日本に残した家族が無事に暮らしていけるよう長崎奉行所に嘆願します。文化5年(1808年)、ドゥーフは、長崎新橋町の町人土井徳兵衛の娘「よう」との間に男児をもうけていました。この男児は後に道富丈吉を名乗ります。
 幕府はロシアから外交使節が来ると、その通訳や文書の翻訳をドゥーフに命じました。この功績から、数度に渡って褒美を賜っています。また、将軍に3度も拝謁するなど厚遇を受けていました。
 そのドゥーフの頼みですから、長崎奉行所は男児の養育を快諾します。ドゥーフも白砂糖三百俵を長崎会所に贈り、その代価のうちから銀四貫が毎年、丈吉に支給されるよう手配しました。また、丈吉が成人してから目利(貿易品の価値鑑定)など、通詞とは関係のない職に就けるように嘆願書を出しています。幕府も丈吉を奉公人に取り立てることを約束しました。ドゥーフはこれを大変に喜んだと云います。
 文化14年(1817年)、ドゥーフの帰国が近づくと、長崎奉行はドゥーフを奉行所に招きます。そこで、長年に渡る功績を幕府が認めてくれたと慰労し、丁銀50枚を贈りました。
 道富丈吉は文政4年(1821年)、唐物目利として登用されました。なお、道富丈吉の出自を記した「道富丈吉由来書」は「通航一覧」に載せられています。
 
 
 
 【オランダ商館長スツルレルの献言】
 文政9年(1826年)、オランダ商館長スツルレルは、幕府天文方高橋景保と会談。日本の外交国選択政策に理解を示した上で、海の国にしては海軍が無く、しかも友好国までも制限してしまっては外患を防ぐことは出来ないと伝えます。
 
 
 
 【モリソン号来航事件】
 天保8年(1837年)、広州にあるアメリカ貿易商社は漂流した日本人7名を保護。彼等をモリソン号で日本に送り届け、それを切っ掛けに幕府との信頼関係を構築。日本との貿易を始めようと考えました。
 モリソン号は非武装のまま浦賀に入港しようとしますが、幕府はモリソン号に攻撃を加えます。そこでモリソン号は鳥羽に入港しようとしましたが、波の高さが懸念されて中止。薩摩山川への入港を試みます。しかし、山川でも砲撃を受けたため澳門に逃れました。
 
 
 
 【阿片戦争】
 天保11年(1840年)、清とイギリスとの間で阿片戦争が勃発しました。
 紅茶はイギリスに深く浸透しましたが、イギリスでは茶を栽培することは出来ません。茶は清、インド、セイロンから輸入しなければならないのです。紅茶に入れる砂糖は西インド諸島、ジャワから輸入されます。イギリスはこれらの国々に進出し、植民地にしました。その目的の一つは茶と砂糖を恒久的に得るためだったのです。
 イギリス国内での茶の需要は増加する一方ですが、その支払いのためにイギリスから多額の銀が流出しました。清への銀の支払いを惜しんだイギリスは、清で阿片が薬として使われていることに着目。インドで阿片を生産し、これを清に輸出します。清は膨大な数の阿片中毒者が出た事に激怒し、イギリスを征伐しようと考えます。
 また、清は夷族であるイギリスが皇帝の聖徳を慕い、支那を訪れたと考えていました。しかし、イギリスは皇帝への服従を拒否します。このような無礼な夷族は懲罰しなければなりません。
 こうして清はイギリスに対して開戦。「阿片戦争」が勃発しました。
 清軍はイギリス軍の近代兵器を先進技術ではなく呪術と考えました。占いで攻撃の時刻を決めることは勿論、砲撃を防ぐために女性用の便器である馬桶を敵前に並べたり、鬼神の装いでイギリス軍を驚かそうとしました。
 民衆には黒夷(黒人兵士)1人を捕らえれば50両。白夷(白人兵士)1人を捕らえれば100両。夷将を討てば500両。敵艦1隻を沈めれば5000両の恩賞を出すと伝えました。
 この程度の防衛意識しかなかったため、清は1000名程度のイギリス軍に敗北。北京は陥落します。
 阿片戦争敗戦後も清は体制を見直そうとしません。夷を以て夷を制するにはどうするべきか、西洋人に皇帝の聖徳を知らしめるにはどうすれば良いかが論じられる一方、イギリスのような国を作る方法などは全く議論されません。この閉鎖的な思考によって清は時代に取り残されました。
 
 
 
 【阿片戦争が日本に与えた影響】
 高島秋帆は天保11年(1840年)10月、オランダなどの風説書から阿片戦争でイギリスが勝つと予言しました。そして、日本も大砲の開発や砲術の訓練を行うべきと考え、自らその先頭に立とうと尽力します。
 後に儒学者佐久間象山は儒学を捨て、高島流砲術や外国語を学んでいます。佐久間は自ら洋書の翻訳や、大砲の鋳造を行いました。
 水戸藩主徳川斉昭は清が阿片戦争に敗れたと知ると、将軍家の日光参拝を中止して、その費用で軍事力を増強すべきと提案します。
 吉田松陰が阿片戦争を知ったのは、16歳の時です。長州藩士山田亦助が吉田に戦争の経緯を語ったのです。吉田は19歳で山鹿流の師範になりますが、長崎で外国船を見ると旧来の兵法では勝てないと痛感。積極的に洋学を学びました。
 
 
 
 【南京条約】
 天保13年(1842年)8月、アヘン戦争の講和のために「南京条約」が締結にされます。その際、清の代表は「大清」と署名しました。国家間の条約であるため国号を用いますが、清は仮の国号として朝廷の名を使用したのです。迂闊に国号を決めてしまえば、それは自ら中華の地位を放棄したことになります。こうした考えがあったため、支那人は長く国家意識を持つことがなかったのです。
 
 
 
 【天保薪水給与令】
 天保13年(1842年)、「天保薪水給与令」が出されます。
 
 
 
 【フランス船来航事件】
 弘化元年(1844年)、フランス船一隻が釧路厚岸に来航。恐らく捕鯨船だったと思われます。船は食料の供給を受け、2日後に出航。フランス人は礼金として銀を支払おうとしましたが、住民らは交易禁止令のため銀の受け取りを拒否しました。
 
 
 
 【オランダ国王の親書】
 弘化元年(1844年)、オランダ国王ウィレム2世は幕府に親書を送り、欧米との貿易を行うよう促しました。その中で、蒸気船の誕生により各国の距離は狭まり、日本がこれまで通り外交国を制限しても利益はないと助言しています。
 弘化二年(1845年)、幕府は他国との通商には応じないとの返書をウィレム2世に送りました。
 
 
 
 【ビットル司令官の来日】
 弘化3年(1846年)、米国東インド艦隊司令官ビットルが浦賀に来航。日本に通商を求めました。幕府はこの要求を拒否します。
 日本は米国と清の間に位置し、貿易の中継地に適しています。当時の欧米では鯨から脂を取る事が一般的で、太平洋全域で捕鯨を行うには日本に捕鯨船の寄港地を求める必要がありました。
 
 
 
 【渡米経験者に対する日清の違い】
 弘化4年(1847年)、アメリカ人牧師は容という支那人をアメリカに留学させます。容はエール大学に入学。嘉永7年(1855年)に帰国しました。
 しかし、清は容を重用することはなく、上海税関で通訳をさせるだけでした。清は中華思想という病に冒され、渡米経験者を重用するという発想が生まれません。
 一方、江戸幕府はジョン万次郎を重用し、アメリカの情勢を聞き出しています。こうした違いが積み重なり、日本は明治維新に成功し、清は没落を余儀なくされたのです。
 
 
 
 【東方に進出するロシア帝国】
 弘化4年(1847年)、ロシア帝国皇帝ニコライ1世はムラヴィヨフを初代東シベリア総督に任命。不凍港を求め、東方に攻め込んだ。阿片戦争に影響されたと云われます。
 
 
 
 【共産党宣言】
 嘉永元年(1848年)、「共産党宣言(Manifest・der・Kommunistiscner・Partei)」が発表されます。
 
 
 
 【五島列島、蝦夷の防衛】
 嘉永2年(1849年)7月10日、幕府は異国船への備えから五島の領主五島盛成に築城を許可します。また、蝦夷松前藩も同時に築城を許されました。
 松前城の築城は順調でしたが、福江城は資金難などから工事が遅れました。その間、五島の役人と大工が松前藩まで築城視察を行っています。松前城は安政元年、福江城は文久3年に完成しました。
 
 
 
 【海図図志】
 嘉永5年(1852年)、清の林則徐が訳し、魏源が編集した「海国図志」が日本に紹介されます。日本人はこの本に飛びつき、わずか数年で21種類もの選定版が出されました。
 しかし、清ではこの本が読まれることはありません。海外情勢が科挙の試験には出ないことから、無用と見なされたのです。この様に清は新たな知識の吸収を拒み続けました。
 
 
 
 【ペリー艦隊の来航】
 嘉永6年(1853年)6月3日、浦賀奉行所に異形の艦隊が現れたとの報告が舞い込みます。米国東インド艦隊司令官ペリー提督率いる艦隊でした。「黒船来航」です。
 蒸気船は旗艦「サスクェハナ」、「ミシシッピー」の2隻。「サラトガ」、「プリマウス」の2隻は帆船です。同日夕刻、艦隊は浦賀沖に投錨。浦賀奉行所与力中島三郎助が艦隊との交渉の任に当たりました。
 中島は通詞掘達之助と共に「サスクェハナ」に乗り、ペリー提督と会談。ペリーはフィルモア大統領の親書を渡すために来日したと中島に告げます。
 中島は慣例に従い、長崎奉行所に親書を提出するよう求めました。しかし、ペリー提督はあくまでも浦賀で親書を渡すと述べ、受け取りを拒めば攻撃も辞さないと主張します。
 この間、近隣諸藩は戦闘準備に奔走しました。黒船はペリーの提案によって「ボンベ・カノン」を搭載。これはフランスの海軍士官ペグサンの開発した大砲で、弾に火薬を入れることで目標物を炎上させることが出来ました。日本の大砲は小さな弾が目標に当たるだけで、目標を炎上させることは出来ません。
 幕府が黒船に攻撃を仕掛けたとします。城下町の木造家屋はボンベ・カノンによって炎上。海戦を挑めば日本の木造船は炎上します。
 しかも、黒船を沈めてもアメリカ本国の受ける打撃は限定されます。一方、日本は黒船を沈めるために多大な犠牲を必要とし、さらに報復攻撃の覚悟を持たなければなりません。陸海戦とも幕府は決定的に不利なのです。
 幕府はすでにボンベ・カノンの情報を得ており、これまでの黒船とは戦力が違うと認識。黒船への武力行使は遂に行われませんでした。アメリカ人は日本人がボンベ・カノンの知識を有していたことに驚いたと云います。
 幕閣は戦争を避けるため、久里浜にて親書を受け取ることにします。6月9日、久里浜にて林復斎、戸田氏栄らはペリーと会談。ペリーは会談に際し、艦隊に砲撃の演習を命じました。幕府の心変わりを防ぐため、武力で牽制したのです。林らは速断は避けたいとペリーに伝えます。そのため、ペリーは翌年に再び来航すると告げて日本を離れました。
 この時、ペリーは艦隊に江戸湾の測量を命じました。測量をすれば商船だけでなく軍艦の航行も容易になります。江戸攻撃の準備を兼ねていたのです。
 
 
 
 【ブーチャーチンの来航】
 嘉永6年(1853年)、ペリーの来航直後、ロシア使節プーチャーチンが長崎に来航。幕府に通商と国境の確定を求めました。
 
 
 
 【日米和親条約】
 安政元年(1854年)1月16日、9隻の外国船が浦賀に来航。ペリー提督率いる艦隊でした。幕府はこれ以上、ペリーの要求を拒むことは出来ないと判断。3月、「日米和親条約」が締結されました。
 
 
 
 【日露和親条約】
 安政元年(1854年)、「日露和親条約」が締結。同条約では択捉島、得撫島の両島間を日露の国境としていました。樺太は日露両国民の雑居地区でしたが、やがて島民同士が紛争を起こすようになります。
 
 
 
 【初代駐日総領事ハリス】
 安政3年(1856年)7月、ハリスが下田に来航し、アメリカ総領事館の初代駐日総領事に就任します。
 
 
 
 【ハリスの献言】
 安政4年(1857年)12月12日、ハリスは老中堀田備前守に対し、蒸気船や電信によって世界情勢は変わったと伝えました。
 そして、西洋ではすでに宗教戦争は存在せず、幕府転覆のために布教をする者もいないと説明。各国は貿易によって友好を深めていると諭します。
 当時の西洋社会は植民地化政策を進めており、ハリスの意見の全てが正しいわけではありません。しかし、それでもハリスらは理を持って日本と友好関係を結ぼうとしたのです。
 こうした助言が正しかったことは、後の幕末の動乱、そして明治維新によって証明されています。助言を受けいれ、早々に外交姿勢を改めていれば、日本が不平等条約を結ぶこともなく、むしろ国際的な地位を高めていた可能性もあります。幕府は時代の潮流を見誤ってしまったのです。
 
 
 
 【鉄道敷設権の供与】
 安政4年(1857年)12月23日、幕府は江戸、横浜間の鉄道敷設権をアメリカに供与。後に明治政府は敷設権供与は無効であると宣言しました。
 
 
 
 【北京条約】
 安政5年(1858年)、アロー号事件が起こります。清はイギリス、フランスに敗北し、「北京条約」を締結。ロシアはその仲介役になりました。
 
 
 
 【日米修好通商条約】
 ハリスはイギリス、フランスの脅威を幕府に説き、通商条約を結ぶよう求めます。安政5年(1858年)6月、井伊直弼は国防のため「日米修好通商条約」の締結に踏み切りました。
 しかし、多くの武士が屈辱外交として井伊直弼を批判しました。
 
 
 
 【安政の大獄】
 安政5年9月、「安政の大獄」によって100余名が処罰されます。日米修好通商条約に反対する者が対象になりました。
 水戸藩主徳川慶篤は江戸登城停止。一橋家当主徳川慶信、尾張藩主徳川慶勝、越前藩主松平慶永、土佐藩主山内豊信は隠居。軍艦奉行永井尚志、勘定奉行川路聖謨も隠居。長州藩士吉田松陰、越前藩士橋本左内は死罪に処せられました。
 
 
 
 【咸臨丸、出港】
 安政7年(1860年)1月、日米修好通商条約批准のため81名の使者がアメリカへ派遣されました。正使は外国奉行新見正興。副使は小栗忠順と村垣範正です。
 彼らはアメリカの用意した船「ポーハタン」に乗り、品川沖から出航。この時、幕府は「咸臨丸」を使節団に随行させました。艦長は勝海舟、軍艦奉行は木村喜毅です。通訳は福沢諭吉、中浜万次郎。総勢96名を乗せた「咸臨丸」は浦賀を出航しました。勝海舟は航海の無事を祈り、出航前に断食をしたと伝わります。
 ちなみに、当初は「咸臨丸」ではなく「観光丸」が出航する予定でした。「観光丸」は400トンと「咸臨丸」より大きく、150馬力の蒸気機関で航行が可能です。使節団に同行するブルック大尉は航海直前に「観光丸」を検査しました。すると、予想以上に老朽な船で、汽罐の状態も悪いことが判明。幕府に船を替えるよう求めました。幕府はこれを受け入れ、安政6年12月24日、「咸臨丸」を随行船に選定しました。積荷の移動が慌ただしく行われたことは言うまでもありません。
 また、中浜万次郎の随行に関しても議論がありました。幕府は「意外ノ弊害モ生ベキ掛念」があるとして、別の通訳を立てるつもりでした。木村摂津守はこれに強く反対。中浜は語学に長けるだけでなく、航海士としても1級の人物です。木村は中浜のような人物を随行させず、誰を随行させるのかと強弁します。安政6年12月28日、「咸臨丸」の乗組員が確定しました。木村の努力が実を結び、中浜万次郎も随行が認められました。
 安政7年5月5日、使節団は帰国しました。
 
 
 
 【桜田門外の変】
 万延元年(1860年)3月、江戸城桜田門外で老中井伊直弼が水戸藩士に殺害されます。「桜田門外の変」です。安政の大獄に対する激しい憤りが動機でした。
 
 
 
 【東学党の結成】
 万延元年(1860年)、朝鮮の崔済愚(水雲大師)は「東学党」を興します。これは朝鮮古来の民間宗教、儒教、仏教、道教などを融合させた宗教で、キリスト教に対抗して興されました。「萬民平等」を旨としており、朝鮮の腐敗した両班支配体制と対立する組織です。
 
 
 
 【露清北京条約】
 万延元年(1860年)、北京条約締結の見返りとして、ロシアと清は「露清北京条約」を締結。ロシアはウスリー江の東部沿岸地帯を併合しました。
 同年、ロシア帝国はウラジオストクに念願の不凍港を得ました。ウラジオストクとは、ウオストーク・ウラジ(東方制圧)を意味します。
 
 
 
 【アメリカへの茶葉の輸出】
 幕末からイギリスへの茶の輸出が行われましたが、イギリスでは緑茶は普及しません。そこで江戸幕府はアメリカに茶を輸出することにしました。万延元年(1860年)、2万5000ポンドの緑茶がアメリカに輸出されています。
 
 
 
 【イギリスへの木綿の輸出】
 文久元年、アメリカで南北戦争が起こると、原綿の輸出量が減少します。そこで、日本からイギリスに国産木綿の4分の1が輸出されました。しかし、イギリスでは梳綿機(原綿から長繊維を選り分け、短繊維を省く)の普及が進み、日本の短繊維綿花は商品価値を認められませんでした。
 
 
 
 【公武合体 皇女和宮の降嫁】
 文久元年(1861年)10月、「公武合体」のため和宮が徳川家茂に降嫁することが決まりました。
 文久2年1月、水戸藩浪人は江戸城坂下門外で、降嫁を主導した老中安藤信正を襲撃しました。
 
 
 
 【土佐勤王党】
 文久元年、武市瑞山は「土佐勤王党」を興します。坂本龍馬や中岡慎太郎が土佐勤王党に加わりました。
 
 
 
 【ロシアの対馬租借要求】
 文久元年、ロシアの軍艦ポサドニック号が船体修理の名目で対馬に停泊。対馬芋崎周辺の租借権を求めました。幕府はイギリスの協力を得てポサドニック号を追い払います。
 
 
 
 【支那の近代化を阻む原因 儒教と中華思想】
 太平天国の乱は、清に2つの変化を与えました。1つは外交機関の設置です。文久元年、清は総理各国事務衙門を設立。これは外務省のような機関です。
 もう1つは洋務運動です。李鴻章、左宗棠らは師夷を掲げ、列強の長所を学ぶよう訴えました。文久元年、曾国藩は兵器工場を創設。支那における初の近代的な工場です。
 こうして清は兵器工場、造船所、炭鉱、繊維工場、製鉄所などを国内に設置しました。
 
 
 
 【生麦事件】
 文久2年(1862年)5月、薩摩藩主島津久光が江戸に向かいます。8月、島津久光は江戸から帰国する途中、生麦村を通過。そこでイギリス人3名が行列の前を横切ります。薩摩藩士はイギリス人3名を無礼討ちにしました。これが日英両国間の国際問題に発展。「生麦事件」です。
 幕府はイギリスへの賠償金として10万ポンドを支払うことになりました。イギリスやフランスは幕府に圧力をかけ、横浜に軍を駐留させる権益を獲得しました。
 
 
 
 【京都守護職 松平容保】
 文久2年閏8月、会津藩主松平容保が京都守護職に就任します。
 
 
 
 【遣欧使節団】
 文久2年、「遣欧使節団」が派遣されます。福沢諭吉も使節として渡欧しました。
 
 
 
 【幕府による攘夷の奏上】
 文久3年(1863年)4月、幕府は攘夷の意志を朝廷に奏上。5月10日、長州藩は下関海峡を渡る外国船に砲撃を加えました。
 
 
 
 【薩英戦争】
 文久3年7月、生麦事件の報復のためイギリスの軍艦7隻が薩摩藩を攻撃。「薩英戦争」です。後に薩摩藩はイギリスと和解しています。
 
 
 
 【長州藩の追放】
 文久3年8月18日、会津藩と薩摩藩が協力し合い、長州藩を京から追放。三条実美も追放されました。
 
 
 
 【奇兵隊】
 文久3年、長州藩士高杉晋作が「奇兵隊」を結成します。
 
 
 
 【朝鮮国王哲宗の死】
 文久3年(1863年)、25代朝鮮国王哲宗が没します。傍流の興宣の次男命福が26代朝鮮国王となり、高宗を称しました。高宗の父興宣は大院君(国王の父)になりました。
 興宣は高宗の妻に閔妃を撰びます。後に閔妃は軟弱な高宗に愛想を尽かし、自ら朝鮮を支配しようと画策。興宣は閔妃との政争に明け暮れるようになりました。
 
 
 
 【池田屋事件】
 元治元年(1864年)6月、新撰組が京都池田屋を襲撃しました。
 
 
 
 【禁門の変】
 元治元年7月、長州藩は池田屋事件の報復のため、軍勢を率いて入京を試みます。しかし、会津藩と薩摩藩の応戦によって敗走しました。「禁門の変」です。
 幕府は長州藩を危険視し、征討を命じます。長州藩は幕府に恭順の意を示しました。
 
 
 
 【下関戦争】
 元治元年8月、イギリス、アメリカ、フランス、オランダの4ヶ国は連合し、17隻の軍艦で下関の砲台を攻撃。「下関戦争」です。文久3年5月の長州藩の外国船攻撃に対する報復でした。
 長州藩は砲台を占領されて降伏。幕府は賠償金として300万ドルを支払うことになりました。
 
 
 
 【高杉晋作の挙兵】
 元治元年、高杉晋作は奇兵隊と共に挙兵し、長州藩の実権を掌握します。
 
 
 
 【過激化する東学党】
 元治元年(1864年)、東学党を興した崔済愚が邪教で民衆を惑わしたとして処刑されます。崔時亨が新たな教祖に就任しました。東学党は「尽忠報国」、「掃破倭洋」を掲げた武装集団になりました。
 
 
 
 【浦賀造船所の建設】
 元治元年(1864年)、フランス公使レオン・ロッシュは幕府に造船所の建造を提案します。幕閣は財政難を理由に断ろうとしましたが、小栗忠順は日本も近代造船技術を持たなければならないとして建設に強く賛成。小栗は4ヶ年計画案を作成し、建設を幕閣に承認させました。
 栗本鋤雲は小栗の数少ない理解者であり、語学に長けたことから交渉面で小栗を助けました。ロッシュは支那にいた技師ウェルニーを最高責任者として日本に呼び寄せます。フランスの軍港ツーロンと地形が似ていることから、造船所は浦賀に建設されることになりました。
 
 
 
 【朝鮮に通常を求めるロシア】
 慶応元年(1865年)、ロシア船が朝鮮に通商を求めましたが、朝鮮政府はこれを撃退します。
 
 
 
 【14代将軍徳川家茂の死】
 慶応2年(1866年)6月、依然として幕府に従おうとしない長州藩に対し、再び征討が行われます。途中、徳川家茂が没したため、征討は中止されました。
 
 
 
 【薩英同盟】
 慶応2年、薩摩藩と長州藩は「薩長同盟」を締結。倒幕のための軍事同盟でした。
 
 
 
 【徳川慶喜の15代将軍就任】
 慶応2年12月、徳川慶喜が15代将軍に就任します。
 
 
 
 【孝明天皇崩御】
 慶応2年12月、孝明天皇が崩御されました。
 
 
 
 【朝鮮の攘夷運動】
 慶応2年(1866年)、ドイツ人オッペルトが商船にて朝鮮に来航。通商を求めますが、朝鮮政府はロシア船同様に撃退。
 アメリカの商船ジェネラル・シャーマン号も通商を求め、朝鮮に来航しました。ジェネラル・シャーマン号が浅瀬に乗り上げると、朝鮮政府は硫黄と火薬を積んだ小舟を衝突させます。ジェネラル・シャーマン号は爆発炎上し、沈没。乗組員も全員殺害されました。
 フランスの極東艦隊から戦艦3隻が朝鮮江華水道に派遣されますが、1隻が座礁。残る2隻は撤退しました。
 極東艦隊は7隻の戦艦を朝鮮に派遣し、江華島北端に上陸させます。朝鮮政府は略奪を働く極東艦隊を罰するとして、猟師ら500名に銃撃を命じます。極東艦隊は30名近い死傷者を出し、撤退しました。
 
 
 
 【パリ万博開催】
 慶應3年(1867年)、幕府と薩摩藩は「パリ万博」に参加しました。同年5月28日付「タイムス」は「日本の大君の代表」「日本連邦の中で最有力で声望ある薩摩侯の代表」が参加したと報じています。同年8月16日付「ノース・チャイナ・ヘラルド」は日本について支那と異なり、積極的に西洋の技術を学ぼうとしていると報じました。同年10月12日付「ノース・チャイナ・ヘラルド」は支那よりも日本の展示品の方に人気が集まっていると報じています。
 
 
 
 【倒幕のための雄藩の結束】
 慶応3年(1867年)9月、薩摩藩、長州藩、芸州藩は倒幕のために結束。
 
 
 
 【大政奉還】
 慶応3年10月、土佐藩主山内容堂は討幕の密勅が下ったと知り、大政を奉還するより他無しと徳川慶喜に進言します。
 慶応3年(1867年)10月14日、徳川慶喜は「大政奉還」を奉請。10月15日、勅許されました。
 
 
 
 【坂本龍馬暗殺】
 慶応3年11月、京都近江屋で土佐藩士坂本龍馬、中岡慎太郎が何者かに暗殺されました。
 
 
 
 【王政復古】
 慶応3年12月9日、明治天皇は「王政復古」の大号令を発せられました。そして、摂政、関白、幕府を廃止なさいます。そして新たに総裁、議定、参与の三職を定められました。
 総裁は有栖川宮熾仁親王、議定は仁和寺宮嘉彰親王ら、参与は大原重徳らが任命されます。参与について鹿児島、高知、名古屋、広島、福井、後に熊本と萩の諸藩から人材が登用されました。
 これによって朝廷と薩長を中心にした新政府が樹立されました。
 同日、小御所会議が開かれ、徳川慶喜に内大臣辞任と領地の一部返上が命じられます。幕府側はこの処理に激怒。政府と幕府による内戦は不可避になりました。
 
 
 
 【戊辰戦争開戦】
 慶応4年(1868年)正月、「戊辰戦争」が開戦します。鳥羽伏見の役で政府軍は数で勝る幕府軍に勝利しました。
 1月4日、有栖川宮熾仁親王が「東征大総督」に任ぜられました。親王は錦の御旗を授けられ、西郷隆盛を大総督府参謀として出陣されました。
 
 
 
 【赤報隊事件】
 慶応4年1月、相良総三は赤報隊を率いて東進。年貢半減を掲げて政府軍への協力を求めました。しかし、政府は年貢半減の実行を防ぐため、赤報隊は政府軍を騙った賊徒であると宣言。捕縛された相良総三は斬首されました。
 
 
 
 【江戸城総攻めの中止
 慶応4年3月13日から14日にかけて、薩摩藩の江戸藩邸で西郷隆盛と勝海舟が会談。3月15日に予定されていた江戸城総攻めの中止が決まりました。
 
 
 
 【五箇条の御誓文】
 慶応4年3月14日、「五箇条の御誓文」が発布されました。
 
 一、広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スヘシ
 一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
 一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦サラシメンコトヲ要ス
 一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
 一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
 
 我ガ国ハ未曾有ノ改革ヲナサントシ、朕身ヲモッテ衆ニ先シ、天地神明ニ誓イ、大イニコノ国是ヲ定メ、万民保全ノ道ヲ立タントス。衆マタコノ趣旨ニ基ヅキ共心努力セヨ。
 翌15日、「五榜の掲示」が発布されます。
 
 五倫道徳遵守
 徒党・強訴・逃散禁止
 邪宗門厳禁
 万国公法履行
 郷村脱走禁止
 
 
 
 【中立を模索する越後長岡藩】
 慶応4年3月15日、西軍は越後諸藩に兵力と軍資金の供出を要求。3月16日、長岡藩も西軍への物資供出を要求されました。
 3月28日、長岡藩上席家老河井継之助が越後長岡に戻り、西軍に加勢しようとする意見を一蹴。その上で中立の立場を示します。
 4月17日、全ての長岡藩藩士が長岡城に登城するよう命じられます。河井継之助は藩主牧野忠訓、全ての長岡藩藩士の前で「三百年来の主恩に酬い、義藩の嚆矢たらん」と宣言しました。
 
 
 
 【江戸城開城】
 慶応4年4月、幕府は江戸城を開城しました。
 江戸に入られた有栖川宮熾仁親王らは、戊辰戦争戦没者の慰霊を行うことを決めました。官軍側諸藩は戦没者の名簿を作成。この名簿を基に東征軍総督府は江戸城にて招魂祭を行いました。京都、新潟、函館でも招魂祭が行われています。
 
 
 
 【奥羽越列藩同盟】
 慶応4年4月、東北地方の諸藩によって「奥羽同盟」が結成されました。5月、北越の6蕃が奥羽同盟に加わり、「奥羽越列藩同盟」を結成。西洋列強に独立を宣言します。
 孝明天皇の弟君輪王寺宮法親王は「東武皇帝」として列藩同盟の象徴となられました。
 列藩同盟は政府である公儀所を奥州白石に設置しました。
 
 
 
 【小千谷会談の決裂 北越戊辰戦争開戦】
 慶応4年閏4月19日、山県有朋と黒田清隆が越後高田に入り、長岡藩攻撃のために軍を進めました。閏4月26日、山県有朋は長岡雪峠で会津軍を撃破。閏4月27日、越後小千谷に西軍に属する松代藩、松本藩の軍勢が入ります。
 同日、河井継之助が長岡藩軍事総督に任命され、光福寺に本陣を設置。万が一の場合を想定し、西軍との合戦に備えました。
 5月2日、河井継之助は幕府と長岡藩を救うため、越後小千谷の慈眼寺で西軍との和平交渉に望みます。西軍からは土佐藩の岩村精一郎、薩摩藩の淵辺直右衛門、長州藩の杉山壮一郎と白井小助が会議に出席しました。
 会議の席で河井継之助は西軍への配慮のために兵を退かせますが、会津藩はこれを西軍に組みする行為と訝しんだと云います。西軍も長岡藩が武装をしている事を怪しんでおり、こうした疑心暗鬼の中で「小千谷会談」が行われました。
 強く和平を訴える河井は、会議の席で西軍側の使者に倒幕の理由を問いただします。感情の高ぶった岩村清一郎は途中で席を立ち、帰陣しました。交渉は決裂。長岡藩と西軍との戦争は避けられない情勢になりました。
 後に山県有朋は小千谷会談に出席できなかったこと、そして交渉が決裂した事を悔やみ、「越の山風」の中で「ひそかに白井等の不用意を遺憾とす」と嘆いています。
 5月3日、長岡藩の本陣に戻った河井継之助は、西軍との戦争が不可避である事を藩士に伝えました。特に川島億次郎には西軍と和平をするならば、継之助自身の首と3万両を差し出さなければならないと伝えています。それでなければ戦争を回避することは不可能である。再度の交渉を求めていた川島も、西軍を止めることは出来ないと悟り、共に戦うことを誓いました。
 5月4日、長岡藩は奥羽諸藩と共に西軍と戦うことを宣言。奥羽越列藩同盟を形成しました。こうして「北越戊辰戦争」が開戦したのです。
 
 
 
 【長岡藩の奮戦】
 長岡藩は「常在戦場」の思想を抱いた勇猛な藩士と、潤沢な資産、最先端の近代兵器を有していました。慶応4年、河井継之助は横浜に居住するファーブル・ブラントからガトリング砲を2門購入。1門3000両という高額な兵器でしたが、河井継之助の政策によって富を蓄えていた長岡藩はガトリング砲を購入出来たのです。
 しかし、西軍の兵力2万名に対し、長岡藩の兵力は5000名と大きな差がありました。この兵力差を埋めるために河井継之助は信濃川の増水を待ち続けました。
 慶応4年5月10日、川島億次郎と萩原要人に率いられた長岡軍、佐川官兵衛に率いられた会津軍、立見鑑三郎に率いられた桑名藩の雷神隊と衝鉾隊は、西軍に対して攻撃を開始。尾張藩と上田藩の軍勢を撃破します。そして朝日山に防御陣地を構築しました。
 5月13日、西軍は朝日山を攻めますが、長岡軍と会津軍に敗北。長州藩参謀代理時山直八が戦死しました。こうした事態を受け、山県有朋は対長岡藩戦略の練り直しを余儀なくされました。
 
 
 
 【長岡城落城】
 慶応4年5月19日早朝、西軍は信濃川を越えて長岡城城下町に侵攻。この事態を伝えるため、西福寺の鐘が激しく突かれたと云います。中島兵学所に通う少年や、60歳を超える老人までもが出陣して西軍と交戦。急いで長岡城に戻った河井継之助は自らガトリング砲を操って大手門から西軍を砲撃します。
 しかし、応戦虚しく長岡城は落城しました。牧野忠訓は森立峠から会津に、藩士は悠久山で長岡城奪回を誓った上で栃尾に逃れました。5月21日、河井継之助は加茂に本陣を置き、23日に長岡城奪回のための作戦を藩士に伝えます。
 6月2日、山本帯刀は大砲4門で今町方面を攻撃。河井継之助の率いる主力部隊が突撃をかけて今町を奪回しました。
 
 
 
 【彰義隊】
 慶応4年5月、旧幕臣は「彰義隊」を結成。上野寛永寺を拠点に政府軍と交戦しました。大村益次郎は自ら指揮を執り、彰義隊を打ち破りました。
 
 
 
 【長岡城奪回】
 慶応4年7月24日夕方、長岡軍の鬼頭熊次郎が先導役となり、600余名が八丁沖方面から長岡城奪回のために出陣。7月25日未明、泥田に足を取られながらも長岡軍は富島に入り、西軍と交戦。この戦闘で鬼頭熊次郎は戦死しています。
 同日、長岡軍は西軍を打ち破り、長岡城の奪回に成功しました。長岡城城下町は同胞の勝利に沸き上がり、祝宴が開かれたと云われます。しかし、河井継之助が新町口の合戦で左足に鉄炮疵を負うなど、長岡藩の受けた打撃は甚大でした。
 
 
 
 【長岡藩の敗戦】
 西軍の援軍が新潟湾から越後に上陸。越後新発田藩が西軍に降るなど、長岡藩の置かれた状況は悪化の一途をたどります。
 慶応4年7月29日、軍勢を整えた西軍は長岡城への再攻撃を仕掛けました。既に余力を失った長岡軍は敗れ、長岡城は再び陥落しました。長岡藩藩士は同盟関係にある会津藩を頼り、八十里を越えて落ち延びたのです。その数は1500余名に及び、行き倒れる者が続出したと云われます。長岡藩大隊長山本帯刀が撤退の際に殿軍を務めました。
 以後、長岡藩藩士は会津藩に受け入れられ、共に西軍と戦い続けました。
 
 
 
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