伊勢北畠家 家臣団
 
 
 
  北畠政郷 (?〜?)
 北畠家五代当主。雅郷。子は北畠材親、大河内親忠、田丸顕晴、神戸具盛。
 
 
  北畠材親 (?〜?)
 北畠政郷の長男。
 
 
  大河内親忠 (?〜?)
 北畠政郷の次男。大河内家を興す。
 
 
  田丸顕晴 (?〜?)
 北畠政郷の四男。田丸城主。田丸家を興す。天文二十四年、左中将。後に家臣池山伊賀守の謀反により自刃。子は具忠。
 
 
  神戸具盛 (?〜?)
 北畠政郷の六男。神戸家の婿養子となる。
 
 
  北畠具親 (?〜?)
 羽柴秀吉から大和曽爾村に千石を賜る。蒲生氏郷の庇護を受けた。
 
 
  田丸具忠 (?〜?)
 田丸顕晴の子。天正三年、織田信雄が田丸城に入ると一ノ瀬御所に移った。子の具直は蒲生氏郷の妹を娶り、その重臣となった。
 
 
  北畠長盛 (?〜?)
 神戸具盛の子。
 
 
  北畠利盛 (?〜?)
 神戸具盛の子。
 

 
  有名武将の一門
 
 
  長谷川藤直 (?〜?)
 三十郎。子は重吉、藤継、藤広。娘は徳川家康の側室となった御夏の方。
 
 
  山崎兵部少輔 (?〜?)
 織田家臣生駒家長の三男善長を養子に迎える。
 
 
  雲林院出羽守 (?〜?)
 北伊勢の土豪。後に蒲生家に仕える。天正十年六月、織田信長討死を知った蒲生賢秀から安土城籠城の意志を伝えられた。子は兵部少輔。
 
 
  雲林院兵部少輔 (?〜?)
 雲林院出羽守の子。妻は瀧川一益の娘。娘は矢部家定に嫁ぐ。
 

 
  伊勢北畠家 家臣団
 
 
  野呂左近将監 (?〜?)
 北畠家家老。永禄十二年、織田家との和議に応じるよう北畠具教に求めた。
 
 
  大宮含忍斎 (?〜?)
 入道。子は景連。伊勢阿坂城を守る。永禄十二年、木下藤吉郎に攻められる。同年九月八日、木下藤吉郎は阿坂城攻めの最中、矢で太腿を射られた。木下藤吉郎は阿坂城に籠もる遠藤五郎左衛門を内通させ、阿坂城を攻め落とした。
 
 
  大宮景連 (?〜?)
 大宮含忍斎の子。大之丞。伊勢阿坂城を守る。永禄十二年、木下藤吉郎に攻められる。
 
 
  奥山常陸介 (?〜?)
 今徳城主。永禄十二年、織田家の伊勢攻めに際し、蒲生氏郷と戦う。
 
 
  安保大蔵少輔 (?〜?)
 侍大将。永禄十二年、織田家と戦う。
 
 
  家城主水佐 (?〜?)
 侍大将。永禄十二年、織田家と戦う。
 
 
  潮田長助 (?〜?)
 四五日森城主。永禄十二年、織田家の伊勢攻めに際し、魔虫谷にて蒲生氏郷と戦った。
 
 
  阿曽弾正忠 (?〜?)
 永禄十二年、織田家の伊勢攻めに際し、魔虫谷にて蒲生氏郷と戦った。
 
 
  山崎大炊亮 (?〜?)
 永禄十二年、織田家の伊勢攻めに際し、魔虫谷にて蒲生氏郷と戦った。
 
 
  服部民部少輔 (?〜?)
 永禄十二年、織田家の伊勢攻めに際し、魔虫谷にて蒲生氏郷と戦った。
 
 
  岸江又三郎 (?〜?)
 永禄十二年、織田家の伊勢攻めに際し、魔虫谷にて蒲生氏郷と戦った。
 
 
  三瀬蔵人 (?〜?)
 永禄十二年、織田家の伊勢攻めに際し、魔虫谷にて蒲生氏郷と戦った。
 
 
  朴木隼人正 (?〜?)
 永禄十二年、織田家への使者となり、和議に応じることを伝えた。
 
 
  浦豊後 (?〜?)
 志摩十三地頭の一人。織田信長に仕えようとしなかったため、九鬼義隆に攻められ自刃した。
 
 
  加留左京 (?〜?)
 天正四年十一月二十五日、北畠具教を謀殺。この時、左京は最初に具教に斬りつけたと云う。
 
 
  長野左京之進 (?〜?)
 天正四年十一月二十五日、北畠具教を謀殺。左京之進は加留左京に続いて手槍で具教を突いたと云う。
 
 
  日置大膳亮 (?〜?)
 天正四年十一月二十五日、北畠具教を謀殺。
 
 
  柘植三郎左衛門 (?〜?)
 天正四年十一月二十五日、北畠具教を謀殺。
 
 
  滝川三郎兵衛 (?〜?)
 天正四年十一月二十五日、北畠具教を謀殺。
 
 
  池山伊賀守 (?〜?)
 田丸顕晴の家臣。田丸顕晴に謀反し、自刃に追い込んだ。
 

 
  海賊衆
 
 
  橘宗忠 (?〜?)
 志摩の海賊衆筆頭格。永禄十年、九鬼嘉隆は織田軍に属して伊勢を攻めた。その際、嘉隆は橘宗忠と会談し、妻と離縁して宗忠の妹を正室に迎えることとした。
 

 
  兵法者
 
 
  愛洲移香斎 (1452〜1538年 87歳没)
 久忠。太郎左衛門尉、日向守。陰流を興す。享徳元年生。北畠一族と言う。上泉信綱の師。「勢陽五鈴遺響」は伊勢飯南郡射和村の士豪であり、熊野海賊衆の一人と記す。長亨二年、日向鶴戸の岩屋にて剣の妙技を悟る。払いのけようとした蜘蛛が神の使いで、その老翁から奥義を教授されたと伝わる。これにより陰ノ流を創設。陰ノ流は上泉信綱の新陰流の源流である。信綱は移香斎の直弟子というが、高齢であったため子の宗通が剣を教えたとする説がある。ただ、上泉信綱の郷里上州上泉城に立ち寄ったことがあると言う。天文七年、八十七歳没。
 
 
 
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