肝付家 家臣団
 
 
 
  肝付兼興 (?〜?)
 肝付氏十七代当主。兼続の父。高山城主。大永四年、島津忠朝を討ち、串良城を奪回。
 
 
  肝付兼演 (?〜1550年)
 大永七年、加治木城主伊地知重貞、重兼父子が島津家に背いたために攻め滅ぼされると、加治木城を与えられ城主となる。天文十七年、島津家に背く。十八年、伊集院忠朗に攻められ、蒲生氏や祁答院氏と共に降伏。改易された。十九年、許され旧領に復帰。しかし、同年五月二十九日、島津軍に討たれたと言う。
 
 
  肝付兼盛 (?〜?)
 肝付兼演の子。加治木城主。天文二十三年、蒲生範清らに攻められる。
 
 
  肝付兼三 (?〜?)
 肝付兼演の孫。文禄四年十月、喜入に移される。
 
 
  肝付治部左衛門 (?〜?)
 廻城主廻久元が盲目となり、跡継ぎの頼員がまだ幼いため、永禄四年五月、肝付兼続は廻城を攻め落とした。島津貴久は廻氏救援のため、六月に出陣。
 
 
  伊地知重興 (?〜?)
 伊地知氏九代。肝付氏と婚姻関係を結び、島津氏と敵対する。永禄四年、廻城籠城に参加。元亀二年、島津氏の攻撃により小浜城は陥落。入船城まで攻められた。天正二年、入船城が陥落し、島津氏に降伏した。
 
 
  救仁郷頼世 (?〜?)
 蓬原城主。原天文十五年、肝付兼続に攻められ降伏。「肝付氏系図」は肝付氏初代兼俊の子兼綱に始まるとしている。「救仁郷氏系図」では足利義満の子満頼が応永年間、九州探題となり、その子頼氏が救仁郷氏の娘を娶り源氏に列したとしている。
 
 
  北原兼孝 (?〜?)
 北原兼守の叔父。民部少輔。甥兼守没後、跡を継いで北原家当主となる。
 
 
  北原兼守 (?〜?)
 肝付氏庶流北原家当主。日向真幸院を領す。妻は伊東義祐の娘。嗣子無きため叔父兼孝が跡を継ぐ。
 
 
  北原兼親 (?〜?)
 北原一門。伊東義祐が北原兼孝を殺害すると相良氏を頼って落ち延びた。島津家、相良家の協力を得て馬関田右衛門佐から真幸院の西側を奪回。しかし、伊東家に寝返る家臣が出たため、真幸院の東側を奪回することは出来なかった。伊東家の勢力拡大を防ぐため、島津義弘が真幸院の西側を守る事となり、北原氏の所領は両家に奪われていった。
 
 
  大野出羽守 (?〜1556年)
 天文十五年以降、蓬原城一帯の地頭。弘治二年、島津忠親に攻められ、横瀬龍相城にて討死。
 
 
  薬丸弾正 (?〜1556年)
 弘治二年、島津忠親に攻められ、横瀬龍相城にて討死。
 
 
  安楽兼寛 (?〜?)
 入船城守将。備前。元亀三年九月、島津勢に攻められる。天正元年、肝付氏の援軍は島津忠長、川上久信らに敗れ撤退。天正二年正月、島津氏の攻撃に屈することなく一年以上も城を守り抜いたが、遂に城兵の助命と引き替えに開城した。
 

 
  【付記】
 
 
 
 肝付氏は兼続の代に十二万石の大名となった。
 
 
 
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