吉川家 家臣団
 
 
 
  吉川国経 (?〜?)
 安芸山県郡小倉山城主。永正年間、大内義興の命で足利義稙を奉じて共に上洛。永正十四年秋、安芸武田元繁に在京中の隙を衝かれて攻め込まれた。大永二年三月、子の元経が没したため、孫の興経を補佐する。大永三年、毛利元就と共に鏡山城攻めに出陣。子は国経。妹は尼子経久に嫁いだ。
 
 
  吉川元経 (?〜1522年)
 吉川国経の子。治部少輔。永正十四年十月、安芸武田元繁が有田城を攻めると、毛利元就と共に救援に向かう。十月二日、安芸武田勢の熊谷元直の守る熊谷陣屋を攻め、元直を討った。共闘した毛利元就は敵の総大将武田元繁を討ち取った。これを喜んだ元経は、毛利家に婚姻同盟を持ちかけた。元就は同意し、吉川元経に元就の異母妹が嫁ぎ、元就には元経の妹が嫁いだ。元経の妹は後に隆元、元春、隆景を生んだ妙久である。また、元就の異母妹は永正十五年に吉川興経を生んでいる。大永二年三月没。
 
 
  吉川興経 (?〜1550年)
 吉川元経の子。母は毛利元就の異母妹。尼子氏や大内氏に属す。天文九年六月、尼子詮久に従い毛利元就討伐に向かう。九月二十三日、高尾久友、黒正久澄らと共に青山麓に布陣。天文十二年五月、先の合戦で尼子氏に属したことが大内義隆の逆鱗に触れ、知行没収処分となる。吉川領は毛利元就に与えられた。元就は興経に所領を返しているが、新たに重用した大塩右衛門尉が悪政を行うなど家臣一門の不満は高まり、隠居を余儀なくされる。天文十六年二月、元就の次男元春の吉川家養子入りが決まる。隠居領として与谷城と山県郡有田が与えられる予定であり、興経は下本地三百貫、後有田上本地二十五貫の計三百二十五貫を要求。しかし、元就は隠居領を毛利領内に定め、さらに興経の子千法師に相続させるとした。興経と尼子氏の関係を絶つための処置であり、興経は不満ながらもこれを認めることとなった。天文十六年八月一日、隠居領となる安芸布川へと移る。天文十九年九月二十七日、布川館を毛利家に攻められ討たれた。
 
 
  吉川千法師 (?〜1550年)
 吉川興経の子。天文十九年九月二十七日、布川館を攻められ討たれる。この事件以降、興経の怨霊が現れたという伝説が残されている。
 
 
  吉川経世 (?〜?)
 吉川興経の叔父。大塩右衛門尉を討ち、寺原与谷城に籠もる。天文十九年二月、元春の小倉山城入城の際に元就と起請文を交わす。隆元は経世、森脇祐有に恩賞を与えていなかったため、元就は妙玖婦人の供養になるとして恩賞を与えさせた。子は経好。
 
 
  吉川元長 (?〜?)
 吉川元春の長男。母は熊谷信直の娘。天正九年、弟広家の小笠原家養子入りについて騒動があった。毛利輝元は吉川元春、元長に対して自分に連絡が無かったと憤慨していた。元春は小笠原氏に分別がなかったと弁明しつつ、広家については孝行するよう諭すので吉川家に任せて欲しいと伝えた。また、本家に迷惑をかけたため亡き元就に申し訳がなく、この上は広家は自身の外聞を捨てて忠勤に励むよう伝えるとした。
 
 
  吉川広正 (1601〜1666年 66歳没)
 吉川広家の子。慶長十九年、家督を相続。元和二年、毛利輝元の娘を娶る。輝元は娘に対し、結婚に不満を抱いているようだが、行儀を良くし、家中を治めることが大切と諭した。また、吉川家に嫁ぐからには吉川家の家法に従い、決して短気を起こさず、腹が立っても我慢せよとも伝えた。面白いことに輝元は秀元に対し、娘は「その身少し気根に候て、もってのほかの気ミちかく候」という手紙を送っている。娘は短気で他国には嫁がせることが出来ない。粗相があっては毛利家の恥であり、秀就に迷惑がかかり、自分も老後が不安で仕方がない。仕方がないので身内の広正に嫁がせることにした、と云う。同じような話を吉川広家にも伝えてあり、輝元が娘の嫁ぎ先に腐心していたと分かる。
 
 
  毛利元氏 (?〜?)
 吉川元春の次男。母は熊谷信直の娘。元棟。
 
 
  熊谷直貞 (?〜?)
 熊谷元直の子。穂井田元清の娘を娶る。
 
 
  市川元教 (?〜?)
 市川経好の長男。天正六年、大友宗麟の誘いに乗り高嶺城乗っ取りを企む。これにより、父に誅殺された。
 
 
  市川元好 (?〜?)
 市川経好の次男。兄が誅殺されたため、嫡子となる。
 
 
  森脇祐有 (?〜?)
 吉川氏宿老。寺原与谷城に籠もり、興経を隠居させることに成功。隠居の条件には祐有自身の隠居も含まれていた。
 
 
  大塩右衛門尉 (?〜1546年)
 吉川興経に仕える。家政を任されるも、悪政を行ったため吉川経世らに討たれた。
 
 
  宮荘下野守 (?〜?)
 永正十四年、吉川元経に従い有田城防衛に出陣。同年十月二日、敵将熊谷元直の首を取る。後に興経の隠居に反対し、所領を没収された。二宮右京亮や朝枝加賀守ら重臣も隠居に反対し、小早川家や小笠原家に預けられた。
 
 
  江田因幡守 (?〜?)
 小倉山城留守居役。興経の隠居に反対し、小倉山城引き渡しが迫ると自刃した。
 
 
  豊島興信 (?〜?)
 姓は手島とも書く。天文十六年八月一日、吉川興経に従い安芸布川へ移る。豊島興信や二宮経方ら、家臣十数名が従った。天文十九年九月二十七日、毛利軍に布川館を攻められ、兄弟と共に討死した。
 
 
  小田信忠 (?〜?)
 吉川国経の家臣。安芸有田城主。永正十四年十月、安芸武田元繁に攻められる。
 
 
  福原元正 (?〜?)
 天文十九年二月、元春の小倉山城入城に従う。
 
 
  椙杜元縁 (?〜?)
 吉川広家に仕える。慶長五年七月、安国寺恵瓊は広家に西軍加勢を求めるが、椙杜元縁を使者として輝元に出兵を断るよう伝えた。また、広家は榊原康政や本多正信に三成の挙兵を報告し、黒田長政には輝元が関与していないとする書状を送った。
 
 
  山県政芳 (?〜1558年)
 物頭。吉川元春の命で銀山城将となる。永禄元年七月、忍原崩れで銀山城救援は失敗。銀山城将は窮余の策として尼子軍に突撃を敢行するがこれも失敗。政芳は討死した。
 
 
  阿曽沼元景 (?〜?)
 永禄八年四月、富田城攻撃で吉川元春に属す。
 
 
  二宮俊実 (?〜?)
 木工助。「陰徳記」の尼子家との合戦の項「別府合戦之事」に名がある。合戦中、討死を覚悟した時、一羽の梟が降下。敵の位置を示した。俊実は愛宕勝軍地蔵の御加護と信じ、別府谷へと進軍した。永禄元年、吉川元春は二宮隊として十八名を選抜し、銀山城への補給に命じる。俊実は城内に食料を運ぶことに成功した。永禄五年十一月五日、二宮俊実、粟屋源三、森脇春方らは本城常光を討った。
 
 
  今田宗与 (?〜?)
 天正九年二月二十六日、吉川経家に従い、福光城を出立。同年三月十八日、鳥取城に入城した。この時、経家と共に鳥取城に入った家臣は四百人を超えると云う。
 
 
  野田春実 (?〜?)
 天正九年二月二十六日、吉川経家に従い、福光城を出立。同年三月十八日、鳥取城に入城した。この時、経家と共に鳥取城に入った家臣は四百人を超えると云う。しかし、羽柴秀吉の兵糧攻めにより鳥取城籠城兵は疲弊。吉川経家は野田春実を秀吉の陣中に派遣し、自身の切腹と引き替えに城兵の助命を求めた。
 
 
  宿蘆俊岳 (?〜?)
 僧侶。文禄元年、吉川広家の軍に加わり、朝鮮に渡海。「宿蘆稿」を記す。
 
 
  李家元宥 (1589年〜1647年 59歳没)
 朝鮮人。朝鮮全羅道兵馬節度使副余李将軍李福男の子。慶甫、李聖賢。父は南原城籠城によって戦死。孟二寛と共に捕らえられ、日本に渡る。阿曽沼家に預けられる。毛利輝元から一字を賜る。周防熊毛部勝間村に百石を知行。内藤元栄の娘を娶る。正保四年十一月二十七歳没。五十九歳。号は道斎。三男四女があった。長男の如宥、次男の就菴も医師になった。
 
 
  孟二寛 (1572〜1656年 85歳)
 明人。孟子の子孫で六十一世に当たると云う。浙江省杭州府武林に生まれる。医師。孟二官。文禄の役で明軍に従軍。豊臣軍に捕らえられ、幼少の李家元宥と共に日本に渡る。その後、武林治庵と称して毛利家に医師として仕えた。孫の武林唯七は赤穂浪士として吉良邸に討ち入った。明暦二年、八十五歳没。
 
 
 
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