新発田家 家臣団
 
 
 
  新発田能敦 (?〜?)
 源二郎。永正十年十月十七日、中条藤資に書状を送り、長尾為景、上杉定実のどちらに加勢するべきか意見を求めた。中条藤資は長尾為景に仕えており、その説得によって新発田能敦も為景に属した。
 
 
  新発田綱貞 (?〜?)
 伯耆守。享禄四年一月、「越後衆連判軍陣壁書」に連署。長尾為景に加勢し、上条定憲と争う事を示した。しかし、その後、上条定憲に属した。天文四年九月十六日、砂越氏維宛の書状に連署する。
 
 
  新発田長敦 (?〜1580年)
 新発田重家の兄。尾張守。揚北衆。新発田城主。永禄二年十月二十八日、長尾景虎の上洛祝いのため太刀を献上。永禄四年、小田原城攻めに参戦。同年九月十日、第四回川中島合戦に参戦。第五次川中島合戦では二陣。永禄年間、沼田城守将。軍役は百九十四人。御館の乱では景勝を支持するが、景勝家督継承後に病没。新発田家は五十公野家を継いでいた弟五十公野治長が継ぎ、名を新発田重家に改めるが、恩賞に不満を持ち内乱を起こす。
 
 
  五十公野景家 (?〜?)
 弥三郎。享禄四年一月、「越後衆連判軍陣壁書」に連署。長尾為景に加勢し、上条定憲と争う事を示した。しかし、その後、上条定憲に属した。
 
 
  長沢義風 (?〜1587年)
 五十公野道如斎。新発田重家の義妹の婿。新発田重家と共に上杉家に反乱を起こす。天正十五年十月二十四日、五十公野城落城。討死。
 
 
  矢島清左衛門 (?〜?)
 道奉行。某年、新発田長敦は上杉謙信から道路整備を命じられた。矢島清右衛門は新発田長敦の命により、新発田領内の道路整備を一月余りで行った。
 
 
  河野次左衛門 (?〜?)
 道奉行。某年、新発田長敦は上杉謙信から道路整備を命じられた。河野次左衛門は新発田長敦の命により、新発田領内の道路整備を一月余りで行った。
 
 
 
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