蘆名家 家臣団
 
 
 
  蘆名盛高 (1448〜1517年 70歳没)
 蘆名盛詮の子。文安五年八月十七日生。寛正六年、伊達成宗の娘を娶る。これは文明十四年の事とも云う。また、一説に大崎氏の娘を娶ったとも云う。文正元年三月十四日、父盛詮の死により家督を相続。文明三年十二月、奥州諸大名は足利義政から足利成氏征伐を命じられる。挙兵の是非ついて伊達氏、結城氏と奥州白河にて議論を交えたが、この時は関東への挙兵は実現しなかった。奥州諸大名は関東公方寄りだったため、将軍の命令と雖も容易には動かなかった。文明十一年五月二十七日、大沼郡の渋川義基を討つ。文明十六年八月二十四日、二階堂領に攻め込む。同年九月八日、二階堂家との合戦で両軍とも多数の死傷者を出す。延徳元年、伊達尚宗や結城政朝と共に常陸を攻める。しかし、佐竹義治に敗れた。明応元年三月三日、金曲伊賀が主君猪苗代盛頼に謀反した。盛高は猪苗代領に攻め込み、金曲伊賀を討った。同年四月十日、家臣富田頼祐、松本輔忠が謀反を起こした。そのため伊藤中務の屋敷に逃れた。蘆名勢は同月十一日から十二日にかけて富田頼祐、松本輔忠を討ち取った。明応二年四月、家中の内乱によって城を追われた伊達尚宗を匿う。同年五月十五日、長井方面に出陣。六月十日、竹森城を攻め落とした。明応四年十一月十九日、松本輔豊が謀反を起こそうとしたため、これを鎮圧した。明応七年五月二十六日、謀反人を多く出した松本氏を処罰するため、松本行輔らを誅殺した。明応九年一月、松本輔政を誅殺。文亀元年四月、安子ヶ島に出陣し、二階堂氏と争う。同年六月二十八日、猪苗代氏が謀反したためこれを攻める。文亀二年十二月十六日、常世氏を成敗する。永正二年八月十七日、佐瀬氏と富田氏が、松本氏と争った。盛高は佐瀬氏と富田氏を、子の盛滋が松本氏を支持したため蘆名父子の対立に発展。同年十月九日、塩川合戦で盛滋に勝利し、盛滋は伊達家を頼り、落ち延びていった。永正三年八月十日、伊達家の支援を受けた盛滋と再び交戦。これを破っている。同年十一月、盛滋と和睦し、帰参を許した。永正十四年十二月八日、七十歳没。子は盛滋、盛舜、浄顕。
 

 
  蘆名盛高の子供
 
 
  蘆名盛滋 (1482〜1521年 40歳没)
 蘆名盛高の長男。文明十六年二月二十日生。文亀元年六月二十八日、猪苗代氏が謀反したため、これを攻める。この時、初陣を果たす。永正二年八月十七日、佐瀬氏と富田氏が、松本氏と争った。盛高は佐瀬氏と富田氏を、盛滋は松本氏を支持。重臣間の対立は蘆名父子の対立に発展し、盛滋は綱取城に籠もった。白河結城氏から仲介の使者が派遣されたが、父子の仲は修復せず、同年十月に合戦となった。同年十月九日、塩川合戦で父盛高に敗れ、盛滋は伊達家を頼り、落ち延びていった。永正三年八月十日、伊達家の支援により父盛高と再び争うも、敗れている。同年十一月、盛高と和睦し、帰参が許された。永正十四年十二月八日、父の死により家督を継ぐ。大永元年二月七日、四十歳没。家督は弟の盛舜が継いだ。
 
 
  蘆名盛舜 (1490〜1553年 64歳没)
 蘆名盛高の次男。大永元年二月七日、兄盛滋の死により家督を継ぐ。同年四月、松本大学を討つ。同年四月十九日、松本大学の弟藤左衛門を自刃させた。同年六月十六日、猪苗代家に攻められるも撃退。天文十年頃、嫡子盛氏に家督を譲る。天文二十二年八月二十一日、六十四歳没。天文十八年没とする説もある。子は氏方、盛氏。
 
 
  蘆名浄顕 (?〜?)
 蘆名盛高の三男。万千代丸。明応四年、出家した。
 

 
  蘆名盛舜の子供
 
 
  蘆名氏方 (1515〜1568年 54歳没)
 蘆名家盛舜の長男。吉祥丸、山城守、東殿。母は白拍子の川野御前であり、庶子となった。七歳の時に弟の十六代当主蘆名盛氏が生まれている。幼少時から家督継承候補から外され、氏方は富田義実に養育された。庶子の立場を嫌い、自ら当主となるため永禄十一年、異母弟蘆名盛氏に謀反する。しかし、敗れて自刃した。子は某。
 

 
  蘆名盛隆の子供
 
 
  蘆名盛重 (?〜?)
 蘆名盛隆の子供と云う。「芦名系図併添状」に名がある。この系図から考えれば元服するまでは存命したようだが詳細は不明。
 
 
  蘆名隆氏 (?〜?)
 蘆名盛隆の子供と云う。「芦名宗家副家略系譜」に名がある。
 

 
  蘆名一門
 
 
  針生盛幸 (1515〜1553年 39歳没)
 蘆名盛滋の子。小太郎、民部大助。盛滋の隠居後に生まれた。針生を領し、針生氏を称した。黒川城西丸に居住。そのため、針生殿や西丸殿と呼ばれた。針生氏は蘆名一門として四宿老を上回る家中最上の家格となった。子は盛秋、盛貞。
 
 
  針生盛秋 (1538〜1562年 25歳没)
 針生盛幸の長男。小太郎。永禄五年五月、二十五歳没。弟は盛貞。子は盛信。
 
 
  針生盛信 (1553〜1625年 73歳没)
 針生盛秋の子。民部。永禄八年、蘆名盛氏が長沼を攻めるとこれに従う。天正十七年、摺上原合戦で大将格となる。合戦中、馬が矢で負傷したが、針生豊後に助けられた。豊臣秀吉から竜ヶ崎一万八千石を賜る。天正十八年、九戸の乱に出陣。慶長五年、常陸金井に移る。慶長七年、伊達政宗に仕え、永代客分として准一家の扱いを受ける。大坂の陣に際して白石城留守居役。元和元年、衣川、石越などを拝領し、針山館に移る。寛永二年八月没。子は盛直。
 
 
  針生盛直 (?〜?)
 針生盛信の子。小太郎。子は重信。
 
 
  針生重信 (1598〜1641年 44歳没)
 針生盛直の子。寛永十八年十一月、四十四歳没。子は盛定。
 
 
  針生盛貞 (?〜?)
 針生盛幸の次男。駿河。子孫は秋田家に仕えた。
 
 
  蘆名某 (?〜?)
 蘆名氏方の子。父の死後、出家。盛道山高厳寺の僧となった。
 
 
  蘆名行親 (?〜?)
 蘆名盛義の子。
 
 
  蘆名行栄 (?〜?)
 蘆名盛義の子。
 

 
  蘆名家臣
 
 
  平田輔範 (?〜?)
 平田範政の子。左衛門尉、如水、左衛門、竹丸岩見守。平田弾正範政の長男。蘆名四宿老として五千石。入道して如水。天文九年二月、諏訪神社落成時に連署を出す。
 
 
  平田盛範 (?〜?)
 平田範政の子。輔範の弟。岩見守。天文九年二月、諏訪神社落成時に連署を出す。
 
 
  平田舜範 (?〜?)
 平田輔範の長男。左京亮、周防守、石見守。是亦斎。天文九年二月、諏訪神社落成時に連署を出す。天正六年、上杉謙信に応じて大槻政通、山ノ内重勝が背くと鎮圧のため出陣。鎮圧に成功した。
 
 
  平田一味斎 (?〜1574年)
 平田一門か。天正二年五月、田村清顕との合戦で討死した。
 
 
  源太安広 (?〜?)
 平田氏に仕える。天正十二年の伊達政宗侵攻を黒川城に報告した。
 
 
  佐瀬太兵衛 (?〜?)
 永正二年八月、富田盛実と対立。これが切っ掛けとなり蘆名盛高、盛滋父子が争う内乱が起きた。
 
 
  佐瀬常教 (?〜?)
 佐瀬常昌の長男。大和守。天正六年、上杉謙信に応じて大槻政通、山ノ内重勝が背くと鎮圧のため出陣。鎮圧に成功した。弟は常和。子は種常、常秀。
 
 
  佐瀬種常 (?〜1589年)
 佐瀬常教の長男。大和守。蘆名四宿老として五千石。天文九年二月、諏訪神社落成時に連署を出す。猪苗代盛頼の謀反鎮圧時に、佐瀬家も出陣している。天正十七年の磨上原合戦で討死した。
 
 
  佐瀬常秀 (?〜1560年)
 佐瀬常教の三男。伝七郎。永禄三年三月二十六日、白河結城晴綱が佐竹・那須連合軍と戦うと、白河結城氏支援のため武者奉行に。その合戦の最中、岡孫左衛門に討たれた。
 
 
  佐瀬常和 (?〜?)
 佐瀬常昌の次男。常教の弟。大学助、信濃守。武田信玄との外交に深く関わった。天文九年二月、諏訪神社落成時に連署を出す。蘆名盛興と伊達晴宗四女の婚約の際、使者として活躍した。
 
 
  中ノ目式部大輔 (?〜?)
 佐瀬常和の子。佐瀬常成の兄。天正十二年の伊達政宗侵攻を聞き、慶徳館の慶徳善五郎を孤立させられないとして、戦場として予想された地点より西に一里以上も離れた慶徳に布陣。騎馬武者三十、足軽二百が従ったという。慶徳善五郎とともに寝返った関柴備中守を攻める。戦後に同じく寝返った戸石四郎兵衛を討つが、合戦自体では目立った活躍はなかった。亀王丸の跡継ぎ決めに参加。
 
 
  佐瀬常成 (?〜?)
 佐瀬常和の子。中ノ目式部大輔の弟。河内守、伝兵衛。関柴備中守を攻める兄の応援のため、三百余騎を引き連れて出陣。この合戦で、蘆名家は指揮系統がまるで統一できていなかったようだ。ちなみにこの合戦が天正十二年の出来事であるかは断定できない。史料によっては天正十三年とすることもできる。同年の黒川城占拠事件でもいち早く反乱軍に攻め込み、鎮圧に成功した。亀王丸の跡継ぎ決めに参加。
 
 
  慶徳範重 (?〜?)
 慶徳舜範の子。善五郎。天正十二年、伊達家の原田左馬助隊と戦い、合戦の火蓋を切る。左馬助の五百余騎に対し、善五郎はわずか百五十余騎であったが、左馬助を追いつめる。追撃をかけるが逆に片倉小十郎の側面攻撃を受けた。同年の黒川城占拠事件でも功があった。孫の定直は蘆名家の准一門の待遇を受け、一万石を領した。
 
 
  富田盛実 (?〜?)
 富田頼祐の三男。美作。明応元年四月十日、父富田頼祐が蘆名盛高に謀反を起こした。しかし、同月十一日から十二日にかけて蘆名家臣に鎮圧された。父頼祐、長兄頼実、次兄祐繁は討死。盛実は罪を許され家督を継いだ。明応二年五月十五日、蘆名盛高が長井方面に出陣すると、二百七十三名を率いて従軍。永正二年八月、佐瀬太兵衛と対立。その仲裁に入った蘆名盛高、盛滋父子までもが不和になり、富田盛実や佐瀬一族が蘆名盛高側に加勢。松本輔義らが蘆名盛滋に加勢した。白河結城家に支援を求めるも断られた。同年十月、蘆名盛滋との合戦で第二陣となる。
 
 
  富田滋実 (1520〜?)
 左近将監、美作。蘆名盛滋から一字を賜る。永禄九年一月十日、蘆名盛興が伊達輝宗の娘と婚約するが、このときに署名している。同年二月、諏訪神社落成時に連署を出す。天文十年に猪苗代盛頼が背くと、これを鎮圧するために出陣。
 
 
  富田氏実 (?〜?)
 富田滋実の次男。美作。兄は三歳で夭折。天正六年、上杉謙信に応じて大槻政通、山ノ内重勝が背くと鎮圧のため出陣。鎮圧に成功した。上杉家と蘆名家の同盟強化に尽力したとして、景勝から越後に土地を与えられる。同盟強化といってもさほどのことでもなく、土地を与えたのは景勝の懐柔策であったという。ちなみに小笠原長時一家が天正十一年二月二十五日に惨死したのは、富田氏実邸である。伊達家と争うことに不利を感じたのか、氏実は伊達小十郎を迎えることを主張。しかし、金上盛備の主張が採用され、佐竹義重次男義広を迎え入れた。天正十五年、氏実は小田切三河守支援のため越後へ。しかし、三河守は新発田重家とともに上杉景勝に滅ぼされた。天正十六年七月、郡山合戦の最中に石田三成からの書状を読む。それには伊達家に対抗するために鉄炮を百挺贈るというものだった。磨上原合戦では黒川城留守居役。しかし、伊達政宗に通じて黒川城を明け渡し、葦名義広ら百九名は実家佐竹家に落ち延びた。野宿を繰り返し、途中で裏切ろうとする者を成敗しつつの旅であったという。氏実の弟、宥伝法印上人は兄の裏切りを恥じて伊達家に抵抗したが、結局は攻撃に遭い寺を離れた。政宗が黒川城に入ると、政宗を饗応している。
 
 
  佐瀬常雄 (1572〜1589年 17歳没)
 富田氏実の次男。富田隆実の弟。佐瀬家に入る。天正十七年の磨上原合戦で討死。兄の隆実は一陣五百騎となり、猪苗代盛国や片倉景綱を敗走させる。この事態に政宗は、鉄砲頭太郎丸掃部に側面射撃を命じる。しかし、隆実勢はこの射撃にも屈せず攻撃を続け、掃部を隆実自らが討ち取る(隆実家臣七宮杢之助が討ったとも)という活躍だった。しかし、二陣の佐瀬河内は伊達家に移りたいのか動かず、富田勢は激戦により百名ほどに。合戦前から葦名側は味方の裏切りを警戒し、疑心暗鬼の状態が続いていたという。富田勢は死を覚悟で政宗本陣に切り込み、伊達家の包囲攻撃よってついに十名ほどが残るだけとなった。それでも攻撃を続け、最後に残った七宮主膳とともに最後の突撃をかける。この合戦で葦名家は、五十七人の名のある武士を失った。隆実の生死は不明というが、葦名義広に従い常陸に逃れたようである。天正十八年三月、義広が二本松義綱を殺害すると、隆実は葦名家を離れた。
 
 
  富田実積 (1576〜1589年 13歳没)
 富田氏実の三男。二人の兄と共に磨上原合戦に出陣。初陣であったが、この合戦で討ち取られている。
 
 
  富田秀長 (?〜1505年)
 富田長豊の子。志摩。永正二年、蘆名盛高と盛滋が不和になると盛高側に属す。同年十月、蘆名盛滋との合戦で第三陣となる。この合戦で討死した。
 
 
 富田滋実 (?〜?)
 富田実持の長男。左近将監。天文九年二月、諏方神社落成に関する書状に名がある。
 
 
  印藤四郎兵衛 (?〜1589年)
 天正十七年、磨上原合戦で討死。
 
 
  浜野甚左衛門 (?〜1589年)
 天正十七年、磨上原合戦で討死。
 
 
  平井久太郎 (?〜1589年)
 天正十七年、磨上原合戦で討死。
 
 
  苗村丈右衛門 (?〜1589年)
 天正十七年、磨上原合戦で討死。
 
 
  中村新左衛門 (?〜1589年)
 天正十七年、磨上原合戦で討死。
 
 
  梅田勘兵衛 (?〜1589年)
 天正十七年、磨上原合戦で討死。
 
 
  落合兵部  (?〜1589年)
 天正十七年、磨上原合戦で討死。
 
 
  富田義実 (?〜1568年)
 松山一三の子。監物。妻は富田実持娘で、富田滋実の姉である。富田姓を名乗る。蘆名氏方を養育した。永禄十一年、蘆名氏方を擁して盛氏に謀反。二月二十四日に討たれた。
 
 
  富田義祐 (?〜1568年)
 富田義実の子。主善。妻は白井求馬清恒の姉。永禄十一年、蘆名氏方を擁して盛氏に謀反。捕らえられ、三月五日に斬られた。長男は新五石衛門氏右。次男五郎左衛門義員は田丸中務直政に仕えた。氏右の次男甚九郎氏正は相馬氏に仕えた。
 
 
  富田氏右 (?〜?)
 富田義祐の長男。新五石衛門。子は氏正。
 
 
  富田義員 (?〜?)
 富田義祐の次男。五郎左衛門。田丸直政に仕えた。
 
 
  富田新太郎 (?〜1574年)
 富田一門。天正二年五月、田村清顕との合戦で討死した。
 
 
  富田源三 (?〜1574年)
 富田一門。天正二年五月、田村清顕との合戦で討死した。
 
 
  富田氏正 (?〜?)
 富田氏右の次男。甚九郎。相馬氏に仕えた。
 
 
  富田新九郎 (?〜?)
 富田一族。天正七年、田村清顕に内応。
 
 
  松山和泉 (?〜1568年)
 富田一族。永禄十一年、蘆名氏方の謀反に加わる。合戦に敗れた氏方は自刃。松山和泉ら家臣七十八人も自刃した。
 
 
  三橋左衛門 (?〜1568年)
 永禄十一年、蘆名氏方の謀反に加わる。敗北より自刃した。
 
 
  松井大学 (?〜1568年)
 永禄十一年、蘆名氏方の謀反に加わる。敗北により自刃した。
 
 
  常世次郎左衛門 (?〜1568年)
 永禄十一年、蘆名氏方の謀反に加わる。敗北により自刃した。
 
 
  松本行輔 (?〜1498年)
 松本輔明の長男。豊前守。明応元年四月十日、弟輔忠が蘆名盛高に謀反を起こす。同月十一日から十二日にかけて輔忠らは討たれた。四月十六日、松本行輔は三男輔之と共に伊藤中務宅に匿われた蘆名盛高に拝謁。弟輔忠の罪を詫びた上で帰城を求めた。明応七年五月二十六日、蘆名盛高に誅殺された。松本氏から多数の謀反人が出たため、これを処罰したのだろう。弟は輔豊、輔政、輔忠。
 
 
  松本輔豊 (?〜1495年)
 松本輔明の次男。松本行輔の弟。明応四年十一月十九日、伊藤民部と共に蘆名盛高に謀反を起こそうとするも鎮圧される。伊藤民部と共に下野宇都宮氏を頼って落ち延びようとしたが、その途中で誅殺された。子は宗輔。
 
 
  松本輔政 (?〜1500年)
 松本輔明の三男。松本行輔の弟。右馬允、対馬。明応二年六月十日、蘆名盛高の名代として竹森城を攻める。明応九年一月、蘆名盛高に誅殺された。
 
 
  松本輔之 (?〜1498年)
 松本行輔の三男。明応元年四月十六日、父行輔と共に伊藤中務宅に匿われた蘆名盛高に拝謁。叔父輔忠の謀反の罪を詫び、帰城を求めた。明応七年五月二十六日、蘆名盛高に誅殺された。
 
 
  松本輔治 (?〜1498年)
 松本輔吉の子。松本行輔の従兄弟。大学。弟は輔任。明応七年五月二十七日、蘆名盛高に誅殺された。
 
 
  松本輔任 (?〜1498年)
 松本輔吉の子。輔治の弟。松本行輔の従兄弟。小四郎。明応七年五月二十七日、蘆名盛高に誅殺された。
 
 
  松本輔敦 (?〜1555年)
 松本輔忠の三男。与右衛門。弘治元年、小桧山盛長と共に蘆名家に背いたため誅殺された。
 
 
  松本宗輔 (?〜?)
 松本輔豊の子。勘解由、図書介。子は舜輔。
 
 
  松本舜輔 (?〜?)
 松本宗輔の子。岩谷城主。勘解由、図書助、休意。天文九年二月、諏訪神社落成時に連署を出す。永禄元年四月、山ノ内俊政、俊範兄弟は蘆名家に背き岩谷城を攻め落とす。
 
 
  松本致輔 (?〜1574年)
 松本舜輔の長男。勘解由、図書、右京亮。天正二年五月十三日、田村清顕との合戦に敗れ討死。
 
 
  松本行輔 (1569〜1584年 16歳没)
 松本致輔の子。左衛門。天正十二年六月十三日、栗原下総守とともに謀反。主犯格であったいう。しかし、失敗して討死した。わずか十六歳である。謀反に至った理由は、幼くして家督を継いだために領地を召し上げられたためという。
 
 
  松本輔光 (?〜?)
 松本輔次の長男。左衛門、伊豆守。天文九年二月、諏訪神社落成時に連署を出す。天正六年、上杉謙信に応じて大槻政通、山ノ内重勝が背くと鎮圧のため出陣。鎮圧に成功した。
 
 
  井上河内 (?〜?)
 松本家に仕え、岩谷城代。永禄元年四月、山ノ内俊政、俊範兄弟の攻撃で岩村城は落ちる。井上河内は蘆名盛氏にこの事件を報告した。
 
 
  室井七郎右衛門 (?〜?)
 永正二年、蘆名盛高と盛滋が不和になると盛高側に属す。同年十月、蘆名盛滋との合戦で先陣となる。
 
 
  荻野與綱 (?〜?)
 左馬。天文九年二月、諏方神社落成に関する書状に名がある。
 
 
  栗村盛種 (?〜?)
 下総守。天文九年二月、諏訪神社落成時に連署を出す。
 
 
  栗原盛胤 (1557〜1584年 28歳没)
 新国上総介頼基の次男。下総守。天正十二年六月十三日、松本行輔とともに謀反。赤塚藤内に討たれた。この事件後に父と、兄の新国通基は蘆名盛隆に討たれた。
 
 
  西海枝盛輔 (?〜?)
 宮内大夫。天文九年二月、諏訪神社落成時に連署を出す。一門には蘆名家の准一門の家格を受けた西海枝宮駿河守がいる。また、西海枝宮駿河を名乗った者は新宮城主として侍大将になった。
 
 
  種橋藤十郎 (?〜1543年)
 天文十二年七月、蘆名盛氏は山ノ内家を攻めた。種橋藤十郎はこの合戦で山ノ内側の杉岸因幡に討たれた。子は大蔵。
 
 
  種橋大蔵 (?〜?)
 柏木城主。大番頭となる。天正十二年十月六日夕刻(十日説もある)、蘆名盛隆は鷹の餌付けの最中に背後より大庭三左衛門に斬殺された。種橋大蔵はこの大庭三左衛門を討っている。これは門が閉められ城外に出ることが出来なくなってからという説と、登城途中に大庭に出くわしたとする説がある。いずれにせよ即日成敗している。
 
 
  山ノ内左近 (?〜?)
 文亀三年七月二十日、伊達尚宗の支援を受けて蘆名盛高に背く。
 
 
  山ノ内俊宗 (?〜?)
 永正元年、伊達家の侵攻に備えて檜原口を警備。
 
 
  山ノ内俊政 (?〜?)
 山ノ内俊清の次男。摂津守。弟の横田豊前俊範とともに永禄元年四月、岩谷城を攻め落とす。蘆名盛氏の討伐を免れるため、臣従した。
 
 
  山ノ内俊基 (?〜?)
 山ノ内俊政の子。内匠頭。岩村城主となり、代々郷頭と勤めた。
 
 
  横田俊範 (?〜?)
 山ノ内俊政の弟。豊前。永禄元年四月、岩谷城を攻め落とすが、このときの手段は三十五人の家臣を率いての夜襲であった。
 
 
  山ノ内政勝 (?〜1570年)
 山ノ内一門だが、系譜からは確認できない。元亀元年、蘆名家と二本松家との合戦で討死した。
 
 
  沼沢政清 (?〜?)
 出雲守。山ノ内一門。岩谷城を攻め落としたという報を黒川で聞き、山ノ内家を守るために蘆名盛氏に忠誠を誓う。このときに山ノ内俊政、俊範兄弟の助命嘆願をし、討伐を免れている。天正三年に討死した松本致輔の領地を与えられるが、これが後に致輔の子、行輔の謀反事件に発展する。天正十二年、伊達家に寝返った関柴備中守を討つが、これは合戦も終了してからである。肝心の合戦では目立った活躍はなかった。
 
 
  沼沢左近 (?〜1570年)
 山ノ内一門だが、系譜からは確認できない。おそらくは沼沢家の支流に生まれたのだろう。元亀元年、蘆名家と二本松家との合戦で討死した。
 
 
  小桧山盛長 (?〜1555年)
 猪苗代支族。藤八郎。小桧山六郎盛季の長男。弘治元年、松本輔敦とともに蘆名家に背くが鎮圧された。このときに二人とも討たれたようである。
 
 
  小田切政清 (?〜?)
 小田切三河守祐治の子。弾正。永禄七年、本家筋の金上氏らとともに越後に攻め込む。金上盛備とともに上杉景虎支援のために出陣し、天正六年九月十四日に安田城を落とした。上杉景勝から新発田重家討伐のため、領地を与えるから蘆名家に援軍を送るよう要請された。景勝の必死の様子が伝わってくる。蘆名盛隆も仕方なしに援軍を送ったが、それに関する史料は乏しい。ちなみに盛隆は新発田重家討伐に賛成しながらも、裏では政清に参戦をなるべく拒むように支持している。
 
 
  小田切貞満 (?〜1578年)
 小田切一門。玄蕃充。天正六年四月三日、上杉景勝から正式に謙信の死が伝えられ、今後の関係を好意的にしたいという書状が送られる。盛氏は十三日後には上杉景虎支援の名目で景勝を攻めるが敗退。貞満はこの合戦で討死した。
 
 
  小田切貞義 (?〜?)
 治部少輔。天正六年五月、越後を攻めるが敗れている。
 
 
  小田切小七郎 (?〜1578年)
 小田切一門。天正六年、上杉景虎支援のために出陣するが、景勝軍に敗れ討死した。
 
 
  小田切孫次郎 (?〜?)
 小田切一門だが系図からは確認できない。永禄十一年三月、本庄繁長に応じて上杉謙信と争う。蘆名盛氏に援軍を要請するが、石川晴光討伐を理由に断られた。
 
 
  小田切孫七郎 (?〜?)
 小田切一門だが系図からは確認できない。天正六年三月十三日に上杉謙信が没すると、盛氏は二十六日に孫七郎に事実を探らせる。
 
 
  小田切盛昭  (?〜1587年)
 赤谷城主。新発田重家とともに景勝に背く。天正十五年九月十四日、落城。
 
 
  伊東大膳 (?〜?)
 蘆名盛高の槍大将に同名の人物がいる。おそらくはその子孫だろう。天正六年、上杉謙信に応じて大槻政通、山ノ内重勝が背くと鎮圧のため出陣。鎮圧に成功。これは重臣格の家臣を率いた盛氏の対策と、川口左衛門佐が裏切って大槻政通を討ったためである。
 
 
  新宮吉田重秀 (?〜?)
 新庄衛門。永禄三年三月二十九日、蘆名盛氏は佐竹・田村連合軍と石川郡松山で戦う。盛氏は戦後、活躍のあった十二人の会津の士豪に感情を与えている。新宮吉田重秀はその一人である。この合戦は八月まで断続的に続いた。
 
 
  川嶋憲俊 (?〜?)
 越中。永禄三年三月二十九日、蘆名盛氏は佐竹・田村連合軍と石川郡松山で戦う。盛氏は戦後、活躍のあった十二人の会津の士豪に感情を与えている。川嶋憲俊はその一人である。
 
 
  慶徳盛勝 (?〜?)
 善五郎。盛の字は蘆名家より与えられたものだろうか。永禄三年三月二十九日、蘆名盛氏は佐竹・田村連合軍と石川郡松山で戦う。盛氏は戦後、活躍のあった十二人の会津の士豪に感情を与えている。
 
 
  石塚兼盛 (?〜?)
 十郎。永禄三年三月二十九日、蘆名盛氏は佐竹・田村連合軍と石川郡松山で戦う。盛氏は戦後、活躍のあった十二人の会津の士豪に感情を与えている。
 
 
  小荒井範秀 (?〜?)
 平馬。永禄三年三月二十九日、蘆名盛氏は佐竹・田村連合軍と石川郡松山で戦う。その戦功により感状を賜った。
 
 
  高久頼弘 (?〜?)
 金五衛門。永禄三年三月二十九日、蘆名盛氏は佐竹・田村連合軍と石川郡松山で戦う。その戦功により感状を賜った。
 
 
  伊東忠興 (?〜?)
 大和。永禄三年三月二十九日、蘆名盛氏は佐竹・田村連合軍と石川郡松山で戦う。その戦功により感状を賜った。
 
 
  磯部有信 (?〜?)
 左馬充。永禄三年三月二十九日、蘆名盛氏は佐竹・田村連合軍と石川郡松山で戦う。その戦功により感状を賜った。
 
 
  佐藤季道 (?〜?)
 権頭。永禄三年三月二十九日、蘆名盛氏は佐竹・田村連合軍と石川郡松山で戦う。その戦功により感状を賜った。
 
 
  風間実頼 (?〜?)
 十郎。永禄三年三月二十九日、蘆名盛氏は佐竹・田村連合軍と石川郡松山で戦う。その戦功により感状を賜った。
 
 
  青木宗俊 (?〜?)
 勘解由。永禄三年三月二十九日、蘆名盛氏は佐竹・田村連合軍と石川郡松山で戦う。その戦功により感状を賜った。
 
 
  樋口兼秋 (?〜?)
 頼母。永禄三年三月二十九日、蘆名盛氏は佐竹・田村連合軍と石川郡松山で戦う。その戦功により感状を賜った。
 
 
  荒井万五郎 (?〜?)
 北会津郡上荒井村出身。天正九年八月六日、蘆名盛隆の使者として織田信長に馬三頭、蝋燭千挺を進献。これにより先祖の名乗った三浦介を約三百三十年ぶりに許される。返礼のために金上盛備が上洛するが、このときに作法を指導したのは客将となった小笠原長時である。
 
 
  神守新蔵人 (?〜?)
 天正十五年、新発田重家に味方した小田切三河守支援のため出陣。しかし、両者は上杉景勝により滅亡した。
 
 
  松井主殿 (?〜?)
 天正十五年、新発田重家に味方した小田切三河守支援のため出陣。
 
 
  小荒井清左衛門 (?〜?)
 天正十五年、新発田重家に味方した小田切三河守支援のため出陣。
 
 
  斎藤又五郎 (?〜?)
 天正十五年、新発田重家に味方した小田切三河守支援のため出陣。
 
 
  梁田彦七郎 (?〜?)
 天正十五年、新発田重家に味方した小田切三河守支援のため出陣。
 
 
  穴沢越中 (?〜?)
 永正元年、伊達家の侵攻に備えて檜原口を警備。
 
 
  穴沢俊恒 (?〜?)
 加賀守。伊達輝宗を撃退した功により、蘆名盛氏から大荒井村を与えられる。しかし、小荒井阿波守と所領のことで争ったため、領地は没収される。
 
 
  穴沢俊光 (?〜1583年)
 穴沢俊恒の長男。新右衛門。伊達家臣七宮伯耆から内通を求められるが拒絶。四郎兵衛は伊達家に寝返り、穴沢一門は多大な被害を受けた。俊光らの首は米沢に送られた。
 
 
  穴沢太郎兵衛 (?〜?)
 穴沢俊光の弟。
 
 
  穴沢興一郎 (?〜?)
 穴沢俊光の弟。
 
 
  穴沢興七郎 (?〜?)
 穴沢俊光の弟。
 
 
  穴沢左馬充 (?〜?)
 穴沢俊光の弟。
 
 
  穴沢善七郎 (?〜?)
 穴沢俊光の弟。
 
 
  穴沢四郎兵衛 (?〜?)
 穴沢俊光の弟。
 
 
  穴沢俊次 (?〜1583年)
 穴沢一門。助十郎。叔父左馬充、その子である次郎兵衛を黒川に派遣し、伊達家が攻撃準備を進めていると報告。しかし、それらしい対策などは指示されなかった。
 
 
  穴沢新十郎 (?〜?)
 永禄八年、伊達家の檜原侵入を防いだ。
 
 
  須江光頼 (?〜?)
 上杉景勝は新発田重家討伐に協力するよう、使者を送る。光頼は景勝に援軍要請を斡旋するという返礼を出した。
 
 
  高玉常頼 (?〜1589年)
 二本松一族。蘆名家に仕える。太郎左衛門。高玉城主千百石余。天文年間に高玉城を築城。天正十七年五月、片倉小十郎の攻撃により滅亡。
 
 
  遠藤源四郎 (?〜?)
 永禄八年七月十五日、伊達勢八百余名は会津侵攻を開始。十七日には伊達家が蘆名家に攻め込む唯一の道である檜原を攻める。遠藤源四郎らはそれを撃退した。
 
 
  高橋彦左衛門 (?〜?)
 永禄八年、伊達家の檜原侵入を防いだ。この合戦で蘆名家側では七十余名が討死した。伊達家の死傷者数は不明である。
 
 
  二瓶内蔵助 (?〜?)
 永禄八年、伊達家の檜原侵入を防いだ。
 
 
  赤城内匠 (?〜?)
 永禄八年、伊達家の檜原侵入を防いだ。
 
 
  鬚四郎左衛門 (?〜?)
 永禄八年、伊達家の檜原侵入を防いだ。
 
 
  塩田輔尚 (?〜?)
 宮内大夫。天文九年二月、諏方神社落成に関する書状に名がある。
 
 
  大槻行綱 (?〜1578年)
 大槻城主。大槻二郎左衛門高行の長男。天正六年二月十四日に誅殺された。妹は多田野十郎の妻であり、蘆名家と田村家の争いに巻き込まれ蘆名盛隆に滅ぼされる。十郎の妻は捕らえられ、会津で磔にされたという。
 
 
  大槻忠直 (?〜?)
 大槻行綱の弟。
 
 
  大槻左馬助 (?〜1574年)
 天正二年、蘆名盛氏は田村清顕と戦う。左馬助は三月の合戦で討死した。
 
 
  保土原万五郎 (?〜1574年)
 天正二年三月、田村清顕との合戦で討死。他に伊東新蔵人、新国彦六らが討死した。
 
 
  大場新助 (?〜1574年)
 天正二年五月、田村清顕との合戦で討死した。この合戦は蘆名家の大敗で、八百名以上が討死したという。この数は多すぎるが、大敗したということは間違いない。
 
 
  太田彦六 (?〜1574年)
 天正二年五月、田村清顕との合戦で討死した。
 
 
  青木与太郎 (?〜1574年)
 天正二年五月、田村清顕との合戦で討死した。
 
 
  今泉右衛門 (?〜1574年)
 天正二年五月、田村清顕との合戦で討死した。
 
 
  酒田備中 (?〜1574年)
 天正二年五月、田村清顕との合戦で討死した。
 
 
  古耶野主善 (?〜1574年)
 天正二年五月、田村清顕との合戦で討死した。
 
 
  日出山詮次 (?〜?)
 又二郎。星安芸とともに小笠原長時を斬殺した坂西勝三郎を富田氏実邸で斬る。
 
 
  本名右衛門佐 (?〜?)
 天正十二年六月十三日の黒川城占拠事件で、二の丸を守っていた右衛門佐はいち早く謀反に気づき、盛隆の妻を米倉に匿う。右衛門佐は謀反を東光寺の盛隆に報告。そのまま抵抗したが、佐瀬常成軍とともに三の丸に入り負傷。後退した。
 
 
  林甚二郎 (?〜?)
 天正十二年、蘆名盛隆夫人を護衛した。
 
 
  森代文二郎 (?〜?)
 天正十二年、蘆名盛隆夫人を護衛した。
 
 
  大場平五郎 (?〜?)
 天正十二年、盛隆婦人を護衛した。
 
 
  柳田助之丞 (?〜1589年)
 富田家臣。天正十七年、磨上原合戦で討死。退却時に日橋川の橋が落とされており、溺れ死ぬ者が多かったという。
 
 
  瓜生三郎左衛門尉 (?〜1578年)
 金上家臣。金上家は針生家とともに蘆名家庶流として蘆名家から優遇された。天正六年、上杉景虎支援のために出陣するが、景勝軍に敗れ討死した。
 
 
  長谷川宮内 (?〜1578年)
 金上家臣。天正六年、上杉景虎支援のために出陣するが、景勝軍に敗れ討死した。
 
 
  長谷川織部 (?〜1578年)
 金上家臣。天正六年、上杉景虎支援のために出陣するが、景勝軍に敗れ討死した。
 
 
  大槻清兵衛 (?〜1578年)
 金上家臣。天正六年、上杉景虎支援のために出陣するが、景勝軍に敗れ討死した。
 
 
  矢部宮内 (?〜1578年)
 金上家臣。天正六年、上杉景虎支援のために出陣するが、景勝軍に敗れ討死した。
 
 
  坂内清右衛門尉 (?〜1578年)
 金上家臣。天正六年、上杉景虎支援のために出陣するが、景勝軍に敗れ討死した。
 
 
  杉岸因幡 (?〜?)
 山ノ内家臣。天文十二年七月、蘆名盛氏は山ノ内家を攻めた。杉岸因幡はこの合戦で種橋藤十郎を討った。
 
 
  大庭三左衛門 (?〜1584年)
 須賀川諏訪神社の神職の子という。天正十二年十月六日夕刻(十日説もある)、蘆名盛隆を斬殺。これは盛隆の寵童であったが、それが衰えたことを恨みに思ってのことという。
 

 
  【付記】
 
 
 蘆名家十七代当主は蘆名盛興が継ぐが、父盛氏より早く死没。二階堂盛義から人質(後に養子)に取っていた盛隆に、義興未亡人を娶らせて十八代当主に。十九代当主は佐竹義重の次男義広が継いだ。
 
 岩城国や下野国北側など猪苗代湖周辺では、塩分を含んだ温泉が湧き出るため直に煮詰めたり、塩田を作ることで塩を生産していた。
 
 天正五年、蘆名氏は商人頭簗田氏に塩荷、塩合物荷物から一定の税を徴収するよう命じた。しかし、簗田氏は京、伊勢、関東など他国から来る商人に対し、船賃、関銭の減免や、積荷への不可侵などを記した証状を下している。京や伊勢など西国の商人が活発に東北と交易を行い、さらに物流には河川を活かして船を使用したとわかる。
 
 南光坊天海は野州宇都宮で生まれ、葦名家に足軽大将として仕えたという説がある。
 
 
 
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