足利家 家臣団
 
 
 
  足利一門
 
 
  足利義稙 (?〜1523年)
 足利十代将軍。今出川義視の子。六代将軍足利義教の孫。義材。「流れ公方」、「島公方」と呼ばれる。細川政元に追われ、周防に逃れる。永正四年、細川家の内乱に乗じ、大内義興の支援を受けて挙兵。細川澄元を阿波に追放し、細川高国を管領に任じた。大永元年三月、管領細川高国に京を追われ、淡路洲本へ逃れる。足利義澄の次男義維を養子とする。大永三年四月九日、阿波撫養にて没す。法名「恵林院殿贈一品征夷大将軍巌山道寂大禅門」。
 
 
  足利義澄 (1480〜?)
 足利十一代将軍。堀越公方足利政和の子。六代将軍足利義教の孫。文明十二年十二月十五日生。明応二年、征夷大将軍就任。長男義晴には赤松義村が付けられ、次男義維には阿波細川之持が付けられた。
 
 
  足利義維 (?〜?)
 足利十一代将軍義澄の次男。足利十代将軍義稙の養子。義冬。「阿州足利平島伝来記」は天正元年、六十五歳で没したとしており、これが正しければ義の生年は永正六年である。この場合、義は永正八年に生まれた義晴の兄ということになる。大永六年、細川持隆、三好元長が管領細川高国を破る。大永七年二月、細川高国は桂川畔の合戦で三好元長に敗れ、足利義晴は近江朽木谷に落ち延びた。同年三月、細川持隆、三好元長に擁立され、堺に入る。同年七月、従五位下左馬頭。しかし、朝廷は義を将軍に任命することはなかった。足利義晴が再起する可能性があったためだろう。義は堺に移り、顕本寺に居住。公家は義を征夷大将軍と同格と見なし、「堺公方」や「堺大樹」と呼んでいる。天文元年六月、三好元長が細川晴元に討たれると、淡路筑に逃れる。細川持隆は平島郷十二村、吉井村、楠根村、丹生村、和食村の計三千貫の土地を献上。以降、義維の家系は「平島公方」と呼ばれた。侍分十五人、都合数三百六十人が平島下向に従っている。平島は阿波の物品を畿内へ送るための要港である。また、足利尊氏創建の京五山第一、天龍寺の荘園と云う要地であった。天文三年、阿波平島館を改修。弘治元年、姻戚関係にある大内義長を頼り、周防に下向。永禄六年、三好長逸に招かれ、阿波に下向。法名「慶林院殿実山道詮大居士」。妻は大内義興の娘。彼女は細川持隆の妻の妹である。子は義栄、義助、義任。
 
 
  足利義栄 (1538〜1568年 31歳没)
 足利十四代将軍。足利義維の長男。天文七年生。永禄八年五月、松永久秀が十三代将軍足利義輝を殺害。三好三人衆は激怒し、久秀と対立。久秀は堺衆の仲介で、多聞山城に退いた。永禄十一年二月、征夷大将軍就任。九月、織田信長に追われ、阿波岡崎に戻る。永禄十一年十月二十日、病没。「阿州将裔記」は永禄九年十月八日に没したとしている。法名「大徳院殿玄山道栄大居士」。
 
 
  足利義助 (?〜?)
 足利義維の次男。足利義栄の弟。平島公方。将軍就任の機会を窺うも、遂に宿願が成就することはなかった。天正十年九月二日、長宗我部元親から知行を安堵される。江戸期、平島公方の知行は百石以下に抑えられた。蜂須賀家は四代足利義次に、平島姓への改姓を求め、加増の訴えも無視した。文化二年、九代平島義根は紀州、京都に移住。すでに権威もなく、京では浪人同然であったと云う。
 
 
  鹿苑寺周ロ (?〜1565年)
 足利義晴の三男。鹿苑寺住職。永禄八年、松永勢に殺害される。
 
 
  尾池保衡 (?〜?)
 足利義輝の子と云う。永禄八年、足利義輝の妻は松永勢の手から逃れ、讃岐に移住。尾池光永を頼った。そして、足利義輝の遺児を出産。遺児の名は義辰と云う。義辰は尾池光永の養嗣子となり、名を保衡に改めた。後に横井城主。天正十五年、生駒親正に仕える。
 
 
  尾池義長 (?〜?)
 尾池保衡の三男。官兵衛。讃岐青野山城を築く。生駒氏、松平頼重に仕える。子の義忠は職を辞し、宇多津に移住。
 
 
  石谷兵部大輔 (?〜?)
 足利義輝の子。「治代普顕記」に名がある。娘は長宗我部元親に嫁ぐ。しかし、足利義輝の年齢を考えると孫娘が長宗我部元親に嫁いだとするには無理がある。石谷光政の事績が誤って伝えられて生まれた架空の人物だろう。
 
 
  大覚寺義俊 (?〜?)
 近衛尚通の子。足利義輝、義昭の生母慶寿院の弟。大覚寺門跡。天文八年、朝倉孝景からの依頼により、足利三代義満直筆の書を十三代義輝に上覧。この書は朝倉三代氏景が合戦で先鋒を務めたことへの恩賞であり、彼の道号「大切」の文字が書かれていた。孝景はこうした書を示すことで、朝倉家と足利家のつながりを義輝に認識してもらおうとした。同時に初代尊氏の画像も献上されている。永禄四年、三好長慶と六角義賢が争う。この戦乱を避けるため、永禄五年七月、越前に下向。八月二十一日、朝倉義景は旅の疲れを癒してもらうため、阿波賀河原にて「曲水の宴」を行う。これは曲がりながら流れる水に杯を浮かべ、その杯が自分の前を過ぎるまでに歌を詠むもの。三月三日に行うことが慣例であり、義景は歌の内容を春にすることで、秋に曲水の宴を行った。大覚寺義俊、四辻大納言季遠、四辻中将公遠、飛鳥井中納言雅教、飛鳥井少将雅敦、豊原将監親秋らが出席。朝倉家中の重臣らと和歌二十三首、漢詩七首をを詠んだ。
 
 
  聖護院門跡道増 (?〜?)
 足利義輝の叔父。永禄二年十一月、毛利元就と尼子義久の合戦を止めるため安芸へ。幕府の仲介で両家は和解。しかし、道増が帰国すると再び合戦となった。
 

 
  有名家臣の一門
 
 
  三淵顕家 (?〜1573年)
 三淵晴員の長男。細川藤孝の兄。しかし、藤孝は十二代義晴の庶長子の可能性があり、血縁はないのかも知れない。大和守、左衛門、弾正、藤之。十三義輝の初名義藤から一字を賜る。義輝、義昭に仕え、三好家と争う。天正元年七月六日、近江坂本にて自刃。
 
 
  三淵秋豪 (?〜?)
 顕家の長男。弥四郎。父と共に自刃。
 
 
  紹j玉甫 (?〜?)
 三淵晴員の三男。細川藤孝の弟。紫野大徳寺住職。忠興は慶長十六年、亡父幽斎のために豊前国に一寺を建立。澤庵宗彭を住職に望むが、宗彭はこれを断る。紹jは宗彭の一派の老僧であり、その縁もあって忠興から説得を要請される。しかし、宗彭はそれでも断っている。宗彭は石田三成と昵懇であり、徳川家に味方した忠興を嫌ったためという。晴員四男は南禅寺悟心院住職となった元仲である。
 
 
  細川尹隆 (?〜?)
 小四郎、中務大輔、陸奥守。従四位下。尹経。細川一族。永正六年六月十三日、足利義稙から所領を安堵される。天文二年正月十一日、従五位下陸奥守。四年六月五日、従四位下。
 
 
  細川晴経 (?〜?)
 尹隆の子。三郎四郎、中務大輔。天文十五年十二月十九日、足利義輝元服の際に理髪役。義輝が近江に逃れる際に従い、感情を賜る。
 
 
  細川輝経 (?〜?)
 晴経の子。中務大輔、陸奥守。意斎。御供衆。義輝の命により長岡忠興を養子に迎えた。後の細川忠興である。某年没。法名「宗賢栄久院」。妻は松井広之の娘。
 
 
  石谷光政 (?〜?)
 土岐一族。孫三郎、兵部大輔、摂津入道空然。「言継卿記」天文十三年正月十日の項目に「御走衆 土岐石かい」とあり、御走衆を務めていたと分かる。天文十五年十二月十九日付の「光源院殿御元服記」に公方御走衆として名がある。永禄六年、御小袖御番衆。
 
 
  石谷頼辰 (?〜1586年)
 斎藤利賢の子。明智重臣斎藤利三の兄。石谷光政の養子となり、石谷氏を継ぐ。娘は長宗我部信親に嫁ぐ。孫九郎、兵部少輔。外様詰衆。天正十年頃、土佐に移る。天正十三年、豊臣秀吉の四国征伐に際し、長宗我部軍に属して応戦。天正十四年、豊後戸次川合戦で討死。
 
 
  石谷加兵衛 (?〜?)
 石谷頼辰の子。天正年間頃、父と共に土佐に移る。天正十六年十月の「長岡郡江村郷地検地帳」によると、蓮如寺村に石谷殿の名がある。
 
 
  石谷光政 (?〜?)
 幕府御小袖御番衆。美濃土岐一族。兵部大輔。娘は長宗我部元親に嫁ぐ。
 

 
  足利家 家臣団
 
 
  伊勢貞孝
 幕府政所執事。伊勢宗瑞の遠戚。永禄五年九月、討死。子の貞興は明智光秀に仕えた。
 
 
  伊勢貞良
 伊勢貞孝の子。斎藤道三の娘を娶る。斎藤義龍の娘を娶ったとも云う。永禄三年、六角義治は敵対していた斎藤義龍の娘を娶り、両家は和睦した。伊勢貞良はその仲介役となった。永禄五年九月、討死。娘は池田元助に嫁ぐ。
 
 
  蜷川親順 (?〜?)
 蜷川親孝の子。蜷川氏は幕府政所代を務め、連歌の嗜みの深い家柄として知られた。子は親世。
 
 
  蜷川親世 (?〜?)
 蜷川親順の子。親俊。蜷川家の財政が厳しくなり、出羽西村山郡に下向した。子は親長、親政、吉兵衛。吉兵衛は斎藤利賢の養子となった。
 
 
  蜷川親長 (1533〜1610 78歳没)
 蜷川親世の子。連歌師。新右衛門、道標。長宗我部元親の連歌の師。長宗我部元親の義兄弟。蜷川家の財政が厳しくなり、土佐に下向。天正三年、長宗我部元親は蜷川親長を通じ、策彦周良に自身の法号選定を依頼。策彦周良は「雪蹊恕三」の法号を選んだ。天正十六年十九月二十一日付の土佐長岡郡江村郷蓮如寺村の検地帳に名があり、天正年間後期は土佐に居住していたと分かる。慶長五年、浦戸城引き渡しを拒む長宗我部家臣が浦戸一揆を起こすと、子の親満と共に平定に尽力した。後に大坂城で徳川家康に拝謁し、御伽衆として五百石で召し抱えられる。慶長十五年五月八日、七十八歳没。法名「如水軒峯室道標居士」。妻は斎藤利忠の娘。子は親満。
 
 
  蜷川親満 (?〜?)
 蜷川親長の子。慶長五年、浦戸城引き渡しを拒む長宗我部家臣が浦戸一揆を起こすと、父親長と共に平定に尽力した。
 
 
  蜷川親政 (?〜?)
 蜷川親世の子。親長の弟。蜷川家の財政が厳しくなり、下野佐野に下向した。
 
 
  大館晴光 (?〜?)
 幕府内談衆。
 
 
  大館藤安 (?〜?)
 天正三年、上杉謙信への使者となり、武田家や北条家、一向一揆と結んで幕府最高に尽くすよう求めた。
 
 
  梅仙軒霊超 (?〜?)
 足利義昭の側近。元亀元年、村上通総は梅仙軒霊超の知行地である伊予越智郡日吉郷海会寺領を横領。幕府は村上通総に知行地返還を命じたが、通総はこれを無視した。
 
 
  進士晴舎 (?〜?)
 足利義輝の近習。修理亮。上州金山城主由良成繁は幕府内談衆大館晴光への書状について、進士晴舎に問い合わせた。晴舎は由良成繁に直接、大館晴光に書状を送って構わないと返答した。
 
 
  真木島昭光 (?〜?)
 足利義昭に仕える。備後鞆にも同行。
 
 
  上野秀政 (?〜?)
 足利義昭に仕える。備後鞆にも同行。
 
 
  畠山昭賢 (?〜?)
 足利義昭に仕える。備後鞆にも同行。
 
 
  野村越中 (?〜1570年)
 元亀元年九月、本願寺と織田信長が争うと織田方として出陣。十四日、前田利家に属すも一向一揆との合戦で討死した。
 
 
  真継久直 (?〜?)
 弥五郎。蔵人所小舎人の家系。京に居住する。天文十二年六月十一日付の今川義元の書状に名がある。今川義元は鋳物師の諸役を免除している。
 
 
  彦部晴直 (?〜1565年)
 上州彦部氏庶流。足利家に仕え、永禄八年五月十九日、松永久秀に攻められ義輝と共に討死した。子の信勝、輝信は近衛前久に従い関東へ向かい、彦部宗家に属した。
 
 
  前田又太郎 (?〜?)
 秋田大曲城主前田道信の長男。東北の地から足利義輝に仕えるため上洛した。父は天文元年、由利十二党との合戦で流矢に当たり討死。弟の前田薩摩は織田信長に鷹を献上し、所領安堵の書状を得た。
 

 
僧侶
 
 
  策彦周良 (?〜?)
 天龍寺の僧。遣明使節として二度、明に渡った。惟高妙安と共に武田信玄に出陣の際には易者に占ってもらうよう勧めた。
 
 
  大華 (?〜?)
 朝倉家の易者に師事する。後に足利義昭の易者となる。足利義昭は織田信長と共に上洛すべきかを大華に占わせた。大華は占いの結果を吉と伝えた。義昭は大いに喜んだと云う。
 

 
  兵法者
 
 
  吉岡直賢 (?〜?)
 憲法。京八流を祖とする吉岡流の使い手。十五代足利義昭の指南役。新免無二斎との御前試合に敗れる。
 
 
  吉岡直綱 (?〜?)
 吉岡直賢の長男。清十郎、源左衛門、憲法。憲法の名は代々継がれ、意味は古風を守る精神に由来するという。慶長九年、宮本武蔵に敗れたとされるが、「吉岡伝」には憲法の勝利と書かれており真偽は不明である。武蔵側の「二天記」には、蓮台野で立ち会い、木刀の武蔵に敗れ気絶。その後、出家してしまったという。次に弟伝七郎直重が五尺もの木刀を持って立ち会うが、逆に木刀を奪われ死んでしまう。そして有名な一乗寺下り松の決戦になる。吉岡側の「吉岡伝」には京都所司代板倉勝重の仲介で戦い、武蔵と相打ちに近い状態になる。後日、再び戦うことになるが、そこで武蔵は逃げてしまったと書いてある。とにかく、数年後には染物屋となり、吉岡染として有名になっている。従兄弟とされる重堅は慶長十九年、誅殺されている。
 
 
  吉岡直重 (?〜?)
 吉岡直賢の次男。又市、伝七郎。憲法直綱の弟。武蔵と戦い死んだというが、真偽は不明。直綱の代わりに立ち会いを望む武芸者と戦ったという。六尺を越す朝山三徳、鹿島林斎などと戦い、いずれも勝利したという。
 

 
関係外国人
 
 
  長子孔 (?〜?)
 生国は明。「白陽館年譜」は天文二十二年四月、琉球に渡り砲術を伝えたと記す。その後、種子島に移り、弘治二年には京に入った。足利義輝は彼から鉄炮製作の術を学ぼうとするが、特に学び得るものはなかったと言う。佐々木義秀に砲術を伝え、国友に二百貫の土地を賜り鉄炮作製に協力。佐々木義秀は完成した六匁玉筒二挺を義輝に献上。この功により、国友の鍛冶である藤内一族は「能当」、他の鍛冶は「重当」の二字を賜る。彼の妻は異国の生まれで、耳に輪を付けていたため「環」と呼ばれた。東南アジアの生まれだろう。
 

 
  【付記】
 
 
 
 【細川藤孝落胤説】
 細川藤孝を十二代将軍足利義晴の子とする説は「寛政重修諸家譜」にも伝承として記されている。生前から広く知られていたのだろう。公式系譜集に記していることを考えると、江戸幕府も足利家の血筋と認めているように思える。忠興は十三代義輝の命で御供衆細川輝経の養子として細川姓を名乗る。忠興の細川姓は、父の姓ではなく養父の姓である。
 
 
 
 【戦国時代の籤】
 有名な織田家の母衣衆は永禄年間、またはそれ以前に組織された。伝令役、目付役などの重要な任務を与えられ、馬廻衆などから選出され、必要に応じて追加される者もいた。「利家夜話」には戸田勝成が赤母衣衆の者は黒母衣衆の者よりも少し名が知られていないようだ、と述べると、利家は籤によって赤母衣衆、黒母衣衆に選別されたのだと答えたとある。
 当時、籤引きは「神が籤によって特定の人、物を選出する行為」と考えられていた。織田信長は神仏を信じない合理的な人物という俗説があるが、実際はこのように神懸かり的な行為から母衣衆を選出していたのだ。
 室町幕府六代将軍足利義教は籤引きによって将軍に選出されたが、現代の価値観から籤引きなどで将軍を選出するのは愚行、さらには義教を籤引きによって重臣に擁立された傀儡などと評価してしまっている。実際の足利義教は九州統一や関東征伐を成し遂げた人物であり、織田信長や上杉謙信も義教の行為を模倣している。決して愚かな人物などではない。
 籤が重視された例は他にもある。永禄十二年、毛利家に攻められた大友宗麟は田原八幡を勧請。氏神の前で家臣に籤を引かせ、誰が先陣となるべきかを決めている。天正十三年春、島津家では豊後攻めの期日を籤で占い、夏とした。夏になり、再び籤を引くと秋にすべしと出た。翌十四年、川田義朗が籤を引き、合戦は初秋とした。
 当時の考えからからすれば、源氏の氏神である石清水八幡宮が義教を選んだものと認識すべきである。そうした意味でも足利義教の再評価が期待される。
 
 
 
 【永禄十一年三月下旬 越前南陽寺歌会の参加者】
 仁木義政・大館晴忠・上野陸奥守信忠・一色播磨守晴家・一色式部少輔藤長・佐々木治部少輔高成・武田治部少輔信堅・伊勢宮千代・大館治部少輔宗貞・武田刑部大輔信実・一色四郎秋孝・三渕弥四郎秋豪・一色三郎秋成・椙原長盛・上野中務少輔秀政・飯川信堅・安藤蔵人泰識
 
 
 
  【永禄中期 足利義昭関連年譜】
 
  『永禄八年』
 五月十九日:足利義輝暗殺。
 七月二八日:大覚寺義俊、一乗院覚慶を近江甲賀郡和田城に移す。
 八月五日:覚慶、上杉謙信へ書状を送り、上洛を促す。
 十一月:覚慶、近江矢島に移る。
 
  『永禄九年』
 二月十七日:覚慶、還俗。足利義秋を名乗る。
 四月二十一日:義秋、従五位下左馬頭に叙任される。征夷大将軍就任のための布石。
 
  『永禄十年』
 三月:朝倉義景、堀江氏の乱を鎮圧。
 八月二十九日:義秋、妹婿の武田義統を頼り、若狭に逃れる。義統、元明父子の対立により、若狭武田家は上洛出来る状態ではない。そのため、義秋は朝倉氏を頼ることに。
 九月八日:朝倉義景を頼り、越前に移る。義景、義秋のために安養寺御所を造営。義景は堀江氏の乱以後、加賀一向一揆への警戒を強め、義秋を奉じての上洛は出来なかった。そのため、義秋は自ら仲介役となって「加越和議」を成立させている。同月、若狭武田義統、三十二歳で没す。
 十一月二十一日:義景、朝倉景恒を案内役として、義秋を一乗谷城に迎える。
 十一月二十七日:義景、安養寺御所に出仕。
 十二月十二日:加越和議により、加賀からの人質が一乗谷阿波賀に送られる。また、和議の条件として、義景の娘(生母管領細川晴元息女)を教如の正室に迎えることが決まった。
 十二月十五日:加越和議により、本願寺は加賀柏野城、松山城を破却。朝倉家は黒谷城、檜屋城、大聖寺城を破却。
 十二月二十五日:義秋、義景邸を訪問。義景は義秋を将軍として出迎えた。
 
  『永禄十一年』
 三月八日:義景生母光徳院、義秋から従二位(女性の最高位)に任ぜられる。義景は御礼のため、祝宴を開く。
 三月中旬:義秋の元服の準備が始まる。
 三月下旬:義景、南陽寺にて遊宴を催す。糸桜を題に、歌の会が開かれる。
 四月上旬:前関白二条晴良、義秋の元服の式に出席するため、越前に下向。
 四月二十一日:二条晴良の加冠、朝倉義景の理髪にて、義秋の元服式が行われる。義秋、義昭に改名。
 五月十七日:義昭、義景邸を訪問。元服を祝う祝宴が催される。
 六月二十一日:義昭、安養寺御所に義景を招く。
 六月二十五日:朝倉義景嫡子阿君、七歳で死没。この頃、義昭は織田信長からの岐阜動座の要請を受け入れる。
 七月十三日:越前を出立。義景に終生、恩義は忘れないとの誓詞を与える。朝倉景恒、前波景当が二千余名を率い、近江国境まで警護した。
 七月十六日:義昭、近江小谷城にて浅井長政からの饗応を受ける。
 七月二十五日:義昭、岐阜に到着。
 八月:朝倉義景、若狭を攻め、武田元明を越前に移す。
 九月七日:信長、上洛のため岐阜を立つ。軍勢は公称四万から六万。
 九月十三日:織田軍、観音寺城を落とす。佐々木承禎、城を逃れる。
 九月十四日:不和河内守、美濃立正寺の足利義昭への使者となり、上洛のため寺を出立されるよう進言。
 九月二十六日:信長、三井寺光浄院に着陣。翌二十七日、同寺に義昭も着陣。
 九月二十九日:柴田勝家、岩成友通を破る。
 九月晦日:信長、義昭、芥川城に着陣。松永久秀、信長に「つくもかみ」を献上。今井宗久、信長に「松嶋の壺」、「紹鴎茄子」を献上。
 十月十八日:義昭、征夷大将軍就任。従四位、左近衛権中将、参議に叙任。同日、義昭主催の能興行が行われる。当初は十三番であったが、信長が不快感を示し、五番に変更。演目は「高砂」、「八嶋」、「定家」、「道成寺」、「呉羽」。義昭、宴の最中、信長に副将軍、もしくは管領への就任を打診。信長、これを拒否。「道成寺」の始まる直前、義昭は信長に鼓を打つよう所望。信長、これを拒否。終演御、信長は義昭の名前ではなく、自分の名前で引出物を渡す。
 十月二十四日:義昭、信長に「御父織田弾正忠殿」と記した書状、さらに「桐」の紋、「引両筋」の紋を贈る。
 
  『永禄十二年』
 二月:室町邸造営開始。
 
 
 
 【天正十六年、室町幕府解体】
 足利義昭は天正元年に追放されたため、これを室町幕府の終焉とする説がある。しかし、義昭は各地を転々とした上で毛利家に向かい、海陸の交通の要所である鞆に館を構えた。ここで甲斐武田、長尾上杉、後北条、龍造寺、島津など有力諸大名から将軍と敬われ、彼らからの献上品を受け取っているのだ。当時、将軍が追放されることは日常茶飯事であり、信長が室町幕府を滅ぼしたという認識はまるでなかった。十二代足利義晴は近江佐々木氏を頼り、観音寺城西にある桑実寺に三年間、仮幕府を置いた。義昭も鞆に仮幕府を置いたとすべきではないか。毛利家も諸大名からの使者を丁重にもてなしている。こうした諸大名との交流が、第二次信長包囲網形成の大きな力となったのは言うまでもない。義昭自身、幕府は存続していると認識しており、秀吉が従一位になることも征夷大将軍として認めている。義昭は将軍職辞任(天正十六年)まで公的に征夷大将軍と認められていたことがわかる。蜂須賀正勝は天正十一年以降に放火事件を鎮めたことがあり、足利義昭から褒美として羽織を賜っている。義昭にそれなりの権威が残っていたことを示す逸話である。義昭の征夷大将軍職辞任を以て、室町幕府はその役目を終えたとすべきである。それまでは関白秀吉を中心とした政治形態と、形骸化したものの室町幕府の権威が両立していたのだ。信長が室町幕府を滅ぼしたという説は後世の誤った認識である。
 
 
 
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