有馬・大村家 家臣団
 
 
 
  有馬直純 (?〜?)
 有馬晴信の子。父の刑死後、遺領を継ぐことを許される。慶長十七年、禁教令に従い改宗。領内の教会を取り壊し、切支丹には改宗を命じた。慶長十九年、日向に移封。
 
 
  有田盛公 (?〜1594年)
 有馬晴純の弟。有田氏の養子となる。永禄十二年、唐船城主。元亀三年、有田親と争う。天正五年正月、龍造寺隆信に降伏。文禄三年没。一説に天正四年病没とも。
 
 
  千々石直員 (?〜1570年)
 有馬晴純の三男。千々石氏を継ぐ。釜蓋城主。永禄六年、後藤貴明に属し、兄純忠と争う。元亀元年、横造城を守るが、龍造寺家に攻められ討死。
 
 
  千々石澄員 (?〜1577年)
 千々石直員の子。大和守。天正五年、龍造寺勢に攻められ自刃。
 
 
  千々石清左衛門 (?〜?)
 千々石澄員の子。天正少年遣欧使節団の一人。千々石ミゲル。
 
 
  松浦盛 (?〜?)
 有馬晴純の子。松浦親の養子となる。
 
 
  志岐親重 (?〜?)
 有馬晴純の五男。天草五人衆志岐鎮経の養子となる。島津義弘の娘を娶る。
 
 
  有馬鎮貴 (?〜?)
 有馬一族。天正五年、龍造寺隆信の高来軍侵攻を防ぐ。翌六年、再び隆信に攻められる。安富氏、安徳氏らが離反したため、鎮貴も龍造寺家に降伏した。天正十年十月、島津家と結び、龍造寺家に背く。深江城を攻めるも、落とすことは出来なかった。
 
 
  長崎純方 (?〜?)
 有馬一族。長崎領主。左馬大夫。
 
 
  長崎純景 (?〜?)
 長崎純方の子。長崎領主。桜馬場城主。甚左衛門。大村純忠の娘を娶る。切支丹。洗礼名「ベルナルド」。天正六年から八年にかけて、深堀純賢に攻められる。
 
 
  長崎重方 (?〜?)
 長崎純景の弟。惣兵衛。玖島城築城奉行。
 
 
  大村純頼 (?〜1619年)
 大村喜前の子。玖島城主。慶長十二年、権力基盤の確立のため一門重臣を追放。慶長十九年、玖島城を改修。元和五年、急に吐血し、まもなく没した。大村氏は藤原純友の子孫を称したが、これは確証に乏しい。
 
 
  大村純種 (?〜?)
 小峰城主大村純次の子。本家筋の大村純忠と対立。永禄十二年、松浦氏、後藤氏の助勢を得て純忠の軍勢を退ける。後に本家側に属すこととなった。
 
 
  大村尚純 (?〜?)
 天文二年、大内氏に攻められるも夜襲によって撃退。
 
 
  大村純勝 (?〜?)
 刑部大輔。大村喜前が杭出津に居城を築こうとすると、箕島の方が守りに適していると言上。これにより箕島に居城玖島城を築くこととなった。慶長三年、玖島城は完成した。
 
 
  大村彦右衛門 (?〜?)
 大村家家老。元和五年、当主純頼が没すると、大村家は御家断絶の危機に瀕する。彦右衛門は幕府と交渉し、大村家の存続を認めさせた。
 
 
  大村筑前 (?〜?)
 歌舞多城主。後藤貴明に攻められ、城に籠もる。城兵込屋玄蕃は籠城中ながら、双六のため後藤側の小峰城に赴く。後藤勢はこれを知ると玄蕃と通じ、歌舞多城内に火を放つことを約束させた。それを聞いた乞食は直ちに筑前に事の次第を言上。筑前は城に戻ろうとする玄蕃を討つ。後藤勢は火攻めの刻限に城を囲むが、火の手は上がらず、込屋玄蕃という者はいるかと大村勢に訪ねた。大村勢は玄蕃とはこの者か、と玄蕃の首を投げつけた。後藤勢はこれに驚き、門を開き突撃をかけた大村勢に敗れた。
 
 
  大村純辰 (?〜?)
 山城守。元亀三年七月、三城籠城に参加。大村純辰、朝長大学純盛、朝長安芸守純基、今道遠江守純近、宮原常陸介純房、藤崎出雲守純久、渡辺伝弥九純綱ら七名が守将として城を守った。合戦後、七将の活躍からこの籠城は「三城七騎籠」と呼ばれた。籠城中は十三名で本丸を守り、純忠の護衛役となった。七将の子孫は主家に忠誠を尽くしたとして厚遇された。
 
 
  大村純常 (?〜?)
 左近大夫。天正十四年九月、長純一が大村氏に背き、浜ノ城に籠もる。純常は五十名を率いて出陣。しかし、城に着く前に飲み水が不足。進退に窮するが、咽が渇いたならば梅を思えと言う者がいた。一同、梅を思い描き、唾を飲んで再び行軍。城攻めはわずか一日で成功し、純一は深堀氏を頼り落ち延びた。唾を飲んで戦ったことから、浜ノ城は唾飲城と呼ばれるようになった。
 
 
  福田兼次 (?〜?)
 大村重臣。福田城主。切支丹。洗礼名「ジョーチ」。福田城下には千人を超える切支丹が居住したと言う。子は忠兼。
 
 
  福田忠兼 (?〜?)
 福田城主。子は兼親。
 
 
  福田兼親 (?〜?)
 福田忠兼の子。福田城主。大村純忠の娘を娶る。
 
 
  武藤敏武 (?〜?)
 右馬助。大村喜村の娘を後妻として娶る。
 
  朝長純兵 (?〜?)
 天文二年、大内氏に攻められるも夜襲によって撃退。
 
 
  朝長純利 (?〜?)
 伊勢守。大村家主席家老。
 
 
  朝長純安 (?〜1563年)
 朝長純利の弟。切支丹。洗礼名ドン・ルイス。横瀬浦奉行。永禄六年、後藤貴明、針尾伊賀守に殺害される。
 
 
  朝長純盛 (?〜?)
 大学。元亀三年七月、三城籠城に参加。朝長純基ら十四名と共に大手を守る。
 
 
  朝長能登 (?〜?)
 朝長一族。後藤貴明が歌舞多城を攻めると、歌舞多城籠城に参加。
 
 
  針尾伊賀守 (?〜?)
 大村家臣。横瀬浦奉行。永禄六年、平戸松浦氏に通じ、大村家臣朝長純安を討つ。永禄七年、大村氏に備えるため牛ノ岳城を築く。同年、大村氏は軍船百艘で松浦氏を攻めるが、針尾伊賀は佐志方杢兵衛と協力し撃退に成功。
 
 
  針尾三郎左衛門 (?〜?)
 針尾伊賀守の長男。針尾島佐志方城代。松浦家に仕える。元亀三年、大村氏に寝返る。そのため松浦勢に攻められるが、城に籠もったため長期対陣となった。
 
 
  内海政通 (?〜?)
 内海城主。後藤貴明に討たれる。子は政広、照日。
 
 
  内海政広 (?〜?)
 内海政通の子。妹は照日。妹と共に後藤勢と所領争いを繰り返した。
 
 
  内海照日 (?〜?)
 内海政通の娘。政広の妹。兄と共に後藤勢と争う。呪術によって敵兵を惑わし、撤退させることがあったと伝わる。元亀三年、後藤貴明が三条城を攻めると、大村純忠の命で呪詛を行う。没後、生前の異能から神格化され、「照日観音」と崇められるようになった。
 
 
  庄式部少輔 (?〜?)
 天文二年、大内氏に攻められるも夜襲によって撃退。
 
 
  原直勝 (?〜?)
 塩吹城主。監物。
 
 
  原直景 (?〜?)
 原直勝の子。塩吹城主。永禄四年、後藤勢に攻められ落城。籾岳城を築く。後に後藤氏と共に龍造寺家に属した。
 
 
  永田大蔵充 (?〜?)
 原一族。永禄年間、鳥付城を築く。
 
 
  富永佐渡 (?〜?)
 天文二年、大内氏に攻められるも夜襲によって撃退。他に樋口越前らも参戦した。
 
 
  中尾喜之助 (?〜?)
 重ノ城守将。後藤貴明に攻められるも挟撃にて撃退。他に守将として坂本土佐、幸吉弥七兵衛がいた。
 
 
  釜之内新兵衛 (?〜?)
 重ノ城守将。後藤貴明に攻められると、重ノ城守将衆は新兵衛を囮として城に残し、他の者は付近に身を潜めた。貴明が城の付近まで攻め込んでくると、守将らは挟撃を行い撃退した。他に守将として後藤菅牟田新次兵衛、坂本次郎左衛門がいた。
 
 
  恵美須丸五郎右衛門 (?〜?)
 重ノ城守将。後藤貴明に攻められるも挟撃にて撃退。他に守将として大黒丸五郎兵衛がいた。
 
 
  今道純近 (?〜?)
 遠江守。元亀三年七月、三城籠城に参加。今道越後守ら十六名と共に搦手を守る。
 
 
  宮原純房 (?〜?)
 常陸介。元亀三年七月、三城籠城に参加。籠城に加わったのは女子供を含めて八十名ほどであり、数の不利から多くの内通者が出たと言う。そのため、城将は落城間近と考え、酒宴を開く。「二人静」が唄われると、純房は自ら舞を舞ったと伝わる。
 
 
  富永又助 (?〜?)
 大村旧臣。元亀三年七月、大村純忠の居城三城は後藤、松浦、西郷の三家に攻められる。又助は讒言により浪人したと偽り、西郷家臣尾和谷軍兵衛の陣に向かう。必ず一番乗りを行うから三城攻めの軍勢に加えて欲しいと訴え、距離を見計らい軍兵衛の腿を刺す。軍兵衛は深手を負い、西郷陣中は大混乱に陥り撤退。又助は三城まで逃れ、軍兵衛に手傷を負わせたと報告。大村純忠は大いに喜び、一字を与え富永忠重と名乗らせた。大村家の援軍も着陣したため、松浦勢は撤退。後藤貴明も撤退を余儀なくされた。
 
 
  堀池壱岐 (?〜?)
 後藤貴明が歌舞多城を攻めると、歌舞多城籠城に参加。他に南孫右衛門、矢次右馬大夫、福田織部、田崎出雲らも歌舞多城に籠もった。
 
 
  渋江公師 (?〜?)
 大村純忠に仕える。豊後守。岳山城主。
 
 
  富永忠清 (1561〜?)
 四郎左衛門尉。元亀三年七月、三城籠城に参加。このとき、わずか十二歳だった。
 
 
  福田次郎右衛門 (?〜?)
 風南城守将。後藤勢の城攻め案内役となった杢尾八右衛門を味方にし、小峰城内に火を放たせる。城兵はこれを機に小峰城を攻め、後藤勢を打ち破った。弟の福田清左衛門も守将となった。
 
 
  田崎藤之助 (?〜?)
 風南城守将。一族田崎新右衛門、田崎平右衛門、田崎志摩、田崎越中、田崎近江、田崎与左衛門も守将となった。
 
 
  岩永杢右衛門 (?〜?)
 風南城主。他に三根角右衛門、三根常陸、一瀬善助も守将となった。
 
 
  杢尾八右衛門 (?〜?)
 風南城兵であったが、一時、浪人となる。後藤貴明が風南城を攻めると、案内役となる。この時、福田次郎右衛門らと顔を合わせ、所領と与えることを条件に風南城側と通じる。八右衛門は小峰城に火を放ち、城外に逃れた後藤勢は風南城兵に攻められ敗れた。
 
 
  山口杢之助 (?〜?)
 後藤貴明は大村領松岳城を攻め落とす。彼杵村の住人杢之助は近隣の者と共に策を練り、降伏するとして松岳城にて人質を差し出した。後藤勢は喜ぶが、杢之助は松岳城内に火を放つ。後藤勢は混乱し、大村勢に攻められ敗走。杢之助は恩賞として彼杵村に二町を賜った。
 
 
  福田丹波 (?〜?)
 松山城主。後藤貴明は丹波の留守中に松山城を攻めるが、丹波の娘が城兵を指揮し、自らも投石を行い後藤勢を撃退。彼女は「金谷の石打御子」と呼ばれた。しかし、丹波は後に後藤家に属す。大村純忠は福田薩摩に松山城攻めを命じ、丹波は武雄に落ち延びた。
 
 
  福田薩摩 (?〜?)
 福田丹波の弟。兄が後藤家に属すと、大村純忠の命で松山城を攻める。
 
 
  木戸万九郎 (?〜1577年)
 千々石直員、澄員に仕える。天正五年、龍造寺勢に攻められ、澄員と共に自刃。
 
 
  町田兵七郎 (?〜1577年)
 千々石氏家老。天正五年、龍造寺勢に攻められると迎撃のため出陣。澄員自刃の報を受け、自らも腹を切った。
 
 
  峰弾正 (?〜1575年)
 峰将監と共に今富城将。後に菅無田砦守将。天正五年十二月、龍造寺隆信は八千余名を率いて大村領を攻める。この時、菅無田砦も龍造寺勢に囲まれることとなった。大村純忠は今宮城に引くよう命じたが、弾正ら三百余名は砦を守りることを決意。十二月十二日、十三日と二日に渡り戦い、城兵は総じて討死した。
 
 
  一瀬半左衛門 (?〜1575年)
 菅無田砦守将。天正五年十二月、龍造寺勢に攻められたため籠城。他に庄善助も砦に籠もった。
 
 
  福田右京亮 (?〜?)
 永禄九年七月、後藤家臣大串正俊を討つと、純忠は右京亮に命じて正俊の居城神浦城を破却した。
 
 
  大串正信 (?〜?)
 後藤家臣大串正俊の子。大村家に仕える。天正八年、長崎純景が深堀純賢に攻められると、これを助ける。
 
 
  小佐々弾正 (?〜?)
 小佐々城主。小佐々氏は西彼杵地方の有力国人であったが、後に所領を減らされている。
 
 
  小佐々兵部 (?〜?)
 元亀三年七月、三城籠城に参加。
 
 
  田川隆通 (?〜?)
 鳥越城主。上野介。永禄六年、後藤勢との合戦で功があった。
 
 
  大野山城守 (?〜?)
 島原大野城主。天正十二年、龍造寺隆信は大野城を補給に活用し、多くの物資を搬入。隆信が討死すると、山城守はこれを有馬氏に献上し、討伐を免れている。
 
 
  相川藤左衛門 (?〜?)
 元亀年間、福田番所を守る。
 
 
  草野浄仙 (?〜?)
 天正年間、高田城主。
 
 
  吉川素庵 (?〜?)
 周防浪人。近江入道。元亀三年七月、三城籠城に参加。他に極楽寺住職阿金法印も城にいたため、籠城に加わることとなった。
 
 
  守山宮内 (?〜1563年)
 守山城主。有馬家に仕えるが、永禄六年、西郷氏に寝返る。そのため有馬勢に攻められ、籠城の末に討死した。
 
 
  千々岩淡路 (?〜?)
 守山宮内に仕える。永禄六年、守山城は有馬勢に攻められ落城。この時、討死したか。他に田中監物も西郷氏に寝返ることに賛同したと言う。
 
 
  安富純治 (?〜1584年)
 島原半島に勢力を持った国人。有馬氏に属す。一族安富新七郎と共に浜城を守る。沖田畷合戦後、島津家に捕らえられて刑死。
 
 
  安富純泰 (?〜?)
 深江城主。天正十年十月から十一年にかけて、有馬鎮貴らに攻められる。龍造寺勢が駆けつけたため、城を守りきった。後に佐賀に移り、深江下野守を称す。
 
 
  安徳直治 (?〜?)
 島原半島に勢力を持った国人。安徳城主。
 
 
  安徳純俊 (?〜?)
 安徳城主。有馬氏に属す。沖田畷合戦で龍造寺家に属す。後に島津家に属し、天正十一年には深江城攻めに参加。
 

 
 【付記】
 
 
 
 西郷氏当主西郷純久は有馬晴純の弟。晴純の三男藤堂丸は波多氏を継ぎ、波多親を称した。後藤貴明は大村純前の子。天草は鉄炮の生産地として知られる。天草で造られた鉄炮は「有馬鉄炮」と呼ばれた。
 
 
 
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