尼子家 家臣団
 
 
 
 尼子一門
 
 
  尼子久幸 (?〜1541年)
 尼子経久の弟。下野守。天文八年十一月一日、来年の計画を話し合う「備定談合」の席で、当主尼子詮久、後の晴久の毛利領攻撃に反対。安芸、備後の国人衆の動向が不明確であるため毛利勢を赤名表に誘い出し、大内家が毛利氏救援に駆けつけたところを石見から山口に攻め込むという策を言上。しかし、詮久は臆病野州の戯言と罵った。周囲の者も野州比丘尼、尼子比丘尼と嘲笑うが、経久は久幸の判断が正しいと主張し、自分亡き後は久幸の意見を聞き入れるよう詮久を諭したと言う。天文九年、郡山城攻撃のため尼子国久、誠久と共に出陣。六月、毛利家臣深瀬隆兼に阻まれ、可愛川を越えることが出来ずに撤退。琵琶湖竹生島宝厳寺造営のため尼子諸将が寄付をした天文九年八月十九日付「自尊上人江御奉加目録」には、国久、誠久、久幸、久豊、清久、詮幸、久尊、又四郎と尼子一門が地位の順に記されている。久幸は一門第三位、子の詮幸は第六位の地位にいたとわかる。天文十年正月十三日、尼子軍は毛利軍の猛攻と大内軍の背面攻撃を受け大混乱に陥る。久幸は自ら軍を率いて大内家臣深野平左衛門、宮川善左衛門を討ち取った。この合戦で久幸は毛利家臣中原善右衛門尉に射抜かれ討死。尼子軍は久幸の活躍で体勢を立て直すが、遠征のため物資が不足し、士気も低下した。そのため、詮久は撤退を余儀なくされた。翌年には経久が没し、尼子氏の勢力は徐々に衰えていった。子は詮幸。
 
 
  尼子詮幸 (?〜?)
 尼子久幸の子。
 
 
  塩谷興久 (?〜1534年)
 尼子経久の三男。享禄三年、父尼子経久に謀反を起こす。出雲の有力国人、寺社も興久に味方した。尼子経久は大内家、毛利家の協力で漸く興久に勝利。天文三年、自刃。尼子氏の内乱は毛利元就に勢力拡大の機会を与えることとなった。所領は兄国久のものとなり、新宮党の権力はさらに強まった。
 
 
  尼子清久 (?〜?)
 塩谷興久の長男。彦四郎。「自尊上人江御奉加目録」に名があり、天文九年九月の時点では一門第五位の地位にいたとわかる。
 
 
  尼子豊久 (?〜1546年)
 尼子国久の次男。久豊。「自尊上人江御奉加目録」に名があり、権力は一門第四位。天文十五年、橋津川合戦で討死。
 
 
  尼子敬久 (?〜1554年)
 尼子国久の三男。久尊。「自尊上人江御奉加目録」によると権力は一門第七位。陰徳太平記は横暴な性格が粛正を招いたと批判している。天文十三年、尼子国久、誠久と共に比叡尾山城主三吉氏を攻撃。毛利元就は三吉氏を支援し、福原貞俊、児玉就忠らを援軍に派遣。これにより尼子軍は撤退した。天文二十年、本願寺証如の日記に名がある。他に誠久、氏久、吉久の名も記され、新宮党が畿内にまで知られていたことがわかる。天文二十一年、晴久は屈指の連歌師宗養を招きにより京から下向。二十二年、敬久は新宮館で連歌の会を開く。その席で宗養は発句を詠んだ。同年、和泉合戦で第二陣千余名を率いる。新宮党粛正により殺害された。
 
 
  尼子又四郎 (?〜?)
 尼子国久の四男。早世。地位は家中第八位であった。
 
 
  尼子与四郎 (?〜?)
 尼子国久の五男。
 
 
  尼子氏久 (?〜?)
 尼子誠久の長男。孫四郎。新宮党粛正は氏久の讒言によるものとする説がある。誠久は多賀左衛門尉の娘を娶るが、左衛門尉が尼子氏に背いたため、その所領を与えられた。国久は氏久に家督を譲ったが、後に五男与四郎に家督を譲ろうとした。氏久は危険を感じ、晴久に祖父国久に謀反の気配ありと讒言。晴久は新宮党粛正を断行したと言う。
 
 
  尼子吉久 (?〜1554年)
 尼子誠久の次男。甚四郎。誠久の三男は季久、四男は弥四郎であり、五男が山中鹿之助に擁立された勝久である。新宮党粛正により殺害された。
 
 
  尼子季久 (?〜?)
 尼子誠久の三男。
 
 
  尼子弥四郎 (?〜?)
 尼子誠久の四男。弟は勝久。
 
 
  千代童子 (?〜?)
 尼子政久の子。早世。
 
 
  宍道久慶 (?〜?)
 尼子経久の娘を娶る。子は経慶。
 
 
  宍道経慶 (?〜?)
 宍道久慶の子。母は尼子経久の娘。尼子国久の娘を娶る。
 
 
  宍道八郎 (?〜?)
 尼子家一族衆。
 
 
  宍道九郎 (?〜?)
 尼子家一族衆。
 
 
  鞍智右馬介 (?〜?)
 尼子家一族衆。
 

 
 有名家臣の一門
 
 
  山中貞幸 (?〜?)
 尼子経久の家臣。弾三郎、宗幸。出雲白鹿城に入る。
 
 
  山中久幸 (?〜1544年)
 山中貞幸の子。天文十三年没。子は鹿介幸盛。
 
 
  山中信直 (?〜1579年)
 山中貞幸の子。久幸の弟。新蔵、直幸、喜楽。荒木村重に仕える。後に致仕。摂津伊丹鴻池村に閉居。天正七年五月没。法名「泰照院月秋道円」。
 
 
  山中幸元 (1570〜1650年 81歳没)
 山中鹿介の子。元亀元年十二月生。次男とも孫とも云う。新六、新右衛門。慶安三年十二月五日没。法名「一翁宗円」。大叔父山中信直に育てられ、その没後は信直の妻に育てられる。十五歳で元服。慶長年間、鴻池村で酒造業を営み財を成した。子孫は鴻池財閥を興した。
 
 
  山中幸範 (?〜?)
 山中鹿介の子。幸元の弟。
 
 
  山中満盛 (1468〜1538年 71歳没)
 山中幸満の子。左京進。尼子経久に仕える。塩谷掃部助を討つ。天文七年三月十日、七十一歳没。
 
 
  山中満重 (?〜?)
 山中満盛の弟。甚十郎。
 
 
  山中満幸 (1520〜1546年 27歳没)
 山中満盛の子。三河守。天文十五年九月、二十七歳没。子は幸高、鹿介幸盛。
 
 
  山中幸高 (?〜?)
 山中満幸の長男。甚太郎。弟は鹿介幸盛。
 
 
  立原幸綱 (?〜?)
 立原久綱の父。奉行職。次郎右衛門、備前守。永禄九年、月山富田城は毛利家に開城。尼子義久らは安芸長田に幽閉されるが、幸綱はそれに従っている。
 
 
  立原幸隆 (?〜?)
 永禄三年二月二十八日付の須美弥神社修復の棟札が残っている。弟は立原久綱。
 
 
  湯永綱 (?〜?)
 湯左衛門尉。多胡辰敬の娘を娶る。子は亀井茲矩。
 
 
  亀井秀綱 (?〜?)
 能登守。娘は山中鹿介、亀井茲矩に嫁ぐ。山中鹿介は亀井氏を継いだが、後に山中家に戻った。そこで湯家出身の亀井茲矩が亀井家を相続した。
 
 
  本城太郎左衛門 (?〜1562年)
 本城常光の長男。次弟大蔵左衛門尉とともに尼子家への人質となる。永禄五年、足利義輝の仲介で毛利元就と尼子義久は和解。兄弟は毛利軍に捕らえられており、そのまま元就への人質とすることで常光は毛利家に従属。しかし、常光の所領には石見銀山が含まれており、元就は重要な財源を手に入れるため常光殺害を計画。永禄五年十一月五日、常光は毛利軍に討たれた。太郎左衛門は津賀興宅寺で天野元定に、大蔵左衛門尉は宍道の陣所で末永弥六左衛門に討たれた。これにより石見の国人衆は怒りと恐怖から尼子家に味方したが、毛利家は銀山を手に入れ、主要財源として関ヶ原合戦後まで有効活用した。
 
 
  宇山弥四郎 (?〜1566年)
 宇山久兼の長男。永禄九年元旦、尼子義久に誅殺された。
 

 
 尼子家 家臣団
 
 
  秋宅庵介 (?〜?)
 尼子十勇士の一人。実在の武将。後に山中鹿介の横暴に腹を立て、毛利家に属した。
 
 
  横道兵庫介 (?〜?)
 尼子十勇士の一人。実在の武将。後に討死した。
 
 
  植田早苗介 (?〜?)
 尼子十勇士の一人。実在の武将。
 
 
  早川鮎介 (?〜?)
 尼子十勇士の一人。
 
 
  尤道理介 (?〜?)
 尼子十勇士の一人。
 
 
  寺本生死介 (?〜?)
 尼子十勇士の一人。
 
 
  深田泥介 (?〜?)
 尼子十勇士の一人。
 
 
  藪中荊介 (?〜?)
 尼子十勇士の一人。
 
 
  小倉鼠介 (?〜?)
 尼子十勇士の一人。
 
 
  川岸柳之介 (?〜?)
 尼子十勇士の一人。「常山紀談」に名がある。他に阿波鳴門介も尼子十勇士の一人に数えられている。
 
 
  井筒女之介 (?〜?)
 尼子十勇士の一人。「常山紀談」に名がある。実在の武将。
 
 
  五月早苗之介 (?〜?)
 尼子十勇士の一人。「常山紀談」に名がある。
 
 
  破骨障子之介 (?〜?)
 尼子十勇士の一人。「常山紀談」に名がある。
 
 
  上田稲葉之介 (?〜?)
 尼子十勇士の一人。
 
 
  大谷猪介 (?〜?)
 尼子十勇士の一人。
 
 
  荒浪碇介 (?〜?)
 尼子十勇士の一人。
 
 
  高橋亘介 (?〜?)
 尼子十勇士の一人。
 
 
  高橋元綱 (?〜1540年)
 天文九年九月十二日、毛利元就は郡山城付近にまで迫った尼子軍に対し、わずか三十名ほどの兵を出す。尼子軍はこれを討とうと城の東側に進軍するが、これは元就の策略だった。尼子軍は突然側面攻撃を受け混乱。さらに毛利本隊の攻撃を受け敗走。この合戦は「鑓分・太田口合戦」と呼ばれ、尼子家臣高橋元綱、本城信濃守ら六十余名が討たれたと言う。
 
 
  湯原宗綱 (?〜1540年)
 弥次郎。天文九年九月二十三日、青山に布陣。二十六日、軍勢千五百を率いて出陣。小早川興景と戦うが、郡山城から粟屋元良が出陣し、宗綱は挟撃されてしまう。軍勢は混乱し、馬が田に入り足を取られたところを射抜かれ、討ち取られた。この合戦は「池の内合戦」と呼ばれる。
 
 
  平賀興貞 (?〜?)
 安芸の国人平賀弘保の子。頭崎城主。大内家に属す。後に父弘保と共に尼子家に属した。父が大内家に再び仕えた後も尼子家に残った。天文四年、父弘保と合戦を起こす。天文五年、再び父弘保と争う。子は隆宗、広相。
 
 
  三沢為幸 (?〜1540年)
 天文九年十月、毛利元就との合戦中に伏兵の攻撃に遭う。これにより尼子軍は総崩れとなり、三沢為幸ら百数十名が討たれた。この合戦を「青山土取場合戦」と呼ばれる。
 
 
  三沢為清 (?〜?)
 天文十二年一月、月山富田城を攻めようとする大内義隆に内通。同年四月、再び尼子家に属す。これにより大内勢は撤退した。
 
 
  高尾豊前守 (?〜1541年)
 天文十年正月十三日、尼子軍は毛利元就の攻撃を受ける。高尾豊前守は二千の兵を率い、最前列を守っていたが、毛利軍の攻撃により討死。第一陣は総崩れとなった。黒正甚兵衛は第二陣千五百を率いたが、毛利軍の猛攻により敗走した。第三陣は小早川興経が守り抜くが、陶隆房の側面攻撃を受ける。尼子久幸の活躍で危機を脱すも、尼子軍は四百人近くが討たれた。毛利、大内軍も四百七十名が討死した。
 
 
  本田家吉 (?〜?)
 奉行職。四郎左衛門尉、豊前守。永禄八年四月、小早川勢に側面攻撃をかける。永禄九年元旦、宇山久信らを討つよう尼子義久から命じられる。義久幽閉に従い、安芸長田に移る。子は与次郎。
 
 
  中井綱家 (?〜?)
 尼子晴久の傅役。奉行職。助右衛門尉、駿河守。永禄九年、月山富田城開城まで義久に従った。
 
 
  中井久家 (?〜?)
 中井綱家の長男。義久幽閉後も尼子氏再興のために戦った。
 
 
  横道久宗 (?〜?)
 尼子義久の傅役。三郎左衛門尉、石見守。永禄九年、月山富田城開城まで義久に従った。
 
 
  川副久盛 (?〜?)
 備中林野城主。右京亮、美作守。天文二十三年、三星城主後藤勝基に攻められるも、これを撃退し三星城付近にまで攻め込んだ。同年、新免宗貞の所領を奪う。天文二十四年、所領奪回を試みる新免宗貞を退ける。永禄八年、毛利勢に攻められ尼子家が窮地に陥ったため、出雲に撤退している。義久幽閉後も尼子氏再興のために戦った。
 
 
  牛尾幸清 (?〜?)
 大永二年八月五日、毛利元就の進言により、亀井秀綱らと共に大内軍に夜襲を敢行。天文十年、毛利軍に敗れ武田信実と共に出雲へ逃れる。天文十三年七月二十八日、伏兵となり毛利軍を破る。永禄六年九月二十三日、白鹿城救援に向かうも毛利軍の攻撃を受け敗走。永禄八年、富田城兵糧攻めのため降伏。
 
 
  牛尾久清 (?〜?)
 鰐走城主。永禄四年、福屋隆兼の仲介役として、隆兼の次男二郎を尼子義久への人質とした。家臣山崎某は永禄五年二月六日、毛利軍の松山城攻めで討たれた。永禄六年、松田誠保とともに白鹿城に籠もる。八月四日、援軍に来る予定だった毛利隆元が急死し、毛利元就は白鹿城攻めを弔い合戦とした。十月、白鹿城落城により月山富田城に逃れた。永禄八年、富田城兵糧攻めのため降伏。
 
 
  山名理興 (?〜1557年)
 木梨杉原匡信の子。杉原理興。大内家臣。天文七年、尼子氏に属した山名忠勝が備後神辺城を奪ったため、これを攻め滅ぼす。この功により山名氏を相続。姓を改めた。天文十一年、月山富田城攻撃が失敗すると、他の国人衆と共に尼子氏に寝返る。天文十二年、安芸に攻め込む。大内義隆は毛利元就、弘中隆兼に神辺城を攻撃させた。天文十八年、大内家臣平賀隆宗が神辺城の北に秋丸砦を築く。これにより神辺城防衛は困難となり、理興は月山富田城に撤退した。これらの合戦を「神辺城合戦」と呼ぶ。弘治元年、毛利元就に許され再び神辺城主となる。姓を杉原に戻した。弘治三年没。
 
 
  山名忠勝 (?〜?)
 天文七年、備後神辺城を奪う。しかし、大内家臣杉原理興に攻められ落城した。
 
 
  松井誠保 (?〜?)
 永禄六年、白鹿城に籠もる。毛利軍の攻撃を受け、援軍を要請。九月二十三日、援軍は毛利軍との間合いを考え後退。その隙を毛利軍に攻撃され、援軍は敗走。十月、降伏し隠岐に逃れた。
 
 
  秋上綱平 (?〜?)
 永禄十二年、尼子勝久の決起に応じる。
 
 
  行松入道 (?〜?)
 泉山城主。没後、妻は杉原盛重と再婚した。
 
 
  佐波興連 (?〜?)
 佐波泉山城主。弘治二年、子の隆秀とともに毛利家に降った。
 
 
  湯惟宗 (?〜?)
 湯泉津城主。永禄元年、義兄刺賀長信が銀山城兵の助命と引き替えに自刃を申し出ると、それを取り次ぎ助命を。永禄四年十一月六日、福屋隆兼とともに福光城を攻撃。永禄八年九月、月山富田城は毛利軍に包囲され兵糧攻めに遭う。城兵の志気も下がり、惟宗は降伏した。
 
 
  小笠原長雄 (?〜?)
 永禄元年、毛利家の攻撃に備えるため籠城。五月二十日、毛利軍一万二千余に攻められる。七月五日、尼子晴久は救援のため江ノ川まで進軍するも、増水のため渡河を諦め撤退。八月下旬、長雄は降伏。毛利家臣となるが、知行地は福屋隆兼の領内に与えられ、隆兼は別に知行地を賜ることとなった。
 
 
  末次讃岐守 (?〜?)
 尼子晴久の右筆。高い鼻をしていたが、尼子誠久に言い掛かりをつけられ鼻の骨を砕かれた。しかし、これは尼子国久らを悪役とする後世の創作ではないだろうか。
 
 
  中井平蔵兵衛 (?〜?)
 大髭をしていたが、尼子誠久に言い掛かりをつけられ畳に顔を擦り付けられた。大変な屈辱であり、刀に手をかけようとしたほどだった。翌日、尼子晴久は平蔵兵衛が左の髭のみ剃ったことを不思議に思い、理由を尋ねた。そこで誠久の横暴を知り、平蔵兵衛には両方の髭を剃るよう命じた。しかし、これは尼子国久らを悪役とする後世の創作ではないだろうか。
 
 
  本田豊前守 (?〜?)
 天文二十三年正月、新年の挨拶のため富田城に登城しようとした尼子国久を誅殺。この時、尼子国久に組み付いたまま崖から落ちたと云う。
 
 
  平野又右衛門 (?〜?)
 天文二十三年正月、新年の挨拶のため富田城に登城しようとした尼子国久を誅殺。本田豊前守が尼子国久と共に崖から落ちると、国久を討つため谷を下る。
 
 
  相良与一左衛門 (?〜?)
 天文二十三年正月、新年の挨拶のため富田城に登城しようとした尼子敬久を誅殺しようとした。しかし、逆に反撃にあっている。
 
 
  池田新三郎 (?〜?)
 天文二十三年正月、新年の挨拶のため富田城に登城しようとした尼子敬久を誅殺しようとした。しかし、敬久の反撃に戦意を喪失したと云う。
 
 
  神村長氏 (?〜1562年)
 松山城将。永禄五年、松山城に籠もる。二月五日、毛利家の攻撃を受ける。六日、討死した。
 
 
  米原綱寛 (?〜?)
 尼子家臣。一時、毛利家に仕える。永禄八年四月、富田城攻撃第三陣として出陣。九月、再度富田城を攻撃。永禄十二年八月十二日、尼子勝久の決起に応じ、九月二十三日、謀反を起こす。毛利軍に鎮圧された。
 
 
 塩谷貞綱 (?〜?)
 明応六年、出雲朝山郷代官となる。
 
 
  馬来久綱 (?〜?)
 宗衛門尉。尼子経久の母は馬来氏の娘である。永禄三年、横田八幡宮棟札に名がある。
 
 
  馬来彦右衛門 (?〜?)
 尼子家臣。一時、毛利家に仕える。永禄十二年九月二十三、米原綱寛、河本弥兵衛らと共に毛利家に謀反。即座に鎮圧されたが、この一件は毛利家の政権基盤が危ういことを物語っている。
 
 
  蜂塚右衛門尉 (?〜?)
 伯耆江尾城主。永禄八年八月六日、毛利軍に攻め落とされた。
 
 
  吉田源四郎 (?〜?)
 伯耆大江城主。永禄八年九月三日、毛利軍に攻め落とされた。
 
 
  三刀屋久扶 (?〜?)
 天文十二年一月、月山富田城を攻めようとする大内義隆に内通。同年四月、再び尼子家に属す。これにより大内勢は撤退した。
 
 
  三刀屋蔵人 (?〜?)
 永禄八年、尼子義久に属し、中尾弾正忠、福山肥後守らと共に富田城正面口を守る。
 
 
  大西十兵衛 (?〜?)
 天文二十三年正月、新年の挨拶のため富田城に登城しようとした尼子誠久を誅殺。永禄八年、尼子倫久に属し、森脇東市正、平野又右衛門らと共に富田城塩谷口を守る。吉川軍を相手に奮戦した。永禄九年元旦、宇山久信らを討つよう尼子義久から命じられる。これに驚いた十兵衛は、同じく誅殺を命じられた本田豊後守と共に久信に事の次第を報告。既に助命のかなわないことを知った久信は妻を刺し、子と共に自刃した。この一件は大塚与三右衛門の讒言によるものとされる。
 
 
  目黒惣兵衛 (?〜?)
 永禄八年、尼子秀久に属し、津森入道、佐世伊豆守、森脇長門守らと共に富田城菅谷口を守る。
 
 
  秋上三郎左衛門 (?〜?)
 永禄八年四月、福山次郎左衛門と共に吉川勢に側面攻撃をかける。
 
 
  秋上伊織之助 (?〜?)
 永禄八年四月、毛利元就は富田城攻撃に苦戦し、一時的に撤退することとした。伊織之助は森脇長門守と共に追撃をかけた。
 
 
  森光景近 (?〜?)
 牛の皮城主。新四郎。天文十三年、牛の皮城を築く。天文年間、三吉領攻撃に参加。子は近宗、孫は元清。
 
 
  伊達信衡 (?〜?)
 奥州伊達氏庶流。甲籠城主。右京。伊達宗衡の子。永正十四年九月、三村氏らに攻められ、父と祖父遠江守が捕らえられる。天文年間、尼子氏に属す。天文二十二年、猿掛合戦で庄為資を支援。尼子家滅亡後、毛利家に属す。子の三左右衛門は元亀元年、宇喜多直家に敗れている。
 
 
  大賀駿河守 (?〜?)
 元亀元年、備中佐井田城守将。
 
 
  新見国経 (?〜1542年)
 備中楪城主。蔵人。文亀元年から天文十一年にかけて備中新見庄代官職。
 
 
  新見貞経 (?〜?)
 新見国経の弟。備中楪城主。蔵人。天文十二年から永禄九年まで備中新見庄代官職。永禄九年、三村氏に攻められ落城。
 
 
  多胡辰敬 (?〜?)
 奉行人。極楽寺の重阿弥という碁打ちが天下一の腕を持っていると書き残した。
 
 
  徳光兵庫頭 (?〜?)
 永禄年間、備中鳶ヶ巣城主。毛利家に攻められ落城。
 
 
  津々加賀守 (?〜?)
 元亀年間、庄勝資、福井孫六左衛門らと共に備中国人細川下野守を破る。
 
 
  平川親豊 (?〜?)
 備中紫城主。尼子家に属す。
 
 
  平川久豊 (?〜?)
 平川親豊の子。備中紫城主。天文年間、家督を譲られる。尼子家に属すも、天文九年九月に攻め込まれている。子は親倫、盛吉。
 
 
  江見久次 (?〜?)
 天文二十三年、備中林野城主川副久盛は後藤勝基に攻められる。久次は水島右京助、長瀬三郎兵衛らと共に久盛を支援。後藤勢を退けた。
 
 
  米倉正勝 (?〜1540年)
 平内。天文九年九月一日、備中紫城を攻める。平川久親に撃退され、陣中で病没。尼子勢は紫城攻めを諦め撤退した。
 
 
  草刈衡継 (?〜?)
 初め因幡淀山城主。天文元年、美作矢筈城を築く。天文二年、矢筈城主。永禄二年、家督を嫡子景継に譲る。
 
 
  芦田秀家 (?〜?)
 天文十三年、美作岩屋城に副将として入る。
 
 
  芦田正家 (?〜1570年)
 芦田秀家の子。永禄十一年、岩屋城主中山則治を殺害。城主となった。元亀年間、宇喜多直家に討たれる。
 
 
  三好安芸守 (?〜?)
 天文二年、美作矢櫃山城を攻め、城主広戸広家を討ち取る。広家の子、新三郎を捕縛した。
 
 
  今井安春 (?〜?)
 天文二年、美作医王山城を攻め落城させた。
 
 
  原田忠長 (?〜1543年)
 美作稲荷山城主。播磨守。天文七年、尼子家に属す。同年、美作神楽尾城を攻め、城主山名氏兼を追い払う。天文十二年、居城奪回を試みる山名氏兼に攻められ討死。子の貞佐は宇喜多家に仕えた。
 
 
  岡本広義 (?〜1592年)
 美作矢櫃山城広戸広家の子。新三郎。天文二年、尼子家に捕縛される。永禄六年、旧領に戻り本丸城を築く。文禄元年、落馬により没す。天文二十三年に没したとする説もあるが、永禄六年の旧領復帰が事実ならば年代の誤記であると思われる。
 
 
  神西元通 (?〜?)
 三郎左衛門。森脇久仍は天正元年十二月の尼子勝久の但馬攻めに参加。
 
 
  武田源三郎 (?〜?)
 武田高信の子。天正二年三月十日、亀井茲矩と共に因幡小松原に放火するが、毛利家臣大坪甚兵衛に阻止された。
 
 
  鉢屋加茂弥三郎 (?〜?)
 立原久綱の家臣。永禄九年五月二十四日、尼子義久より富田城七曲口防衛の戦功に対する感情を賜る。
 
 
  熊谷新右衛門 (?〜?)
 永禄年間の富田籠城の活躍から「雲陽軍実記」は立原久綱、山中鹿介と共に「尼子三傑」と賞賛した。
 
 
  河本大八 (?〜?)
 「雲陽軍実記」を記す。
 
 
  石原久右衛門尉 (?〜?)
 立原久綱の家臣。天正六年、毛利家によって立原久綱とその娘、孫と共に安芸に押し込められる。立原久綱は嵐の夜に船を奪い、織田家に助けを求めている。
 

 
  【付記】
 
 
 
 永禄十二年、尼子勝久は尼子家再興のために近隣諸侯に馳せ参じるよう命じた。伯耆大山院経吾院の宗徒三百余名はこれに応じ、毛利家に対して蜂起した。
 
 
 【尼子経久と出雲大社】
 尼子経久は合戦前、出雲大社にて一万部読経を行うことがあった。享禄三年、塩谷興久が謀反を起こすと、同年三月に亀井秀綱を出雲大社に派遣し、一万部読経を行っている。出雲大社神官千家、北島家は尼子経久の娘を娶っている。
 
 
 
 【尼子経久を裏切る国人衆】
 尼子経久の勢力拡大に伴い、近隣の国人は経久に従属していった。従属は尼子家からの攻撃を防ぐ手段になったが、尼子経久の台頭を快く思わない国人も多かった。そのため、天文十一年に大内義隆が出雲を攻めると、国人の離反が相次いだ。妻の親類である佐和氏、娘婿の宍道氏は大内家に加勢。本庄氏、古志氏、三刀屋氏、河津氏らも大内家に属した。大内義隆の富田城攻めが長期化すると、離反した国人は再び尼子経久に属した。また、尼子家に戻ることが出来ず、大内義隆に従って周防や長門に逃れる国人もいた。
 
 
 
 【新宮党粛正についての見解】
 尼子家屈指の軍勢「新宮党」の武名は畿内にも伝わるほどだった。その新宮党を尼子晴久は毛利元就の謀略により粛正してしまった。晴久の愚かさが尼子家滅亡を招いた、とされてきた。尼子誠久の長男氏久の讒言が粛正を招いたという説もあるのだが、問題はこのことではない。真に問題とすべきは単純に新宮党粛正を愚行とする史観である。尼子家は当主晴久、新宮党を束ねる国久の二頭政治体制に近い状態であり、晴久は国久の越権行為に業を煮やしていた。氏久の讒言があったかはわからないが、晴久と国久の関係はそれほどに悪化していたのだ。この時代、当主が危惧するほどの権力を持った家臣は粛正される運命になった。粛正しなければ下克上の危険があったからだ。毛利元就も家中に権力を持った井上党惣領井上元兼を粛正しているが、当時の時代背景からすれば井上党粛正を元就の非情とすることは出来ない。逆を言えば、粛正を行わないことにより自分が討たれる危険があったのだ。現代的な感覚を捨て、このことを認識しなければならない。新宮党も井上党も軍事力の中核であり、両者の粛正はまったく同質である。晴久も粛正前に信頼の置ける家臣を重用するなど、政権基盤の確立に努めていた。権力を持ちすぎた家臣は下克上に及ぶ危険があり、尼子国久も井上元兼も越権行為を行っていた。粛正は下克上を防ぐための手段であり、それを考えずに愚行と決めつけることは間違っている。尼子家は後に滅亡したため、新宮党粛正は必要な措置であったと認識されず、単純に晴久の愚行とされたのではないか。大内義隆は天文二十年九月一日、重臣陶隆房に攻められ大寧寺で自刃した。新宮党粛正はこの直後であり、隣国の政変から新宮党に対する危機感を強めたのだろう。
 
 
 
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