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さようなら読売クラブ |
2003.02.02 |
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98−99年天皇杯準々決勝、グランパス−ヴェルディ戦をテレビで観戦していた。終盤までリードしていたヴェルディは、退場で1人足りないにも関わらず、柱谷を軸に守りを固め、終了のホイッスルを待つだけだった。次の準決勝の観戦を予定していた私は、好調を取り戻したカズ、柱谷らを久々に堪能できる期待に胸を躍らせていた。その時点で、カズの欧州移籍はほぼ間違いなかったので、準決勝、さらに決勝?は、しばらくのカズの見納めになる思いもあった。
89分、セオリー通りの時間稼ぎのためのカズの交替。カズは偶然近くにいた柱谷としっかり握手。さすが、老練なこの2人、警告を受けない程度の時間をかけて、握手まで時間稼ぎに使っていた。
その後の展開は今更触れる必要もないだろう。ヴェルディは信じられない自殺点の後、Vゴールで敗れる。このような意外な結末の試合を今まで何試合見たことか、その時の思いはただそれだけだった。確かに「読売」としての最後の試合だったが、フリューゲルスと異なりチームが消滅する訳ではない。確かにカズが渡欧するが、カズがプレイを辞める訳でもない。確かにラモスは引退するのかもしれないが、彼は引退のタイミングを誤っただけで既に選手としては終わってしまっていた。繰り返すが、その時点では、よくある以外な結末の試合が終わっただけのことだった。
しかし、あの試合はとんでもない試合だったのだ。柱谷の、あの柱谷哲二の最後の試合だったのだから。あの時点では、柱谷がヴェルディを去る事は分かっていたが、まさか彼がサッカーから去る事は分かっていなかった。そう思うと、あのカズとの時間稼ぎのための握手がなんと深い意味を持っていたことか。そう、偶然である、確かに偶然であろう。しかし、あの時間稼ぎは日本サッカー史に残るべき名場面の一つだったのだ。
70年代に過去の日本サッカーのアンチテーゼのように登場し、80年代から90年代半ばまでの間日本サッカー界の中心として君臨してきた読売クラブが落ちぶれ、遂にスポンサが同じ系列の日本テレビに移ることとなった。本稿では、私なりの読売クラブ、あるいはヴェルディへの想いを語りたい。
なぜ、読売がかくも落ちぶれたのか。ここでは、その直接的な現象を2点挙げることとする。ただし、私は読売クラブやヴェルディ川崎のファンでもなかったし、インサイダ的な情報を多く持つ訳でもない。あくまでも、結果的な現象を挙げるに留め、その背景にある本質問題の解析は、本誌のスタッフにはもっと相応しい方もおられる(と同時に私の手に余ることでもあり)ので、余り深くは追わない。
そもそも、適切な大きな競技場が無いと言う理由で、Jリーグ開幕時に狙っていた東京ではなく川崎にホームを置かねばならなくなった時から、今日の凋落は始まっていた。
意外に知られていない事実だが、Jリーグの準備段階では、ホームタウンについて明確な規定はなかった(もっとも今でも確固とした定義はないか)。91年2月、Jリーグの最初の10チームが選考された時(日本リーグの強豪の一つだったヤマハが選考されず、チームとしての実体を持たない清水が選考された時、と皮肉を込めて呼び替えるのを私は好む)、今日しばしば取りざたされる「Jの理念、ホームタウン構想」はさほど具体化されてはいなかった。チーム名からスポンサ名をはずすこととか、ホームタウンの名をチーム名に入れることなどの規定はなかった。厳しい言い方をすれば、これらの「重要な拘束条件」を抜きに相応の出資を伴う参加者を集めておいて、後から(一応の合議の元と言う言い訳はあるかもしれないが)厳しい条件を与えていったようにも思える。
当初は「ホームタウン」とは呼ばずに「フランチャイズ」と呼んでいた。「フランチャイズ」と言う英語は、「独占権」を意味である。つまり、ヴェルディは川崎における一種の排他的な権利を持っていたことになる。後からその地域に他のチームが参入する権利を留保する権利があってもいいようにも思えるのだが...
またこの時点では、「ホームタウン」は一都市である必要もなかった。「全日空クラブ」を母体にしたチームが九州を特別活動地域にしたように、また「古河電工」を母体にしたチームが共同メインスポンサであるJR東日本の商売領域を活動地域にしたように、「読売クラブ」を母体にしたチームは「東京」も、公式な準活動エリアにする方法があった。
しかし、「読売クラブ」の首脳陣(と言うか営業サイド)の狙いは「東京」ではなく「日本全体」だったのだろう。換言すれば、「ヴェルディ」を「ジャイアンツ」にしていこうとしたのではないか。選手の年俸の高騰化にしても、有望選手の流出の引き止めが本意だったろうから、ジャイアンツがカネでフリーエージェントの選手をかき集めていることとほとんど変わらない。余談だが、日本におけるスポーツビジネスの成功例として、「ジャイアンツ」はしっかり研究する必要がある。毎週どころか毎日数万人の観客を集める興業の成功の大先輩なのであり、その全盛期から30年以上たった今でも通用する「長嶋」と言う最高クラスのソフトウェア兼ハードウェアを作り上げたのだから。
しかし、博報堂は(別に「読売」に対する悪意はなく、彼らなりに世間の動向を見ながらビジネスを進めただけだったのだが)次々と「一般受けする」ホームタウン構想を推進し、結果「ヴェルディ」はいつのまにか「川崎」を主体活動地域とするのが本道であると言う状況に押し込まれてしまったのである。
Jリーグ開始後、ナベツネ氏を軸にした「東京進出運動」は、結果として火に油を注ぐに留まった。東京、川崎いずれのファンからも疎んじられてしまったのである。あそこは無理に強気に出てはいけなかった。むしろ、よく博報堂と連携を取り、(あたかも被害者のように)川崎と東京の中間で揺れる子羊のフリをすべきだった。
加えて、ヴェルディが狙った「浮動層」は、Jバブルがはじけたと同時にサッカーから去ってしまった。「ジャイアンツ」化そのものが失敗したのである。テレビの放映権や競技場のメイン広告看板も、Jリーグとしてまとめて商う状況においては、観客動員が全てである。観客減にあわてて「ホームタウン」に目を向けようとしたところ、とどめを刺すように「富士通」を母体にしたチームが「川崎」をホームタウンとする第2のチームとして、Jリーグ入りを目指し始めた(先に述べた独占権があればどうなったのか)。ただでさえ対応を軽視していた川崎市民に、今更媚びても状況は思わしくない。
それでもチームが魅力的なサッカーを見せ、強ければ観客動員も何とかなろうと言うものである。80年代後半には、読売クラブは平均して1万人程度の観客を集めていたのだ。彼らを「基礎票」とすれば、それなりの観客動員が期待できるのではないか。
しかし、Jリーグ開幕直後に常勝を誇ったタレントからの世代交代が進まぬまま、ジリジリと戦闘能力も劣化していったのである。
世代交代と言えば、読売クラブ設立当初からの方針として忘れてはならないものは、若年層のチームを育成し、一貫したクラブ体制を(Jリーグに先んじること20年)整えていたことにある。まさに円滑な世代交代のためのシステムではないか。
松木、戸塚、都並、いずれもユース時代から将来を嘱望され、トップチームに登場し、日本のトップ選手となっていった。80年代には読売ユースは、帝京高、清水商、国見高などと並び、ユースレベルでは日本のトップチームとなっていた。菊原、山口など技巧に富んだ選手が次々にユースチームに登場したのである。当時から商業誌には「短期的な勝ち負けを目指すのではなく長期的視野で選手を育成する読売クラブ」と言った趣旨の提灯記事が目立っていた。
しかし、最終的なアウトプットは悲しいものだった。先程挙げた2人のみならずほとんどの選手は大成しなかったのである(もっとも山口に対して完了形をとってしまうのは申し訳ないことだ、是非今後の大化けを期待したい)。上記の3人以降、日本のトッププレイヤに育った読売ユース出身者は、中村忠ただ1人でないか(幼少時に読売に在籍し、その後高校サッカー経由で大成した選手は北澤など何人かいるが)。
むしろ「短期的な勝ち負けを目指す」高校チーム出身者の方が、「長期的な視野で育成する」読売クラブ出身者より大成しているケースが多い。このような議論で、しばしば要素に入れなければならないのは、「素材」の問題だが、少なくとも「ジュニアユース代表」、「ユース代表」まで到達した選手が大成していないのだから、「素材」の差ではないのではないか。例えば山口が主将を務めたユース代表(文字通り山口は技術的にも精神的にもチームの中核だったのだが)には、川口、服部、伊東、城らがいた。この4人は高校の名門チームにいた訳だが、現状の山口との「差」を考えると、「読売クラブの失敗」と言わざるを得ないのではないか。
さらに追い討ちをかけるように、後発の(Jリーグチームの)ユースチームが、ヴェルディ以上に機能し始めている。ガンバ、ジェフなどが、自前のユースの選手を中軸としてチームを機能させ始めているのだ。うまく運営すれば、やはり一貫指導は有効なのである。つまり、読売クラブのコンセプトは正しかったが、運用に失敗したのでないか。
読売ユースから何故選手が育たなかったのかについての要因を具体的に議論すると、いくらページがあっても足りなくなりそうだし、より適任の方がおられるだろうから、この議論はここまでにしたい。しかし、このことは、上記のホームタウン問題以上に、「読売クラブ」の否定となってしまうしまうのではないだろうか。一貫指導の大クラブを目指していたチームが、(少なくとも)自前選手の育成に失敗したのである。
まさに八方塞がりなのである。おそらく、ナベツネ氏を含む「読売新聞」の首脳陣にはわかってしまったのだ。野球と異なり、サッカー界に「ジャイアンツ」を作る(そしてカネ儲けする)ことはもはや極めて困難である。しかも、20年の長きに渡って積み上げてきたクラブ組織そのものの運営も巧く機能していない。これからヴェルディは、従来軽視していた川崎を軸に、フロンターレと競合し、かつFC東京に進出領域を押さえられながら、地道に再建していかなければならないのだ。とならば、撤退の判断は正しかろう。
しかし、日本のサッカー界にとってこれは、決してハッピーなことではない。一つの強力な、しかも30年間サッカーに取り組んでいた出資者を失ったのである。心なしか、Jリーグ側のコメントとして「うるさいのがいなくなってホッとした」雰囲気を感じるのは私だけだろうか。日本のサッカー界としては、サッカーにカネを出してくれる出資者は(サッカー側のルールを守ってくれると言う前提で)大事にしなければいけないは大原則であろう。繰り返すが、「読売新聞」は30年の長きに渡って、一つの見識を持って出資してくれていたのである。残念である。
結論が出てしまった以上今更どうこう言っても始まらないが、世界に目を転じれば、インテル、バルセロナなどのように、ジャイアンツ同様カネを湯水のごとく使い、大量の観客を集めているチームがいくつかあるではないか。どうせジャイアンツを目指すならば、ヴェルディも夢を壮大にこれらのクラブを目指した欲しかったのだが(この2つのクラブとジャイアンツって似ていると思いませんか)。
ラモスが見て楽しい選手だったこと、役に立つ選手だったことを否定する気はない。しかし、ラモスは(特に30歳になった以降は)万能の神ではなく、長所短所が極端な諸刃の剣のような選手だったことを強調しておきたい。
ラモスの諸刃ぶりを最も顕著に見せたのは、あのドーハのイラク戦ではなかろうか。日本が後半開始早々のイラクの怒涛の攻撃を何とか1点に押さえた後半半ば、中山への完璧なスルーパス。そして、刻一刻と日本がUSAに近づいていった。
そしてあの悲劇の直前を思い起こしてみよう。最大の戦犯と中傷されている武田が右サイドを突破してセンタリング、これを跳ね返された逆襲、森保が敵ボールを奪い横のラモスへ、ラモスのミスパスが拾われ再びイラクの逆襲、日本から見た左サイドからのシュート気味のセンタリングを松永がCKにはじき出す。その後は説明の必要はなかろう。
あの失点の直接要因となったイラクの攻め込みは、(疲労困憊していた)ラモスのミスパスからだった。当時36歳だったラモスが5連戦で疲労しきっていたのは無理も無く、疲労そのものは彼の責任ではない。彼を休ませられなかったオフト氏の責任である。しかし、フィールドに出ている以上は、年齢は関係無いはずで、やはりミス、それも失点の直接要因になるミスをしたのだから、責任は免れ得ないはずだ。
不思議なことに多くのマスコミは、「攻めなくても好い時間帯に無理をした」武田の責任のみを問うののである。「事実」よりも「風聞」を重視する日本サッカーを取り巻く報道の困った問題である。
年齢的な問題を抜きにしても、ラモスの怠慢から、日本代表や読売クラブはよく崩れた。特に気分が乗った時は大変頑張る選手だが、乗らない時は唐突にさぼる。最初から守備を期待できない選手ならば、監督にも周囲にも準備が可能だが、しっかり守る時は守れるだけにとても使い方が難しい。しかも、己の怠慢で負けたとしても、他人の頑張り不足をマスコミの前で声高に訴えるのだから扱いの難しい選手である。91年、長崎で行われた日韓定期戦、明らかに「乗っていなかった」ラモスを、中盤で徹底的に狙われ日本は完敗した。試合後のラモスのコメントが秀逸だった。
「日本協会は、何故こんな地方のコンディションの悪いグラウンドで大事な試合をやるのだ。満員の国立でやれば勝てたのに。それに他の選手は韓国というだけでびびっている。これでは勝てない。」
そう、これは中心選手のと言うより、大人のコメントではない。ただの責任転嫁である。
また、93年ドーハのサウジ戦、強豪との難しい初戦を無難に引き分けた直後のコメントも忘れ難い。
「この引き分けは負けに等しい」
勝ち点を積み上げて最終的に上位になると言う駆け引きはこの男のアタマにはない。
結局、この選手は長期的な戦略性を持っていなかったのだろう。また彼の発言には一切の思惑、悪意、駆け引き、戦略性も感じられない。ところが、このレベルは、現在の日本サッカーを取り巻くマスコミの一般的なレベルに実によくはまるのである。「選手が頑張らないから負けた」と言うのは、サッカーを知らない人にはとてもわかりやすい理由であり(頑張れば勝てると言う理屈ほど敵に失礼な理屈はないのだが)、目先の試合一つ一つ勝てば最後に全勝できると言う論理は確かに単純である(どんなに強いチームでもそれは不可能に近いのだが)。昨年のW杯におけるテレビでの舌禍も同様である。
一方ここまで散々負の要素を列記してきたが、ラモスが20年にも渡って見せてくれた素晴らしいプレイもまた事実である。若い頃の与那城、戸塚とのワンツーを交えた見事な中央突破、時に見せる激情的なプレイと審判とのトラブルも見世物としては楽しかった。苦しい状況で守備を頑張りチームの調子を引き戻す奮戦ぶりもなかなかのもの。そして、30歳前後からフィールド全体を見渡し見事なスルーパスを通し一本調子な試合に緩急をつけ攻撃に変化をつけることができるようになってからは、いつのまにか風格らしきものもついてきた。
中でも忘れ難いのは、94年のJリーグプレイオフのサンフレッチェ戦だった。統制された守備ラインを誇るバクスター氏のチームに対し、カズのいない(ジェノアに移籍中)ヴェルディがいかに点を取るかが鍵となった。初戦のアウェイ、森保の一瞬のスキをついたラモスが完璧なスルーパスを北澤に通した。そして、第2戦、終盤逆襲から抜け出したラモスは芸術的なループでGKを抜いた。本当に美しいゴールだった。
その後、加茂氏に代表に再び呼ばれ代表の歴史の汚点となったり、サンガとヴェルディを身勝手に行き来したりした行為は晩節を汚したと言わざるを得なかった。そういう意味では、あの94年のプレイオフで彼が現役引退していれば、と思わざるを得ない。
北澤が元気なのは見ていて嬉しい。周囲がすっかり若返った今シーズンは、まさに攻守の軸として働いている。そして、見事な得点も決めている。今シーズンの活躍、特にゴールシーンを見るにつけ、若き頃彼が本田技研から読売クラブへ移籍した選択が、彼個人にとって、最適だったのかどうか長年の疑問がまた湧き出してきている。
80年代半ば、本田技研と言うチームは、宮本征勝氏が監督をしていたことがあり、頑健で走力がある選手ばかりを起用するため、知的なブラジル人メシアスが奮闘しても単調な試合を繰返していた。しかし、89−90シーズン、監督に就任した今井氏は、若手を大胆に起用して創造的なチームを作ろうとした。その攻撃の中軸として、中盤のトップに抜擢されたのが高校チームから加入し3年目の北澤だった。今日では、高校を出て3年内でレギュラーを確保するのは常識であるが、ほとんどの有力選手が大学チームに進んでいた当時としては、それだけで斬新な印象だった。
北澤はその抜擢に答え、小柄ながら豊富な運動量と2列めからの飛び出しで完全にレギュラーを確保、90−91シーズンはその得点力に磨きをかけて得点王になり、代表にも選ばれ、トップチームの読売クラブへ移籍する。
ところが、当時の読売の攻撃ラインは、カズ(北澤移籍当時はただのボールアーティストであり、さほど役に立ってはいなかったが)、武田、藤吉、菊原、戸塚、ラモスらがおり、レギュラーを確保するのは容易ではなかった。北澤はその状況において、ポジションを少し下げ、豊富な運動量でこれらの選手たちにスペースを与える仕事を選んだ。
北澤のその後は皆さんご存知の通りである。読売(ヴェルディ)でも、代表でも彼の売りは活動量であり、周囲にスペースを作る動きで多くの栄光に参画してきた。中でも、93年ドーハでの韓国戦は、3トップの後方ですさまじい運動量と技巧で勝利に貢献し、先程ラモスの項で触れたあのイラク戦に起用されなかったことは、今日でも惜しまれている。また、97年の予選でも瀕死状態の日本代表に呼び戻され、中田と名波にスペースを、日本にW杯出場を、それぞれ与えた活躍も素晴らしかった。
彼のキャリアでの唯一の汚点は、あのフランスからの強制送還であろうが、これについては、コメントを控えたい。文句のないキャリアでないか。小柄で独特の風貌の北澤の日本サッカーに対する貢献に何の不満があると言うのか。
しかし、彼が読売に移籍し、スペースメーカになった時点で、彼の得点能力がそれ以上磨かれなかったことを残念に思うのは私だけだろうか。読売でのポジションが後方となることで、彼がゴール前にアプローチするまでの距離はかなり長いものになった。北澤が後方から素晴らしいスピードで飛び出し、シュートをはずす場面は、代表でもヴェルディでもしばしば見かけた。飛び出す能力は高いが、小柄で筋力に決して恵まれているとはいえない北澤にとって、長い距離の疾走後ボールを捉えるのは厳しかったのではないか。点を取る素質はサッカーにおいて、何よりも珍重されねばならない素質である。北澤はトップチームでのレギュラー確保のために、その最も貴重な素質を活かせなかったのではなかろうか。北澤ほどの知性を持った選手ならば、得点能力を具備したまま、他の選手のスペースメーカにもなれたのではなかろうか。
余談だが、私は本田技研で北澤を抜擢した今井氏を非常に高く評価する。同じシーズンもう1人高校を出て2年目の活動量豊富な選手をボランチとしてデビューさせている。本田泰人と言う選手だった。
カズについては、昨年W杯前後に一度書いた(「カズ」)ので、改めて積み上げることは決して多くはない。クロアチアのトップチームでレギュラーとしてプレイしているのは流石である。カズのよさは、再三書いてきているが、
1)得点能力
2)ボールを容易に奪われない技術と精神的な強さから来る安定度
の2点である。現在、ザグレブでは後者が高く評価されているようだが、是非前者でも輝いて欲しいものだ。そして、欧州で今度こそ成功して、引退前に1シーズンでよいから、日本でもう一度プレイして欲しい。その時もう一度彼のプレイを語る機会が持ちたい。
柱谷引退の報道を聞いて本当に驚いた。まだ十分に役に立つ選手がまだプレイの意志があると言うのに。これほど経験を豊富に積んだ選手はそういない。この選手に買い手がつかないとは、どういうことなのだろうか。結局、価格と周囲の期待とのバランスが取れなかったのだろうか。もし、自分の価値を高く見積もり過ぎて、話が合わなかったのだとしたら、いかにも柱谷らしいが、真相はわからない。ただし、守備の整備に悩むチームは多数ある。例えば、ガンバあたりに入って、宮本や稲本を一人前に育成する仕事など最適に思えるし、J1入りを目指すチームには守備面でも精神面でも格好の柱になると思うのだが。
かつて詳細に触れたように(「柱谷哲二について」)柱谷は、決して単純な闘将ではない。後方のポジションならばどこでもこなせるユーティリティプレイヤだった。その闘志が空回りすることも確かにあったが、この財産をプレイヤとして活かさずに済むほど、今の日本サッカー界に人材が余っているとはとても思えないのだ。もちろん、彼を加入させれば、彼を軸にチームを組まねばならないだろうし、監督が曖昧な指示をしたり、フロントが不適切な運営をしたら、すかさず噛み付くかもしれない。しかし、その分のプラスを享受できるチームがないとは決して思えないのである。
いわんや、あれほど日本サッカーに貢献してきた選手である。このような去り方をしなければいけないことが情緒的にも悲しい。
柱谷は、今後監督を目指すと言う。今日、日本人の監督への風当たりは厳しい。その最大の障害となっているのは、馬鹿なマスコミがその監督の現役時代のプレイを見たことがないくせに(あるいは見ていたとしても、しっかりと見てはいなかったくせに)、
「彼が現役のころはまだ日本にはアマチュア体質が残っていて...」
と言う論調で揶揄し、かつ選手の愚痴を引き出す体質でないかと思っている。柱谷は違う。どんな馬鹿なマスコミや若手選手にも一切不満を言わせない実績を挙げてきた。柱谷、そして柱谷以降の選手出身の監督候補生に係る期待は大きい。是非、監督として大成し、(引退記者会見で語ったように)、今度こそワールドカップを目指して欲しい。
66年のイングランドワールドカップに優勝した時の主将のボビームーアが、74年に長年着続けたウェストハムのユニフォームを脱ぎ、当時2部のフルハムへ移籍した。74−75年シーズンFAカップ、偉大なヴェテランに支えられたフルハムは何回か再試合をすると言う辛苦を乗り越え、アップセットを繰返しながら決勝のウェンブレイに進出する。その前に立ちはだかったのは、何とウェストハムだった。柱谷にはこのようなドラマを演じる可能性を感じていたのだが...
91―92、92―93と2年連続した読売−日産の天皇杯決勝
92年のアジアカップ制覇
93年のW杯予選、ホームUAE戦の先制ゴール
同じく、UAEでの井原退場後の見事な守備統率
アジア−アフリカカップの病からの奇跡の復活
そしてドーハ
冒頭に戻ろう。
あのカズと柱谷の握手を、そして柱谷が演じてくれた幾多の名場面を、私は決して忘れることがない。
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Authored by Fumio Muto ; 1999 March Revised on 2003 Feb. 2 ; 武藤へ一言 |