ユクレス村は、今日も晴れ






「それじゃあ、行ってきます」

 取っ手と取っ手の間に紐をかけ、蓋が外れないように固定した鍋を大事そうに持って、レビットの娘――もとい、若奥さんは出かけていった。

「おう、気をつけてな、シアリィはん」

 元・海賊の、愛する夫に見送られて。
 行き先は、このユクレス村の護人――ヤッファの庵である。
 共界線から得ている力でもって、村人たちを守ってくれる、頼りになる人物ではあるのだが。
 いかんせん、日常的な生活能力は皆無に近い。
 掃除もろくにしないので、庵の中はいつも散らかっているし。
 虎に近い種族ということで、獣人族の中では珍しく水浴びを好むのはいいけれど、着るものに関しては、多少汚れていようがほころびていようが無頓着だし。
 食べ物についても、酒に対するこだわりとは対照的に、空腹を満たせればそれでいいと考えている節がある。
 ゆえに、いつのころからか、彼の住居は「なまけ者の庵」と呼ばれるようになってしまったが――その不名誉な通称も、本人には全く気にする様子はない。
 村の長でもあるヤッファのそうした暮らしぶりに、最初に「何とかしなければ」という使命感を抱いたのは、一番身近にいるルシャナの花の妖精だったのだろうが。
 妖精としてはまだまだ未熟なマルルゥには、身体の小ささという、一朝一夕にはどうにもならない現実があった。
 というわけで、ヤッファの世話は、亜人の奥さんたちの持ち回りということになったのだ。
 食事を運び、洗い物を回収し、ときには「そんなんじゃ、お嫁さんのなり手もありませんよ」と説教し――。
 その中に最近、加わったのが、新婚ほやほやのシアリィである。
 ユクレス村どころか島中の誰もが羨ましがる、料理名人の夫を持つ彼女だけれど、日々の食事は、夫婦が交代でこしらえている。
 もともとシアリィも料理好きなので、それ自体は別に不思議なことではないが――。
 ヤッファに食事を届ける日には、必ず彼女が腕を振るう。

「シアリィはん、ヤッファはんのところへ行くの、楽しみにしとるみたいやなあ」
「そりゃそうだろうさ」

 他意なく呟いたオウキーニに、予想外のところから、同意する声があった。
 彼は振り返り、人懐っこく笑う。

「ああ、お義母はん、今日もいいお天気でしたなあ」

 村人総出で建ててもらった小屋は、子どもができるまでは夫婦のふたり暮らしだ。とは言え、ご近所さんはシアリィの親戚ばかり。
 実質的にはオウキーニが入り婿したも同然だったが、生来が大らかな性格の彼は、居心地悪く感じるどころか――。

「あんさんのところも大所帯でしたから、賑やかなほうが楽しいですわ」

 と言って、皆とうまくやっている。
 彼が「お義母はん」と呼んでいるレビットの女性は、正確には、シアリィの実母ではない。年齢も、祖母ほどという年ではないものの、母親にしては少し上。
 それは、結婚前に挨拶に行ったとき、初めて聞かされたことだったが――。
 村人のほとんどがリィンバウム生まれの二世か三世、というユクレス村の中にあって、シアリィのような若い娘が、メイトルパの生まれである理由を考えてみれば、当たり前の話だった。
 喚起の門というカラクリによって召喚されてきたシアリィを、多産系のレビットには珍しく子どものいなかった夫婦が、養子として育ててきたのだ。

「何しろ、ヤッファさんは、あの子の初恋の相手だからねえ」

 レビットの老婦人は、こればかりはどんな世界でも共通の、「内緒だよ」と念を押しながら秘密を打ち明けるときの表情で、もったいぶって言った。

「……は? はいぃぃぃっ!?」

 思わず、声が裏返ってしまったオウキーニである。
 港ごとに別の女が待っている――などと言われる海賊の一員ではあったけれど、彼に限っては正真正銘、妻が初めての恋人だったので。

「ヤッファはんとシアリィはんが、あの、その……」

 目を白黒させているオウキーニに、老婦人はふふ、と笑った。

「別に、何にもありゃしないよ。ヤッファさんはあの通り、女の子と付き合うのすら面倒くさがる人だからねえ」
「いや、そうは言うても……あないに可愛い子から好かれたら、悪い気はせんのとちゃいますか?」

 シアリィへの愛は誰にも負けないと、自負してはいるものの。
 太めの体型やら、服装のセンスやらに少しばかりコンプレックスがあり、腕っ節と料理以外には取り柄がない――と自分では思っているオウキーニは。
 ユクレス村をまとめる長であり、抜剣者の信頼厚い護人でもあるヤッファと比べれば、どうしても見劣りしてしまう気がしてならない。

「この村の娘にとっちゃ、誰もがかかる麻疹みたいなもんさね。はばかりながら、このあたしだって……」
「は、はあ、そういうもんでっか」

 努力して、義母の若かりしころの姿を思い浮かべようとしながら、オウキーニは相槌を打った。

「でも、そのうち、気づくのさ。あの人は優しいけど、誰かを特別扱いしてくれることはないんだって。……まあ、護人さんにしてみりゃ、あたしらみんな、赤ん坊のときから知ってるわけだしね」

 護人は、普通の亜人たちと同じようには年を取らない。
 子どもが生まれ、成長し、やがて老いて死んでいく段になっても、ヤッファは今の姿のままだ。
 例外と言えば、この村の中では、妖精であるマルルゥくらい。
 それはそれで、人知れぬ苦労もあるのではないかと、外から来たオウキーニは思う。

「ただ、あの子の場合はね。ある日突然、召喚されてきて、ヤッファさんが普通と違うなんてことは知らなかったわけだからさ」

 同種族という意味での親戚なら、レビットは大勢いるけれど、シアリィにとって直接的な血のつながりのある身内はいない。

「最初はさぞ、心細かったでしょうなあ……」

 召喚師でも何でもないオウキーニだが、召喚術の恩恵に与ってきたリィンバウムの人間のひとりとして。
 まだ幼いころに本当の家族と引き離されてしまったシアリィの心を思うと、胸が痛む。

「まあ、助けてもらったすり込みってのも、あるかもしれないねえ。ヤッファさんはたぶん、あの子にとっちゃ、英雄みたいな人なんだよ」
「はあ……。ほんなら、勝ち目はないですなあ」

 オウキーニは力なく笑った。
 そのとき、その場にいなかった彼には、シアリィの力になれなかったことを今さら悔しがっても、どうにもならないことだったので。
 すると――。



「何、情けない顔してるんだい」

 バシッと一発、背中を叩かれた。

「素直に嫉妬のひとつもして、その分、今晩お励みよ! こっちは早く孫の顔が見たくてしょうがないんだからね」
「は……あの、お義母はん……そ、そないなこと大声で」

 メイトルパの亜人たちは、性に関する話題に対しても、多少、大らかな傾向にあるかもしれなかったが。
 年を取るにつれて恥じらいというものを失ってしまうのは、どこでも共通なのだろうか――。
 オウキーニのほうが焦ってしまったが、義母は朗らかに笑い、「それに」と続けた。

「よかったことだって、あるんだよ。あの子は他の子どもたちと違って、ニンゲンの恐ろしさを吹き込まれずに育った。だからあんたにも、先生さんたちにも、最初から偏見を持ってなかっただろ?」


 そう言えば――と、気づく。

 この島に流れ着いた当初、ジャキーニ一味が作物泥棒を働いていたこともあって、ユクレス村の皆がおっかなびっくり、遠巻きにしていた中で。

「よかったら、私にもお料理、教えてくれませんか?」

 村の炊事場を間借りしていたオウキーニに、最初に話しかけ、料理の味を褒めてくれ。

「みんなにもご馳走したら、喜ぶと思います」

 と勧めて、打ち解けるきっかけを作ってくれたのがシアリィだった。
 思えばあのときから、オウキーニは彼女に惹かれていたのかもしれない――。



「よっぽど料理好きなんやて、思てましたけど、そうでっか、シアリィはんが特別やったから……」
「わかったかい? そのおかげで、あたしは自慢の婿を持ったってわけさ」

 義母は胸を張った。レビット特有の長い耳まで、ぴんと立った。
 彼女にとっては、シアリィは腹を痛めて産んだ娘も同然で。オウキーニのことも、自慢の婿と言ってくれる。

「これから、この村もまた、変わっていくだろうさ。次の世代に伝えるべきことは、ニンゲンの怖さじゃあない」

 風にさわさわと揺れるユクレスの大木を、見るともなしに眺めながら、レビットの女性は呟いた。

「先生はんの言うみたいに、みんなで仲よう暮らせる世界になったらいいですなあ」

 生まれてくる子どもたちのために平和を――そんな願いは、家庭を持つまで、思いもつかないものだった。
 だが、愛する家族のためと思えば、身体の奥から力が湧いてきて、いくらでも働ける気がする。
 日々、畑を耕し、料理を作り――そして万が一のときには、彼らを守って戦うだろう。ジャキーニとともに海賊として暴れ回っていたころより、もっと強くなれるとさえ思う。

「責任は重大だよ。あんたたちの子どもは、この世界とメイトルパの、架け橋になるかもしれないんだからね」
 「だから早く孫の顔を」と、先ほどの話を蒸し返され、オウキーニはたじたじとなる。

「へえ、そりゃウチも欲しいとは思ってますけど、こればっかりは……」

 そこへ――。

「オウキーニさーん! あ、お母さんも」

 帰ってきたシアリィが、少し離れた場所から、手を振った。

「おう、シアリィはん、おかえり」

 手を振り返すと、にっこり笑って、駆けてくる。
 毎日顔を合わせているのに、ついつい「別嬪さんやなあ」と見とれてしまうオウキーニである。

「ただいま、オウキーニさん。うちもご飯にしましょうか。お母さんも一緒にどう?」
「せっかくだけど、あたしはもう帰るよ。若いふたりの邪魔しちゃ悪いからね」

 義母はオウキーニにだけわかるように、いたずらっぽく片目を瞑ってみせた。
 オウキーニは思わず赤くなってしまい、シアリィに不思議そうな顔をされた。

「……オウキーニさん?」
「いやいや、何でもあらへん。ささ、ご飯ご飯」



 動揺がなかなか去らなかったおかげで、棚から出した皿を取り落とすという、彼らしからぬ失敗もあったが、幸いにしてメイトルパの食器は陶器でなく、木製だった。
 手間暇かけたシアリィの力作は、ほんのちょっぴり焦げてはいたが、文句なしに美味だった。
 「ヤキモチもほどよく焼けばオツなもの」――シルターン自治区に住んでいたころ、オウキーニに料理を仕込んでくれた人物の「センリュウ」なるものを、ちらりと思い出したのは内緒だ。

 オウキーニがそのあと、閨で励んだかどうかを知るのは、シアリィひとりだが――。


 「響界種」と呼ばれる中ではリィンバウム一、幸福かもしれない子どもたちの誕生は、それから数ヶ月後のことになる。