月刊マスコミ市民「放送を語る会 談話室」 からの転載


繰り返される「大本営発表」

                        放送を語る会会員 府川朝次

 2013222日(日本時間23日未明)ホワイトハウスでオバマ大統領と会談した安倍総理大臣は、「TPPはあらかじめすべての関税撤廃を約束しない」との共同声明を発表し、TPP交渉参加に意欲を示した。その3週間後、315日総理はTPP交渉参加を正式に表明する。「放送を語る会」では、この間、NHKや民放6社のTPP関連ニュースをモニターしていた。その結論から言えば、今回の経過ほど単純明快に図式化できる報道はなかったということだ。マスメディアが、独自の視点や見解を持たず、政府自民党の言動を忠実に伝えることに終始していたからだ。
 すなわち、@222日安倍総理、日米首脳会談で「TPP交渉に『聖域』はある」との同意をオバマ大統領との間で確認したとして、交渉参加に意欲を示す。A日米共同声明に盛り込まれた「日本の農産物にある微妙な問題」を論拠に、「聖域」は農産物であることに絞られていく。交渉参加に強く反対する農協に対応する形で、自民党TPP対策委員会は政府に「農産物重要5品目を例外として確保すること」を主眼とした決議文を手渡す。「もし要求が通らない場合は脱退も辞さない」との文言も盛り込まれた。B国内での懸案事項はこの決議文によって取り除かれたとして、安倍総理は315日TPP交渉参加を正式に表明。以上が3週間の報道の基調である。
 TPP交渉は農業以外にも重要な問題が山積している。それは自民党の「TPP対策に関する決議」にも明記されている。しかし、交渉は21分野に及ぶこと、参加することでメリットもあるがデメリットもあることに言及した番組は少ない。特にISD条項に触れたのは「NEWS ZERO」と「報道ステーション」だけだった。ISD条項とは投資家を保護するための規定で、これを盾に日本の規制が非関税障壁だとして訴訟が増える恐れもある。その懸念は「決議」の中に「わが国の主権を損なう」との表現で触れられている。しかし、メディアの扱いは、対策委員会は専ら「農産物の例外品目を何にするか協議していた場」との筋書きで語られた。その結果、農協対自民党、農協イコール既得権益集団といった固定観念を視聴者に植え付け、TPP問題は即ち農業、とのあやまった印象を与えた可能性は拭いがたい。
 3月に入って、国の内外から衝撃的な情報がもたらされた。事の発端は38日衆議院予算委員会での共産党議員の質問にあった。内容は「TPP交渉は、日本にとって不利な状況にある。後発の参加国は事前に交渉テキストを見ることもできなければ、すでに確定した項目について、いかなる修正や文言の訂正も認められない。遅れて参加したカナダやメキシコはその条件を承認する念書に署名している」というものだった。この情報を電波に乗せたのは「報道ステーション」(3/83/13)のみ。NHKに至っては、15日安倍総理をスタジオに招きながら、こうした情報の真偽を質すことさえしなかった。インターネット上では、さらに「日本は『交渉に参加する』のではなく、『すでに条項に定められた協定に参加するだけだ』」とし、「日本の国内の法制度は、すべてTPPに定められた指図によって動くことになるであろう」との、国際環境・人権保護運動の活動家の警句さえ伝えられていた。

 とにかく今回のTPP報道は異常ずくめだった。専門家の起用もほとんどなかった(皆無ではないが)。したがって外部からのTPPに対する反論なり懐疑の声はほとんど伝えられていない。なにより、交渉参加決断の基になった日米共同声明全文を紹介したのが「報道ステーション」1局だけだったことは、ジャーナリズムのあり方として、その異常さを象徴してはいまいか。
こうしたメディアの状況を日本農業新聞は316日付電子版の論説で「メディアの危機」として訴えかけている。「本来『不都合な真実』を伝えるはずのメディアの多くが、政府・財界主導の推進論を無批判に受け入れ、世論誘導の一端を担った。時に農業対工業の対立をあおり、時に重要品目の例外が勝ち取れるかのような根拠なき楽観論を流した。そして一貫して自由貿易こそが成長の源泉であるかの幻想を振りまいてきた」と断じている。
 私も同感である。2年前東京電力福島第1原子力発電所事故の際、メディアは政府発表を垂れ流したとして批判されたはずだった。しかし、その反省もないまま、またも繰り返された「大本営発表」。この国のマスメディアの病根の深さに暗澹たる思いでいるのは私一人だけだろうか。


                             2013年3月号より



日本軍「慰安婦」〜安倍政権とメディアは
歴史の事実に向き合え〜

放送を語る会会員 戸崎賢二

 いま、言い出した本人も口をつぐみ、相変わらずメディアも報じていない重大問題がある。日本軍「慰安婦」に関する「河野談話」の見直しの問題である。
 1993年8月に発表された河野洋平官房長官の談話は、戦争中、日本軍が長期、広範な地域にわたって慰安所を設営した事実を改めて認め、「慰安婦」の募集が甘言、強圧によって、本人の意思に反して行われた事例が数多くあり、慰安所での生活も強制的な状況の下での痛ましいものであったと述べている。
 元「慰安婦」の人々の聞き取りを含む一年数か月にわたる調査の結果、日本政府はこれらの事実を否定できず、被害者に謝罪せざるを得なかった。
 周知のように、安倍首相はしばしばこの「河野談話」の見直し(否定)の意図を明らかにしてきた。昨年1130日の記者クラブ主催の党首討論でも、「慰安婦」を集めるときに、「人さらいのように連れてきた事実があったかは証明されていない」と発言、軍が「強制連行」したことを示す資料がないことを「見直し」の理由とする持論を展開した。
 この主張は二重のウソを含んでいる。第一に、河野談話は「慰安婦」制度全体を貫く強制性を明らかにしているが、安倍首相は、強制連行の資料の有無、という募集の一つの局面だけで談話を否定しようとする。ここには明白なすり替えがある。第二に、実は占領地では軍が直接女性を拉致したケースが数多くあった。この事実を隠ぺいし、あたかも「慰安婦」の歴史を通じて「強制連行」がなかった、という欺瞞的な印象を作り出している。
 直接、兵士が連行した場合でなくても、軍が選定した業者や官憲が、「いい働き口がある」と言って騙して連れていくケース、承知しなければ父母に不利になるなどの脅しによって連行されたケースなどが報告されている。募集は業者であっても、軍に引き渡されたあとは逃げることもできず、慰安所に監禁されて一日に10人も20人もの兵隊の相手をさせられた。この過程全体は強制連行と言ってもよいものである。
 「慰安婦」とされた人びとの状況は、生存者の証言記録、数多くのルポ、歴史研究、被害者が日本政府に補償を求めた裁判の記録などを真摯に読めばすぐにわかることだ。 連行された女性の中の未成年の比率はかなり高かったといわれる。聞いた話とは全く違う境遇に突然置かれた少女たちの驚きと悲しみはどれほどのものだったか。父母のもとに返してほしいと、何日も泣き叫んだことだろう。安倍首相をはじめ、河野談話の見直しを主張する政治家たちは、こうした悲惨、過酷な状態に置かれた女性たちへの倫理的想像力を恐ろしく欠いている。

 昨年11月、アメリカの地方紙「スターレッジャー」に、「慰安婦」強制否定の意見広告が掲載された。07年にワシントンポスト紙に掲載されたのと同様趣旨の広告である。「『慰安婦』は『性的奴隷』ではなく、当時認められていた売春のシステムの中で働いていたにすぎない」などと主張するこの意見広告には、安倍晋三議員(当時)のほか、のちに閣僚となる4人の政治家が賛同者として名を連ねている。(1316日付「赤旗」記事による)
 こうした行動を、極右の政治グループの主張ととらえれば不思議ではないが、ことここに至っては、政治家の人間性の基層まで下りていって考えたくなる。事実に対して謙虚であること、誤りは誤りとして認める、といった姿勢は、人間の品格、道義心にかかわるものだが、一国の首相ともあろう人物がその資質を欠くとすれば、我々はいかにも不幸な国民ということになる。
 おそらく、安倍首相をはじめとする政治家たちは、「慰安婦」の歴史的事実を国家の恥と考え、なんとしても否定したい、そのために都合の悪い事実に眼をふさぎ、強制はなかったと思いこもうとした。もしそうであれば、これは一種の無自覚の自己欺瞞の働きと言えなくもない。
 奇怪に思われるのは、このような明白な欺瞞にたいして、日本のメディアにまともに検証する動きがないことだ。テレビはもちろん、一定の読者を持つ新聞メディアでは、わずかに「赤旗」を除いて、近年この問題の正面からの調査報道を見かけない。
 政権の圧力と街宣車が怖いということであれば、今のテレビ、新聞ジャーナリズムの状況から言って無理からぬことだ。しかしこれだけ「慰安婦」に関する報道がない状況が続くと、組織ジャーナリズム自体が安倍首相ら政治家の自己欺瞞の心理状態を共有しているのではないかと疑わざるを得ない。そのほうがより憂慮すべき状態ではないだろうか。

2013年4月号より


スカイツリーからの地デジ放送開始と新たな受信障害

放送を語る会会員 松原十朗

東京スカイツリーからいよいよ地デジ放送が開始される時期が迫り、試験電波が出された。受信情況を調査した結果、少なくない地点で電波障害が発見されて関係者は困惑しているようだ。
 “新しい観光スポット”としてのスカイツリーが繰り返し放送されているために、多くの人は現在、地デジ放送もスカイツリーからのものと思い込んでいる。しかし、2011年7月アナログ放送停止後も、地デジは東京タワーのアナログアンテナより低い高さ(265m)から送信されている。アンテナの位置が低いことに加えデジタル波のためアナログ放送よりサービスエリアも小さいのだが、これも知らされていない。
 東京タワーからスカイツリーに送信が切り替わると、8.4km送信所が移動する。アンテナの方向調整が必要な送信所に近い所でも、「強電界地域は電波が強いので、受信障害は生じない、何とかなるだろう」考えていたようだ。私からみれば随分粗雑な処理思考だと思う。
 「ゴーストを除去できるデジタル波」であり、「送信アンテナの高さも265mから630mになる」とはいっても、山も谷もない大草原の中の送信タワーではない。巨大な高層ビルが立ち並び、その中に密集した住宅地のある23区内で、送信所が8.4kmも移動する。そのために不特定多数の受信点で電波の到達情況が変化する。そのとき、「不具合になるポイントは生じないか」と、現場を少しでも視野におけば、常識的に考えるものであろう。
 電波伝播の理論に寄りかかって(?)「アンテナの高さが2倍になるのだから」「ゴーストを処理できるデジタル波だから」といって、“万が一”を想定してこなかったのは現場を預かっている関係者の怠慢だと思う。

デジタル波への移行にはアナログ波と併存する期間を設けるのが常識
 
 当面している課題は前例のない性格の問題である。
 通常のアナログからデジタルへではなく、1000万単位の受信者をもつ首都圏で、デジタルからデジタル、送信所の8km移動に対応しなければならないのである。
 なぜ、こうした事態を招いたのか?
 「地上デジタル放送懇談会」(NHK、民放、総務省等で構成、97.5〜98.10)の報告書は、「地上デジタル放送」の導入の道筋として、「アナログ波とデジタル波の併存期間を設け、その期間にデジタル波への移行」を提案していた。具体的には、「アナログ放送終了時期とその検討条件は、1−デジタル放送の普及率85%以上、2―現行のアナログ放送対象と同一対象地域をデジタル放送で100%カバーしていること」とされていた。
 アナログ放送を停止した2011年7月、これらの条件が全く顧みられなかった。本来ならば、アナログ放送は延長されねばならなかったのである。

デジタル→デジタルの困難な綱渡りを乗りこえるには

スカイツリーへの移行は当初予定の2013年1月から5月に延期されたが、難問となっている受信障害にどう対応するのか。関係者に問い合せた。
 「移行前にスカイツリーにアンテナを向ければ東京タワーが受信できなくなるケースが心配。そういう場合どうするのか」の問に対して、「どちらかが見えなくなることは考えていない。アンテナの方向調整等で両方受信できるようにする」との回答だった。
 電界強度の関係では、電波の強い東京23区内は「ブースターの調整か、交換も必要になってくる場合がある」とも言う。こうした障害が万単位で起こる心配もあるがどう対応するのか?
 答えは、「3月から4月の受信障害対応は続ける」「その内容はまだ具体化はしていない」という心もとないものだった。また、東京タワーからの電波を山梨等で受信しているが、スカイツリーに移ると受信不能になってしまう事例についても把握していなかった。
 東京タワーからスカイツリーへの移行には、スケジュール優先ではなく移行時期を延期しても、受信者に過大な負担を強いることのないよう十分に配慮して欲しいもの。 今後どのような障害が発生するか予測し難い。何よりも、拙速を避け、受信障害の有無の調査を十分に行い、受信者に時間をかけた丁寧な説明ときめ細かで柔軟な対応策が関係者に求められる。

2013年3月号より



67年目の上野原B29墜落調査

放送を語る会会員 増田康雄

私は去年10月8日、山梨県上野原市西原のB29墜落現場調査に参加した。この調査は山梨県戦争遺跡ネットワークの主催によるもので、戦争遺跡保存全国ネットワーク代表の山梨学院大学十菱駿武教授、山梨平和ミュージアムの理事2名、都立高校の教諭、それに私の計5名と、テレビ山梨のスタッフ2名が参加した。
 この西原で米軍機B29墜落したのは67年前の1945年2月19日午後1時のことだった。日本の戦闘機が体当たりでB29を撃墜したのが目撃されている。
 調査現場では3つの発見があった。一つは上野原市西原の中群山の麓の斜面に、墜落したB29の破片を発見して約30点収集したこと。二つ目は、乗員が緊急時に居場所を知らせる反射用のミラーを農家が保存していたこと。三つ目は墜落したB29のジュラルミンを加工して農具の「箕」が作られ、利用していた農家があったこと、などが明らかになった。
 テレビ山梨は10月10日の午後6時15分から「ニュースの星」で5分間、この現地調査を報じた。まず上野原でB29と日本の戦闘機の衝突目撃証言が紹介され,続いて10月8日の上野原市西原の調査の状況と十菱教授のインタビューが伝えられた。十菱氏は戦後67年目に破片が収集された驚きを語り、戦争遺跡の保存の大切さを強調した。

マスコミの戦争遺跡報道の視点

 私は二週間後、調査の3つの発見を多摩地域の複数の新聞社支局にFAXで知らせてみた。東京新聞支局から電話があり、数枚の写真をおくったがローカルの話題だけではと取り上げてもらえなかった。
 67年目にB29の破片がみつかった事実は大きな発見、驚きだと思う。山梨の民放は地元のB29墜落現場調査のリポートで戦争を考える場を視聴者に示す視点があった。しかし、東京新聞支局を含め新聞社が関心を示さなかったのは問題と思う。

調査その後の経過

調査団は12月1日、体当たりの日本の戦闘機「屠龍」の破片を探すため、再度上野原市西原の墜落現場に入った。しかし、破片はみつからなかった。戦後、地元の人たちは戦死したパイロット廣瀬治大尉の慰霊碑を建てていた。
 私達は地元の古老を訪ね、聞き取り調査をした。当時、B29のエンジン4個が谷筋に落ちたこと、不発弾が複数麓に落ち、戦後米軍の協力で爆破したこと、墜落死した米軍の乗員を埋葬したこと、戦後、米軍は主な機体と遺体を引取った話を聞いた。
 私達は西原の田和にある招魂社を訪ねた。そこには墜落したB29のジュラルミンと戦闘機屠龍の鉄板の破片、廣瀬大尉の遺影があった。

私が感じたこと

 2010年5月、都立調布南高校の公開講座「多摩地域の戦争遺跡」を受講してから私は戦争遺跡に興味を持った。自分の目で確かめようと21か所を撮影してみた。
 取材をして「戦争は人を殺し、殺される」ことを学んだ。多摩地域の戦争遺跡は子供を含め多数が犠牲になった。
 67年前の上野原市のB29墜落は専門家の間では知られていた。しかし、三つの発見は世間には知られていなかった。
 29乗員も戦闘機の乗員も1945年2月19日に上野原市上空で11名が命を落とした。私達は残されたB29の遺品と戦闘機の鉄板から衝突の事実を体で知ることができた。残された遺品を後世に残し、知らせることが大切だと私は感じた。
 現在、戦後生まれが85%の時代、67年の時間の流れが「戦争の愚かしさ」を忘れさせてゆく。今回の選挙でも政権側は国防軍の創設、集団的自衛権の行使を主張、憲法の9条、96条の改定を目論む。こうした状況のなかで、私にとって、B29墜落現場の調査団は戦争と平和を考える大切な場となった。

2013年2月号より




「うめき」、そして決して口にはしない「怒り」〜普天間・辺野古・高江で感じたこと〜

放送を語る会 小滝一志

「放送を語る会」が9月にテレビのオスプレイ報道のモニター活動に取り組んだ後、私は「報道されている現地を是非この目で確かめたい」との思いに駆られた。
 丁度タイミングよく、
10月に日本ジャーナリスト会議が2012年度全国交流集会を沖縄で開催した。私も参加して普天間基地・辺野古・高江を見ることができた。
怒りは臨界に
 
 17
日、一行は那覇空港から琉球新報社に直行、オスプレイ・米軍基地をめぐる最近の沖縄事情のレクチュアを受ける。
 先ず資料として渡された、「オスプレイ拒否103千人結集」と2ページぶち抜きの大見出しで「9/9県民集会」を伝える琉球新報、1面全体が「オスプレイNO!」のプラカードで埋まる会場写真の9/9当日号外に、沖縄と本土の温度差を突き付けられた。
 沖縄の現状は、425日県民大会で仲井真知事が初めて「構造的差別」と指摘し、太田昌秀元知事をして「もはや独立をめざすしかない」と言わしめた。この二年間の変化として、沖縄の人々と日本政府の溝はかつてなく深まり、もはや断絶の状態だという。
 20048月、沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落、大学当局・市民・メディアばかりでなく沖縄警察まで、米軍によって立ち入りが禁止された生々しい未公開映像も見ることができた。
笑顔の裏に脱力感・孤立感
 
 翌日訪れた辺野古は、しばらく前、米軍の訓練する浜がコンクリート塀と金網で仕切られてしまった。金網には支援に訪れた人たちの手作りの旗やプラスターが所狭しとくくりつけられている。それを指さして「防衛省の提供した屋外ギャラリー」と悔しさをユーモアに包んだヘリ基地反対協の安次富代表の案内は「森本は国防総省のモルモット」で締めくくられた。
 辺野古からさらにバスで北上してヤンバルの森の中の東村高江に着く。高江のことは、地元でも東京でもメディアはほとんど報じない。9月に4週間ほど取り組まれた「放送を語る会」のモニター期間中も、全くテレビは伝えなかった。
 私たちが訪れたテントは国道沿いに張られ、ヘリパット(ヘリコプター離着陸帯)建設予定地が金網越しに見える。毎週土日は、ボランティアで支援に来ている阿部子鈴琉球大学准教授が判りやすく丁寧に説明してくれた。「高江は人口150名ほどの小さな集落で、米軍北部訓練場と隣接している。今、この高江集落を取り囲むように6か所のヘリパット建設が予定され、20077月から地元住民が座り込みで激しく反対している」残念ながら住民の頭越しに建設資材の一部が持ち込まれてしまっているという。
 夜、私たちの宿舎「やんばる学びの森」で、高江住民の一家が歓迎のフラダンスを披露しながら実情を語ってくれた。
 「高江集落で反対行動に参加しているのは
1割・5家族、『受け入れて補償金もらった方がいい』人たちが1割、後の8割は『わかんない』『かかわりたくない』『怖い』。東村も県も『オスプレイ配備は反対だが、ヘリパット建設は容認』、展望全くない。正直言って、オスプレイが配備されてしまって脱力状態」
 そこで彼らが「高江の実情とぼくたちの気持ちを代弁してくれた番組」と上映してくれたのが琉球朝日放送制作「標的の村」だった。沖縄防衛局が、
15人の高江住民を訴えたスラップ訴訟を追った30分のドキュメンタリー。番組は、ベトナム戦争時、米軍の訓練に高江住民が駆り出され、ベトナム人に扮して協力させられてきたことを、当時を知る村民、新聞記者の証言や米国国立公文書館のフィルムなどを基に検証している。さらに現在の米軍の訓練でも高江がヘリコプター攻撃の標的にされている可能性を鋭く告発している。
決して口にはしない「怒り」 

 沖縄ツアーで、心に残った場面が二つある。どちらも酒の席だったが。
 ヤンバルの森の宿で、「私たちにどんな支援ができるでしょう?」と問いかけると、高江の人は、「私たちも仕事大事、家族大事でやっています。みなさんがそれぞれのところで、できることをやってください」とにこやかに答えてくれた。
 那覇でメディア関係者に「沖縄は、なぜ『基地撤去』『国外』と言わずに『県外』なのか?沖縄と本土の分断を招くのでは?」と問うと、「『基地をなくせ』とずーっと言ってきたけど何か変わったでしょうか」と静かに問い返してきた。
 私は、それぞれの抑えた優しい表情と口調の裏にこんなホンネを感じとった。
 「おれたちは、折れそうになるほど頑張ってる。本土の人たちはどうして判ってくれないのか。どうして本土から『基地をなくせ』の声を挙げてくれないのか」
 「私たちが『基地はいらない』と言い続けてきたのに、他人事として聞き流してきたのではありませんか。それなら基地は本土で引き取ってください」
 私の心の中に自責の念を呼び起こす沖縄の旅だった。

2013年1月号より




「知る権利」――あやまちを繰り返さないために

五十嵐吉美(放送を語る会会員)

 魚釣島、いや釣魚島――尖閣諸島の領有をめぐって、経済にまで影響が及ぶほど、日本と中国の関係が悪化している。「棚上げ」にして結んだ日中友好条約、その40年を祝うはずだった今年の秋は、どこかにいってしまった。悪化の一途をたどる日中関係のなか、「花岡事件と松田解子」と題する講演会が9月下旬に都内であった。

 戦争末期、日本国内の労働力不足をおぎなうために東条内閣は「中国人の強制連行」を決定、日本各地の35の会社、135カ所の事業所に、中国各地からかり集めたおよそ4万人の中国人、朝鮮人を働かせたという。秋田県大館・花岡銅鉱山・鹿島組では、1944年から6月までに979人のうち419人が虐待・酷使に次々に死亡。残るものが最後の力をふりしぼって6月30日、集団逃亡するも連れ戻され、ほとんどが拷問で死亡した事件、花岡事件である。(秋田の鉱山出身の作家・松田解子は1950年、事件の真相をはじめて新聞で知り、鉱山に入って調査、遺骨収集・返還運動にも携わりながら、『地底の人々』を著す。1953年中国、2011年韓国で翻訳され出版)。

当時小学校四年生だった冨樫康雄氏(「花岡の地・日中不再戦友好碑をまもる会」事務局長)は、記憶をたどり、坑道や建物など証拠になるものを破壊してしまった鹿島建設、事件と地域の人々、遺骨返還運動、顕彰運動に触れながら事件について、講演した。会場には年輩の方々を中心に、遠くは秋田から何人か参加されていた。司会者が質問などがあればと促すと、七十代の女性が立ち上がった。

 私も小学校三年のときに、見ました。それは、かわいそうで…」。学校へ出かけようとしたら、外が騒がしく、見ると、裸も同然の中国人たちを村の人たちが取り囲み、棒などでたたいている。家族に助けてあげてと懇願しても、「国賊にされてしまう」と。その時のショックをかかえてずっと生きてきて、「あの事件がなんだったのか、誰もそのあと教えてくれなかった。不思議だった。ようやく数年前、地域の歴史の勉強会で、それが花岡事件だとわかりました」と、その女性は昔を思い出したかのように、胸の奥にしまっておいた痛みを、吐き出すようにゆっくりと話したのだ。

 日本は、侵略戦争で言葉につくせぬひどい被害を与えたアジアの人々に誠意のこもった謝罪をおこない、若い人たちが教科書で学べるようにしていたら、彼女のような、さらに解決が見えない現在の日中問題もなかっただろう。

 日本は、侵略戦争で言葉につくせぬひどい被害を与えたアジアの人々に誠意のこもった謝罪をおこない、若い人たちが教科書で学べるようにしていたら、彼女のような、さらに解決が見えない現在の日中問題もなかっただろう。

 時はかなり経過してしまった。が、経過させてしまったからこそ、取り返しがつかない事実、それに向き合うために、国民に真実を知らせる努力を、どれだけメディアがしているだろうか。いまが最後のチャンスかも知れない。

 9月22日日本軍「慰安婦」問題に関する日韓交渉/仲裁を前進させる国際シンポジウムが、「日本の戦争責任資料センター」の主催で開かれた。日本、韓国をはじめ、オーストラリアの国際法の専門家が講演した。ティナ・ドルゴポールさんは最後に、講演をこう締めくくった子どもたちに、日本軍「慰安婦」問題をきちんと話してほしい。若い世代は真の歴史を知る権利を持っているからです。

 2011年、韓国の大統領が日本政府に日本軍「慰安婦」問題の解決を迫り、この秋国連の会議場で問題が追及された。NHKをはじめ各テレビ局は、日本軍「慰安婦」問題がなぜこれだけ大きな外交問題になっているのか、国民にわかるように説明していない。2007年のアメリカ下院をはじめ、オランダやEU、カナダやオーストラリアで「公式謝罪」決議が出されていることなど、国際社会の動きを報道していない。これは国民に対する「知る権利」の侵害ではないか。

 もう戦後67年。しかし「人道に対する罪には時効はない」ことが国際社会のルールとして確立していることも、国民の多くは知らない。グローバルに展開している現在の世界で、日本人が、胸をはって生きることができるよう、メディアこそが、理性と勇気をもって歴史に向きあうものであってほしい。それこそが閉塞感に満ちた日本が、信頼を取り戻し、未来を引き寄せることになるだろう。

 花岡事件を知った中学生が次のように記している。「日本人の一人として、花岡事件のような事実を知ることはつらく、悲しいことです。でも真実から目をそらすことはできません。真実を知ることで戦争をにくみ、差別をゆるさないという力がわいてくると思います。」(童心社刊『私たちのアジア・太平洋戦争2』2004年)

2012年12月号より


オスプレイ報道に「安保タブー」は?「抑止力神話」は?

                小滝 一志(放送を語る会事務局長)

 放送を語る会では、テレビ番組のモニター活動に取り組んでいるが、今回は、オスプレイ報道を取り上げた。6月に米軍が普天間配備を正式発表して以後、断続的に続いていたが、99日にオスプレイ配備反対沖縄県民集会が開かれたのを機に、96日から101日までの4週間強を期間限定でオスプレイ報道集中モニター期間とした。

「安保タブー」はないか?


 「(オスプレイ配備の是非について)安保条約上、日本には権限がない」という森本防衛相発言(6月29日アメリカのオスプレイ配備正式通告時)、「配備は米政府の方針であり、同盟関係にあるとはいえ(日本から)どうしろこうしろという話ではない」との野田発言(7月16日)を引くまでもなく、オスプレイ問題の根底に安保条約があることは、ここで改めて指摘するまでもない。
 9月9日の沖縄県民大会では、「オスプレイ配備撤回、普天間基地の閉鎖・撤去」が決議された。13日、大会実行委員代表が森本防衛相・玄葉外相に決議文を直接手渡し、席上
那覇市長が「もし沖縄で事故が起きれば、県民の意思は米軍基地の全面閉鎖に向かう」と発言した(NHK「ニュース7」)。沖縄県民の要求が「オスプレイ配備」の反対にとどまらず、「基地の全面閉鎖」に踏み込んできたことは、とりもなおさず安保条約そのものを問うところまで来たということだろう。
 今、メディアには、今日の時代と状況を踏まえた安保条約の検証が求められているのではないか?
 ところが、2週間余りのモニター期間中、モニター対象ニュース番組97本のうちオスプレイを報じたのは43本、だが安保条約そのものに言及したものはなかった。「安保条約」の用語が使われたのも、わずか一度、それも森本防衛大臣インタビューの記者質問で「日米安保に賛成の首長さんも含めてすべての首長さんがオスプレイに反対していて辺野古移設が一層困難になったのではないか?」と問うたに過ぎなかった(9/21 NTVnews every」)。
 ニュース解説に当たっても周到に「安保条約」の用語使用あるいは直接の言及を避けて
いるように思えてならない。一例をあげれば「日米関係、貿易や経済はかなり日本も言いたいことを言うが、どうしても安全保障はアメリカのペースになる。ただこれ単にオスプレイの安全の問題じゃなくて、沖縄に基地が集中していること、普天間という住宅密集地にあるということも問題」(9/17テレビ朝日「報道ステーション」コメンテーター)。
 テレビ報道に「安保タブー」はないか?
 メディアが「安保条約」をタブー視している限り、問題の本質がつかめないばかりか、人々のオスプレイ配備や基地の存在をめぐる議論の選択肢を狭め、根本的解決の道筋が見えてこないのではないか。

「抑止力神話」を疑わなくてよいか?
 
オスプレイ初飛行の時、森本防衛大臣は「アメリカの抑止力、日本の安全にとって非常に重要な飛行機」「アメリカが抑止力を格段に上げることは日本の安全にとっても非常に重要。そこを理解して」と、繰り返し「米軍の抑止力」を強調した(9/21 NTVnews every」)。聞き手は、沖縄で日米合意が反古にされた歴史を突き付けて鋭く迫ったが、「米軍の抑止力」そのものを問うところまでは踏み込まなかった。
 同じくオスプレイ初飛行をめぐり田中秀征福山大学客員教授が「防衛大臣は安全保障上の抑止力という必要性を強調した。しかし、必要性と安全性の議論をごっちゃにしてはいけない」と発言。コメンテーターの「抑止力」を自明の前提とした見解に、キャスターも、疑問を挟まず当然のことのように素通りした。(9/21テレビ朝日「報道ステーション」)
 しかし、「主権に関する対立では特定の立場は取らない」というパネッタ米国防長官の尖閣問題に関する発言(9月17日外相・防衛相会談後)と現実の推移を重ね合わせれば、オスプレイ配備や米軍の存在が、「抑止力」となるのかは疑わしい。メディアはそこを検証しなくていいのか?
 軍事力が紛争の「抑止力」や解決手段であるよりは、問題を泥沼化する要因になることは、イラクやアフガンの状況を持ち出すまでもなく実証済みのはずだ。
 メディアは、「米軍の抑止力」を疑い、検証する姿勢を失って、当然のことのように神話視してはいないか? あたかも原発報道における「安全神話」のように。

 オスプレイ報道は、普天間配備後、本格運用をめぐって今後も続く。「安保タブー」や「抑止力神話」を疑う視聴者に、メディアは、今後どのような報道で応えるのだろう?
 私たちは今後のテレビ報道を厳しく見守りたい。

2012年11月号より



どっこい生きる 3・11と映画

今井潤(放送を語る会会員)

 東日本大震災と福島原発事故を描いた映画は今年10月までに10本が一般公開された。それらの作品と監督は「無常素描」(大宮浩一)「311」(森達也、綿井健陽、松林要樹、安岡卓治)「フクシマ2011被爆に晒された人々の記録」(稲塚秀孝)「立ち入り禁止地区双葉、されど故郷」(佐藤武夫)「傍」(伊勢真一)「相馬看花」(松林要樹)「フクシマからの風」(加藤鉄)「石巻市立湊小学校避難所」(藤川佳三)「3・11を生きて、石巻・門脇小・人びと・ことば」(青地憲司)「希望の国」(園子温)この内「希望の国」のみドラマで、近未来の日本で起きる原発事故に抵抗する人々を描いている。

(1)特筆すべき作品

傍・かたわら」は宮城県亘理町に住むミュージシャン夫婦が大震災発生後、石巻にコミュニティFM局を立ち上げ、行方不明者の氏名・住所・年齢をただアナウンサーが読みあげる放送を続け、大きな反響を読んだことを題材にしている。今年3月NHK「こころの時代」で作家の柳田邦男氏はこれこそ災害の真実に迫るものと評価した。
「3・11を生きて」は石巻市門脇小の生徒・先生・父兄が3月11日の24時間の体験を語った記録である。この大災害を生きた人々の言葉が数珠のように繋がっている。 
 一見平凡に見える構成だが、これほど緻密に人々の心情と行動を追跡したものはなく、人間の生きる力を表現する点では他の作品にない特徴を持つ。


(2)テレビとの違いを意識した作品
「無常素描」は福島の僧侶玄侑氏の言動を中心に、被災の有様を2週間撮影したドキュメンタリー。終始、人名や地名の文字スーパーがない、ノーコメントの作品で、明らかにテレビ番組が説明過多であるとの批判的立場から制作されている。しかし、この大震災を短期日の「素描」で表現できるものではないことは明らかで、原発事故にふれていないことも理解できない。
 「311」は大震災発生から2週間後、森達也、綿井健陽ら4人が線量計で放射能を計りながら「東京の20倍だ」と笑いながら、福島原発を目指すシーンから始まる。最小限の人名・地名の文字スーパーはあるが、ノーコメントでテレビを意識した作り方である。
 立ち入り禁止で福島原発をあきらめ、岩手県陸前高田に入るが、大津波の被災を見て、4人から笑いが消えるのが妙にリアリティーがある。宮城県石巻市の大川小学校で遺体を撮影するのを遺族から棒を投げられ、抗議されるが、そのシーンをあえて出す。テレビとの違いを強調する演出だが、被害者のプライバシーを侵害することは誰にも許されないわけで、こういう手法はいかがなものかと思う。
 「フクシマからの風」は福島県飯舘村と川内村でモリアオガエルの卵を見守る85歳の老人、山菜を育てる84歳の老人、自給自足の農業を続けている62歳の男性の生活に密着した作品。この男性は「我々は原発に依存してきたのだから、被害者でなく、加害者だ」と自分を問い直している。この作品も文字スーパーは少なく、意味不明なところがある方言もそのまま出している。テレビでは共通語の文字スーパーを入れるのが通例である。加藤鉄監督は青森県六ケ所村の核燃料施設に一人反対した老人の映画を作った人で、人間の生き様を描く点では卓越した力量を示している


(3)初めてドラマ化された原発事故
「冷たい熱帯魚」に続く「ヒミズ」のオープニングとエンディングシーンに東日本大震災のガレキの延々としたドリーショットを使い日本の現状を象徴して見せた園子温監督は近未来に起きる原発事故で放射能災害と行政による退避命令に人々がどう立ち向かうかというドラマ「希望の国」を発表した。長島県という架空の農村で、自宅から退避せず認知症の妻とともに抵抗する酪農家、その息子の妻は妊娠したので、放射能におびえ、完全防護服で過ごす、近所の若い恋人たちはただひたすら被災地を歩き続ける。認知症の妻が牛やヤギの歩く道を徘徊し、小雪の舞う中を浴衣姿で盆踊りを踊ってあるくシーンは強い印象を観る者に与える。
 まだ福島第1原発事故の衝撃が強く残っている中でのこのドラマはどれだけ真実に迫れるかが課題と思われた。園監督は「ニュースやドキュメンタリーが記録するのは情報です。僕が記録したかったのは被災地の情緒や情感でした。それを描きたかったんです」と語るが、認知症の妻の姿や育てて来た牛を処分するシーンは日本人の情感に強く訴える力を持っている。


             2012年10月号より




        「厳重注意」を受けるべきは誰か

〜NHK「ETV特集」スタッフへの「注意処分」を考える〜

戸崎 賢二(放送を語る会会員)

 大震災後のテレビ報道の中で、NHK「ETV特集」の「ネットワークでつくる放射能汚染地図」シリーズは、原発事故による放射能汚染の実態と、被害を受けた人びとの悲劇を、地を這うような調査取材で伝え続け、わが国原発事故報道の高い峰を形成してきた。シリーズ第一回にあたる昨年5月15日の番組は、文化庁芸術祭大賞、日本ジャーナリスト会議大賞などを受賞している。
 ところが、今年4月、NHKで、この優れた番組群を主導したETV特集班のプロデューサーとディレクターが、口頭での「厳重注意」、もう1人のディレクターが「注意」を受けていたことが明らかになった。
 問題とされたのは、取材班が番組の制作記録として刊行した単行本「ホットスポット」(講談社)の内容である。
 この「厳重注意」については、NHKの公式サイトで見当たらず、当事者も沈黙しているので、詳細はよくわからない。局内で伝えられているところを総合すると、「厳重注意」の理由は、前記の書籍の中で、執筆者が、NHKが禁じていた30キロ圏内の取材を行った事実を公表したこと、原発報道についてNHKの他部局を批判したこと、などだったとされる。
 書籍「ホットスポット」によれば、震災4日後の315日、取材班は放射線衛生学の研究者である木村真三博士とともに福島へ向かい、翌16日から、原発から30キロ圏内で、移動しながら放射線量を測定した。各地でチェルノブイリに匹敵する高い線量を記録する中で、研究者のネットワークで、原発事故による汚染地図をつくるドキュメンタリーの企画の着想が生まれた。
 この企画は、ETV特集新年度第1回の4月3日の放送分として提案されたが、ネットワークに参加する研究者に反原発の立場の研究者がいることなどを理由に、制作局幹部によって却下される。
 このころすでに、政府の屋内退避区域の設定を理由に、NHKは30キロ圏内の取材を禁じていた。3月下旬、再度現地に入ったクルーが、幹部からの命令で現地から撤退する直前、浪江町赤宇木(あこうぎ)で、高線量を知らず取り残されている住民を発見した。住民はのちに取材クルーと木村博士の説得でこの地域を脱出することになる。
 「注意処分」の理由とされたのは、このように30キロ圏内で取材した事実を書籍で公表したことだった。しかし、その記述があることによって、当時の原発事故報道の問題点が鮮明に浮かび上がることとなった。
 赤宇木のある地域の放射線量の高さは、文科省は把握していたが、地名を公表しなかった。枝野官房長官はこの報告を受けた後の記者会見で、「直ちに人体に影響を与えるような数値ではない」と説明し、テレビ報道はこの会見を垂れ流した。
 取材班は「ホットスポット」の中で、「当時の報道は大本営発表に終始し、取材によって得られた「事実」がなかった」と指摘、30キロ圏内の取材規制も、「納得できるものではない、そこにはまだ人間が暮らしているのだ」と書いている。ジャーナリストとしてまっとうな感覚である。
 赤宇木の状況は43日のETV特集で紹介され大きな反響を呼んだが、3月に測定した汚染の広がりの公表は、5月15日の「汚染地図」第1回の放送まで待たなければならなかった。もし、幹部が遅くとも4月3日に「汚染地図」の放送を許していたら、番組は大きな警告となって、高線量の中で被曝する住民が少しは減らせたかもしれない。
 こうしてみると、「厳重注意」を受けるべきは、本来誰なのかを問い直さざるをえない。それは被災地に入り込んで取材し、住民を救った取材班というよりは、むしろ政府発表を垂れ流した報道や、早期に放射能被害を伝えることを制約した幹部のほうではないか。

 番組を牽引した七沢潔氏は、本書の「あとがき」の中で、「あれだけの事故が起こっても、慣性の法則に従うかのように「原子村」に配慮した報道スタイルにこだわる局幹部」と、NHK内部に向けて厳しい批判を加え、「取材規制を遵守するあまり違反者に対して容赦ないバッシングをする他部局のディレクターや記者たち」の存在を告発している。
 現役のNHK職員のこの異例の記述には、組織の論理よりも民衆を襲った悲劇の側に立つことを優先し、自局の原発報道を問い直す不退転の決意が読み取れる。
 このあたりの記述が「厳重注意」の理由とされたのだった。しかし、ここに表明された個々の制作者の精神の自由を「厳重注意」によって抑圧するようでは、企業としてのNHKの「自主自律」は実体を持たない空疎なものとなる。 「ホットスポット」は一方で、NHKは決して一枚岩の存在ではなく、良心的な番組でもNHK内においてはさまざまな圧力の中にあり、視聴者の支持がなければ潰されかねないことをも示唆した。今回の「厳重注意」の動きは、視聴者にそのような重大なメッセージを伝えている。

2012年7月号より


311大震災の地で考える「生死

―第46回放送フォーラム「番組制作者と語る」報告―

深堀 雄一(放送を語る会会員)

 Fさん。「放送を語る会」が企画したフォーラムに初めて参加した感想は如何でしたか。ロケ取材の合間を縫って参加して頂いたのは嬉しかったです。最近の忙しい放送制作の現場では、あなたも以前から言っていた様に、一つの番組をめぐって制作者同士が話し合う機会は、めっきり少なくなりました。いわんや、視聴者とともに、番組を視て語るなど…。私達「放送を語る会」の役割の一つは、そうした場を作ることにあると思っています。
 ところでFさん。私達は東日本大震災から1年後の3月に開催した今回のフォーラムの題材を何にするか、随分と議論しました。数多く放送されている震災関連番組のうち、私達が注目したのは、NHK・Eテレで毎週日曜日の朝五時から放送している「こころの時代」『私にとっての3・11いのちのつながりの中で』(11年12月11日放送)でした。一人の出演者が60分、命・心・人生について語る番組が、震災後の復興へ何を提起しているのか。番組にかかわったディレクター、インタビュアー、プロデューサーの3人をゲストに招き、番組ビデオを視た後、話し合う、これが今回の企画でした。番組の主人公は岡部健さん。宮城県名取市で24時間態勢の在宅緩和医療=人生を最後まで自宅で過ごしたいと願う終末期のガン患者に寄り添い、2千人以上を看取ってきた医師です。自身も重度のガンを患い、命と死について考えていた矢先の大震災。突然の津波に仲間の看護師を奪われ、さらに地域での多くの「死」に直面した岡部さんの、略半年にわたる思いと行動の軌跡から製作スタッフが学んだ事は、私達が大震災以後の状況を、死生観や心のレベルからも捉える事ができる、という視点でした。 さてFさん。今回、番組で取り上げられ、会場でも関心を集めた話題がありました。岡部医師のスタッフである看護師の一人が、津波に攫われて亡くなったエピソードです。彼女は訪問看護先で、体の弱った老夫婦を必死の思いで二階へ抱えあげた後、力尽きて流され行方不明に。遺体が見つかったのはかなりの日がたってからでした。津波大震災では、人を助ける立場の人が命を落とした多くの例がありました。ディレクターのOさんの取材話―ある講演会で岡部医師は、この看護師にふれて、「人は自分中心に生きているのではなく、他人の為に命を捨てる本能の様な気持ちがある」、と語り、一方、番組撮影で現地に立った時には「彼女にはとにかく逃げてほしかった」としか言わなかった、と。岡部医師一人の中にある二つの気持ち。そして、人には他人の為に生き、死ぬことがあるという事実。ディレクターのOさんは、この気持ちを自然な形で伝えたいと思った、と語りました。Oさんは取材中撮影スタッフと、この看護師を自分達は美化したり英雄視していないか、絶えず話し合っていたと言いました。会の参加者の感想文に、「若いディレクターの瑞々しい体験の清々しさに好感。大袈裟な題材でなくても深い会を持てたのは良かった」とありました。私は私で、敬愛する詩人の作品の一節を思ったのでした。『あらゆる仕事/すべてのいい仕事の核には/震える弱いアンテナが隠されている きっと・・・』(茨木のり子「汲む―Y・Yに」
 Fさん、参加者の一人、助産婦さんの発言に「人の死が家から病院に移るのと家でお産をしなくなるのとは、略同じ時期、人の生き死にが身辺から無くなって久しい」がありました。岡部医師は、死の看取りは、心臓の停止を確認することとは違う、自分は死をプロセスとして見る、といいます。そして震災津波では、プロセス抜きの数多くの一瞬の死がありました。医療の手が届かない所でのこれらの死を受け止めることが出来るのは宗教ではないか、というのが岡部さんの考えです。現に被災地では、僧侶と牧師と神官がともに被災者を支える組織を立ち上げ、岡部さんもそこに参加しています。生きる側を支える医療と、死へ向かう道標を示す宗教。日常あまり考えていなかった、生と死への向き合い方について、私は改めて考える時間を持ったことでした。
 Fさん、最後に、是非お伝えしたいと思った事があります。一つは、番組のインタビュアーだったYさんの言葉、「聞き手として為すべきことは、何を聞くかを深く考えることと、聞いて考えたことを忘れないこと」二つは、番組「こころの時代」を担当しているディレクターで、今回は仕事で参加できなかったAさんから届いた手紙の結び、「“静かに、深く、そして広く”の言葉を胸に刻んで励みます」Fさん、次回の「放送を語る会」の催しにも是非御参加を。お元気で!
      

*5月9日現在、東日本大震災の死者は1万5858人、行方不明者は3021人となっている。(警察庁発表)

                                            2012年6月号より



「小さな覚悟〜私にとっての3・11」
   
                                  
                                     石井 長世(放送を語る会会員)

 3・11からすでに1年。発生当時、新聞とテレビに溢れていた関連報道は、1年の節目の今、型どおりの心情的な伝え方はしても、原発災害の加害責任を厳しく追及する姿勢は殆ど感じられない。
 大惨事の再来につながる大地震の恐怖と、将来の“緩慢な死”につながりかねない放射能の危険性は、地下のマグマのように何時現実になるかも知れないのに。
 時が経つにつれ人々の意識から過酷な災厄の記憶は薄れがちになり、筆者自身の緊張感も緩み始めている。
 日本社会の戦後の歩みの中で作り出された原発の存在について、どのように考え、どのように行動すべきか。また、原発事故の責任は誰が負うべきなのか、筆者自身さまざまな集会に参加したり、多くの報道に接したりしても、明確な答えは出せずにいる。
 哲学者・高橋哲哉さんは、近著『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書)の中で、二つの地域に過酷な犠牲を強いるシステムに誰が責任を負うのかを問うた。
 特に原発事故について、国の原子力政策に直接関ってきた政府・電力会社・学者・メディアなど、原子力ムラの責任を厳しく告発するのと併せて、原発の危険性を積極的に理解し、効果的な抗議を組織できなかった市民の側の責任も指摘している。
 ただ、高橋さんの論旨は「一億総懺悔論」ではなく、主たる責任の所在を峻別することと、犠牲を生み出すシステムそのものの根絶という点にあるのは言うまでもない。
 これらの事に関連して最近印象が深かった2本のテレビ番組がある。1本目は1月22日に放送されたNHK・Eテレ「日本人は何を考えてきたのか」の第3回で取り上げた田中正造の足跡についてである。
 122年前、銅山から流出した鉱毒が渡良瀬川下流に甚大な被害を出した足尾鉱毒事件は、古川鉱業と明治政府に身をもって抵抗した田中正造と地域の農民の闘いとして歴史に刻まれているが、鉱毒を理由に村人が強制的に田畑を追われ離村した悲惨な結末は、放射能被害で同じような苦悩を強いられている福島県の住民の現状と重なる。
 もう1本は2月26日に放送されたETV特集『花を奉る 石牟礼道子の世界』である。
 豊饒の海がチッソ水俣工場の垂れ流す廃液で恐ろしい毒の海と化し、魚介を食べた多くの人々の命と身体の自由を奪った。「‥あの貝が毒じゃった。娘を殺しました。おとろしか病気でござすばい‥」。パーキンソン病に苦しみながらも、遺族の言葉を花に奉る思いで一字一字文章に綴っていく石牟礼さん。
 足尾鉱毒、チッソ水俣病、原発事故の放射能汚染の背景には共通点がある。時の権力がこれら企業の後ろ盾として一貫してかばい続けてきたこと。さらに、チッソには当時の化学工業会、原発には原子力ムラと、企業の無謬性と安全神話をばら撒いた学者の姿がある。
 3・11から1年目の時期に、企業の犯罪的実態と、それに抗って人間としての行き方を貫いた人々の精神の深みを、改めて世に問うた制作者たちの視座に敬服する。
 余談になるが、筆者には熊本県の宇土で過ごした少年時代の経験を巡る苦い思い出がある。ここの化学工場も、チッソとほぼ同じ工程で廃液を流していたが、私たち腕白坊主仲間は夏になると工場からの冷却水を流す別の排水路でよく泳いだ。化学物質のすっぱい臭いはしたが水が温かいと喜んでいた姿は、まるで原発の温排水に集まる魚だ。
 後になって、この工場の廃液が原因で“水俣病”と似た被害者が出て問題になった事を人伝に聞いたが、かつて父親も勤務した企業が起こした公害問題に、かくも無関心だったことに今でも胸が痛む。
 半世紀以上たっても満足な患者救済さえできない水俣病、今後何時まで続くか見通しのつかない放射能被害。
 これらの問題にどう立ち向かうべきなのか。
 番組の中での石牟礼道子さんの言葉、「自分の目で点検し、できることがあれば黙って実行しなければならな
い」。
 この言葉の重みを大切にしながら、できる努力はしてみる、それが筆者の小さな覚悟である

2012年4月号より


戦時下の放送と「東京ローズ」の運命

                              増田 康雄(放送を語る会会員)

今月、3月22日は放送記念日である。87年前の1925年のこの日に、わが国でラジオ放送が開始された。今年もNHKは放送の歴史を振り返る盛大な式典を行うはずである。
 この長い放送史は、実は一様なものではない、開始から二〇年は政府の統制下にあって、戦争遂行に協力した歴史である。そのことをあらためて実感させられたテレビ番組を視る機会があった。
 1月3日放送のBS朝日のドキュメンタリー「戦場の花、東京ローズ〜謎の謀略放送女性アナウンサーの正体」である(これは再放送で、本放送は11115日) この番組では、太平洋戦争のさなか、陸軍参謀部が企画した謀略放送「ゼロ・アワー」とこの番組で活躍した6人の女性英語アナウンサーを取り上げていた。「ゼロ・アワー」は南太平洋前線の米軍兵士向けに放送した番組である。
 この女性アナウンサーを、米軍兵士たちは「東京ローズ」というニックネームで呼んだことはよく知られている。番組の主役は、戦後「東京ローズ」だと名乗り出たアイバ・戸栗郁子で、彼女の数奇な人生を伝える構成だった。番組を視聴して、いくつかの事実に興味を惹かれた。その第一はアイバ・戸栗が終戦後のアメリカの裁判で「反逆罪」の刑を受けた事実であった。アイバ・戸栗は1916年年74日ロサンゼルス生まれの日系二世で、国籍はアメリカである。1938年UCLAを卒業し, 1941年7月、25歳のときに親類を見舞いに来日したが、12月8日に真珠湾攻撃が始まり帰国ができなくなった。その後、同盟通信で海外放送のモニターをしたが、1943年8月、NHK海外局米州部業務班のタイピストのパートで働いた。11月に捕虜で番組を指導していたオーストラリアのカズンズ少佐の推薦で女性英語アナウンサーとして「ゼロ・アワー」に登場する。これが彼女の運命を変えてしまった。終戦後、彼女は米国の裁判所で証拠不十分のまま「反逆罪」に問われる。起訴したのはトルーマン政権のクラーク司法長官である。当時トルーマン大統領は再選期にあり、「東京ローズ」を非難する世論の支持を得るために、アイバ・戸栗の裁判を政治的に利用したと番組は強調している。アイバ・戸栗は「ゼロ・アワー」で反逆罪にあたる内容を放送してはいないと裁判で証言したが、アメリカで2人目の「反逆罪」で起訴され実刑を受けている。
 私はこの事実に強い印象をもった。彼女は当時国籍を変えるよう日本側から強要されたが拒否し、アメリカ国籍を貫いたためにアメリカの裁判では反逆罪を問われたと思われる。プロパガンダ放送に協力した連合軍捕虜は他に誰も起訴されていない。1949年106日、裁判所は彼女に懲役10年、罰金一万ドルを課し、彼女はアメリカ国籍を奪われた。1955年、模範囚として懲役62か月で釈放される。1977年1月、アイバ・戸栗60歳のとき、当時のフォード大統領から特赦され、国籍を回復する。2006年1月、アイバ・戸栗89歳のときアメリカ退役軍人会が「愛国的市民」として表彰、その8か月後90歳で死去した。
 「東京ローズ」については、ドウス昌代や上坂冬子の著書があり、それらの資料でみると、謀略放送「ゼロ・アワー」は1943年3月から45年8月まで続いている。この番組は、アメリカ人捕慮の手紙を紹介したり、魅了する声や口調で「今頃あなたの奥さんや恋人たちは他の男とよろしくやっている」などといったトークと、アメリカの音楽を内容としたデイスクジョッキーだった。マッカーサー司令官も、その回想記によれば1943年、コレヒドールで聴いていたという。
 番組内容で興味を惹かれた第二は、「東京ローズ」6人のうち誰が兵士たちに人気があったのかということである。当時ラジオ東京の局員だった水庭進(86歳)の証言や残された録音の分析から、それはアイバ・戸栗ではなくカナダ育ちのジュ―ン須山芳枝だとわかった。彼女は戦後の1949年、米兵の運転する自動車事故で29歳で亡くなっている。
 「東京ローズ」と呼ばれた女性たちの悲劇を知るにつけ、放送が再び戦争に利用されてはならない、と強く思う。アイバ・戸栗も太平洋戦争の犠牲者の一人であった。
                             2012年3月号より



NHKは“中立”を求められているのか?

                              小滝 一志(放送を語る会会員)

 視聴者「NHKは公共放送だから公平、中立でなければならない。反対意見も、第3の意見も常に中立、平等に提供してもらいたい」
 NHK経営委員1「公平、公正、中立というのは最も公共放送に大事なことで、常にきちっと配慮して放送を行うよう執行部には常に言っている」
 NHK経営委員2「公平、公正、中立な番組をNHKは提供し、その情報をもとに国民一人一人に判断していただく」
 NHK理事「公共放送として公平、公正、中立、正確は、絶対守っていかなければいけないこと」
 これは、2011118日のNHK経営委員会に提出された「視聴者のみなさまと語る会(鹿児島)」の報告書の一節で会場での質疑が記録されている。視聴者の発言はこの際置くとして、経営委員・理事がNHKの放送理念として「中立」に言及していることに私は強い違和感を抱き、「放送に“中立”は求められているのか」NHKに質問した。「“中立”の意味でございますが、放送法に掲げられている『放送の不偏不党』『政治的に公平であること』の趣旨を述べたもので、特段、それらの考え方を越える意味を込めたものではございません」との短い回答が年末にNHKから届いた。

放送法は「中立」を求めているか
 
広辞苑には、「中立」は「いずれにもかたよらずに中正の立場をとること。いずれにも味方せず、いずれにも敵対しないこと」とある。NHKが「中立」を表明することは、例えば福島原発事故報道で、事故を起こした東電にも敵対せず、被災住民にも味方しないということにならないだろうか? 視聴者がNHKに求めているのは、被害者である被災住民の立場に立ち、事故の原因や責任はどこにあるのか事実を求めて真相究明に当たることであり、「中立」の立場で東電・被災住民双方の意見をバランスよく伝えることではないはずだ。
 社会科学辞典(新日本出版社)では、「国際法上の中立は戦時の中立と永世中立に区別される」「戦争と平和の、あるいは帝国主義と社会主義の中間にたつという『等距離中立』」などの解説があり、「中立」が政治的立場をあらわす用語であることが判る。「中立」はメディアの制作・編集姿勢を示す用語として果たして適切だろうか。
 放送法ではどうか。第一条に「放送の不偏不党、真実及び自律を保障」、第三条の番組編
集準則には「政治的に公平であること」「報道は事実をまげないですること」「意見が対立する問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」とあるが、どこにも「中立」の用語はない。NHKが自ら決めている「国内番組基準」「新放送ガイドライン」でも「中立」の用語は見当たらない。
「中立」には、対立する双方に距離を置く、それも等距離を置くというニュアンスが含まれている。福島原発事故報道に際して「多くの角度から論点を明らかにし」、「事実をまげない」で真相に迫ろうとすれば、「政治的公平」であろうとするかぎり、メディアが東電と被災住民の間で「中立」ではありえないことは明らかだ。
 NHKの回答では「“中立”は『放送の不偏不党』『政治的に公平であること』の趣旨を述べたもの」とあるが、「中立」は「不偏不党」「政治的公平」と同義語ではなく、メディアの報道姿勢を表す用語としては不適切で不用意に使用すべきではないように思われる。

強調すべきは「中立」ではなく「自立・自律」
 昨年9月の6万人を越える人々が集まった脱原発集会、あるいは10月に経産省を取り囲んだ「原発いらない福島の女たち」のデモなどを積極的に伝えないメディアに対し、「示威行動を取り上げることは“偏向”であるという浅薄な『公平中立主義』」(神保太郎 雑誌「世界」1月号)という批判もある。少数意見や反対意見を黙殺する口実に「中立」が使われることを私は危惧する。NHKが「放送の自主・自律」を改めて強調した「新放送ガイドライン」作成のきっかけは、政治介入を招いたETV慰安婦番組改変事件だったことは記憶に新しい。今、NHKが報道姿勢として大切にすべき理念は「中立」ではない。むしろ、権力におもねらず少数意見や弱い立場の声に耳を傾ける「自立・自律」ではないか。

2012年2月号より


リビア革命を伝えたジャーナリストたち

                               尾崎 孝史(写真家 放送を語る会会員)



前線での取材中、カダフィ派の砲撃を受け重傷を負ったフランスのTVカメラマン。リビア内戦では多くのジャーナリストが命を落とした。(筆者撮影)

 「アラブの春」で幕を明けた昨年、激動の中東諸国に向かった。中でもカダフィによる長期独裁が続くリビアでの市民蜂起は画期的で、現地に長く滞在することになった。海外からの取材者は、反政府派の拠点となった東部の都市・ベンガジを目指した。現地のボランティアが立ち上げたメディアセンターでは、プレスカードの発行やインターネット回線の提供を行っていた。そこで私は多くのメディア関係者と出会った。 後に帰らぬ人となったテレビ朝日の野村能久記者は、メディアセンターの廊下で私にこう話してくれた。「前線の状況も知りたいが、社の方針で危険な地帯での取材は控えることになっています」。野村氏の説明は、大手メディアに所属する日本人記者に共通するものだった。皆、安全管理を最優先する本社の指示に縛られていた。
 海外のメディアでは積極的な報道が目立った。アルジャジーラTVは、カダフィ派勢力に銃撃されカメラマンが死亡するという痛ましい事件があったものの、悲劇を乗り越え取材を続けた。シルトでの激戦や和平交渉人への独占インタビューを伝えるアルジャジーラの映像を、リビア市民は食い入るように見つめた。 
 英国BBC放送は、砲弾飛び交う最前線に取り残された取材班の顛末を、そのままルポとして配信した。また、カダフィ軍に拘束され監禁されていたBBCの記者は、解放後、自社のカメラに向かって一部始終を証言した。いずれも、反政府派市民に容赦ない攻撃と圧力を加え続けるカダフィ軍の実態を伝えることに成功していた。「前線に近づけばカダフィ派に拉致されるかもしれない。そんなリスクは犯せない」と語っていたNHKの取材班とは対照的だった。
 一方、フリーランサーの活躍は目覚ましかった。フォトジャーナリストの高橋邦典氏は革命勃発直後に現地に入り、砂漠の前線を欧米のジャーナリストとともに走り回っていた。日本の雑誌の多くは、高橋氏の写真でもってリビア情勢を伝えることとなった。また、パリ在住の写真家・岡原功祐氏のルポルタージュは、各国に配信され紙面を飾った。
 私が行動をともにしたフリーランサーの中に、リード・リンゼイとジハン・ハーフィズというアメリカ人の夫婦がいた。二人はカイロを拠点とする駆け出しのビデオジャーナリストだ。活動資金が潤沢でない二人は、ベンガジと前線を行き来する市民の車に同乗しながら彼らの声に耳を傾けた。3月10日には、ボランティアグループの若者とともに、最前線の都市・ラスラヌーフへ向かった。その日、カダフィ軍は戦況を好転させるため、陸海空軍を総動員。容赦ない爆撃は私たちにも襲いかかった。身を伏せながら撮影を続けた二人はラスラヌーフ陥落の瞬間を記録した。
 彼らの3 週間に渡る取材は、ドキュメンタリー番組Benghazi Rising≠ニして世界に発信された。日本では邦題『ベンガジの蜂起』として7月、NHK BS‐1で放送された。番組は、フリーランサーの活動を表彰するローリー・ペック賞にも最終ノミネートされている。
 8月、現地で再会した私たちは、革命の先頭に立ってきた若者たちとともに首都トリポリの解放を祝った。いま、ジハンはニュースリポーターとして活躍中。リードはアラビア語を学びながら次作の企画を進めている。「またカイロで会おうよ」。リードから届いたメールは、中東に根を張って「アラブの春」の行く末を見届けようとする意気込みであふれていた。

                                                2012年1月号より


 二重苦の南相馬市は“いま” 〜被災地駆けあし印象記
                                 石井 長世(放送を語る会会員)
 
9月19日の東京・明治公園「さよなら原発5万人集会」は、“想定外”の人々の熱気で埋め尽くされた。
 このような脱原発の運動の盛り上がりの一方で、原発災害を巡るメディアの報道は、日を追うごとに扱いが小さく、持続した検証の姿勢を失っている気がする。
 原発災害は過去のことで、電力需要に応える原発は必要だと主張する論調も、一部でまかり通る。
 そうした中、9月9日の鉢呂元経産相「死のまち」発言が明るみに出て、一斉にバッシングが起きた。担当大臣として舌足らずの無神経な発言ではあったが、「死のまち」は架空のことなのか、またこうした現象を引き起こした元凶は誰なのか、問われずじまいだった。さらに、翌月12日には福島県知事が県産米の安全宣言をしたが、福島の農業は本当に大丈夫なのか、突っ込んだ報道は見当たらなかった。 こうした疑問と被災地の“いま”を自分の目で確かめたいと思い、筆者は10月半ば南相馬市を訪ねた。
 以下の報告は、駆け足で現地を見て歩いた印象記に過ぎないことをお許し頂きたい。

 福島市から南相馬市役所まではバスで2時間20分。
 途中の田は稲刈りが終わり各所に稲叢が積まれているが、南相馬に入った途端田んぼは草だらけの状態だ。
 米の安全宣言では、南相馬市など11市町村が対象から除外されていたが、こうした事実さえきちんと伝えないメディアが多かった。実際はこれらの地域は原発事故による警戒区域などに指定され、稲の作付けは“制限”つまり禁止されているのだ。
 市街地周辺の田んぼは荒涼として静まり返っている。
 市内には凡そ6800haの農地があり、そのうちの7割が稲作、残りが換金作物を作っているが、風評被害で全く出荷出ず、折角の作物も放置されたままだ。
 多くの農家が域外に避難したり、兼業の仕事も失ったりして収入の道を絶たれ、経済的にも精神的にも追い詰められている。来年の稲作の見通しも不透明だ。
 取材中に通りかかった農家の女性は「農業を続ける自信がありません。今は賠償額のことだけで頭が一杯です」と話してくれた。
 大津波の爪跡を見るため、市の中心部から東6キロ余りの海岸に向かう。第1原発の煙突が遠望できる下渋佐などの地区の惨状は、テレビで全国に伝わった。
 破壊された防波堤の内側の凡そ140戸の住宅は跡形もなく、見渡す限りの荒地に変わっており、瓦礫の後片付けが終わった所では住民たちの生活の痕跡を見つけることさえ難しい。子どもの頃住んでいた集落の様子を見に来た福島市の女性は、変わり果てた故郷の姿に言葉もなく立ちすくんでいた。  南相馬市が10月にまとめた被害の概要では、死者・行方不明者663人、住宅の全半壊5657戸、市外への避難者は凡そ2万5000人に上る。
 中でも原発から20キロ圏内にある小高地区は、1万2800人の全住民が避難し、文字通り人っ子一人いない“死のまち”になっているという。9月末に緊急時避難準備区域の指定が解除された原町区も、4割の住民が避難したまま。目抜き通りの人影もまばらだ。
 さらに気になるのは放射能の危険性だ。
7月下旬から9月初めにかけて市が実施した放射線量のメッシュ調査では、警戒区域の小高区以外の地区でも、低いところで毎時0.3、高いところでは4μCvの線量が記録されている。人口の多い市の中心部でも平均0.6前後の高い値を示しており、今後子どもや若者など住民の健康への影響が懸念される。
 市全体が今でも大震災被害と放射能という二重苦にあえいでいるのだ。災害は未だ終わってはいない。
 この窮状を打開しようと、市では建築家の中村勉氏や作家の玄侑宗久氏らの協力を得て南相馬市復興有識者会議を立ち上げた。犠牲者の鎮魂や自然景観の回復などを通して、南相馬市の再生を目指すという。
 こうした復興への足取りが一日も早く具体化することを切に願いながら、現地を後にした。

                                          2011年12月号より


  フクシマ報道  ローカルやラジオにも光る番組
                                     今井潤(放送を語る会代表)

(1)心に伝わる番組を作りたい  ローカル番組制作者の言葉

 NHKは木曜日の午後3時過ぎに「ろーかる直送便」、土曜日の午前11時過ぎに「目撃・日本列島」というローカルで一度放送した番組を全国に再放送している。
 8月24日にたまたま見た「いつか帰れる日のために」は福島局が制作したものだが、番組の最後に出るスタッフ名に知った名前があったので、すぐ番組の評価を手紙に書いて出した。すぐにメールで若いディレクターと原発事故の町の実態を取材し、番組を作っていると返事があった。
 その番組は山菜を育てている80歳を超える老夫婦とブロッコリーを栽培する農家の話であった。汚染されたとはいえ、諦めきれない老夫婦は最後の最後まで山菜の成長ぶりを気にかけるのだが、ひょうひょうとした夫とそれにあきらめ顔で付き添う老婆の表情が何とも魅力的であった。ブロッコリー栽培はハウスなので汚染を防げると思ったが、隙間から侵入し、汚染されてしまい、結局全部抜き取り、廃棄しなければならない悲しみを味わう。
 農をする人の忍耐強さと同時に生き物を扱う優しさを感じる番組であった。
 9月8日の同番組「鎮魂・侍たちの夏〜福島・相馬野馬追〜」は1000年の歴史を持つ野馬追の継承にかける男たちの話である。人だけでなく100頭の馬も死んだこの地方では、馬も家族の一員で、野馬追は晴れ舞台なのだ。原発事故で妻を失い、馬も流しながら、伝統の祭りを守ろうとした男たちの心情が伝わる番組だった。
 10月1日放送の「目撃・日本列島」「子供たちを守りたい〜放射線と闘う福島〜」は教師と住民が協力して除染作業をする姿をとらえていた。住民は調査をし、汚染地図を作り、学校に持ち込み、実践的な対応を考えていく。しかし、それでも夏休みに100人が転校し、とどまっていて後で後悔しないかと涙ぐむ母親の姿が心に残った。
 放送の度に、良かった点と映像編集の改善点やナレーター選択のことなどをメールした。
 10月1日の放送については「もっと心に伝わる番組を作ろうと、毎回はげまされています。ご意見は担当ディレクターに渡していて、今回のナレーターを安田成美さんにしたのは母親の感じを出すためでした」と返事があった。
 彼は今40代初めの福島局CP(チーフ・プロデューサー、番組の責任者でディレクターの指導に当たる役職)として、原発に限らず、農業、水産業などの実態をドキュメントする番組を制作している。若いディレクターの先頭に立ち、勇気を持って、被災地の声をテレビ画面に描き出してほしいと思う。


(2) 健闘するラジオの原発報道

 9月5日NHKラジオは夕方5時からのニュース番組で「原発事故6か月、収束の課題・何を要求するか」のシリーズを放送した。初日は舘野淳氏(元中央大教授)と鈴木正昭氏(東大教授)の話で進められたが、舘野氏は「私は原子力村から排除された人間だが、産官学の癒着体制を解体して、地震多発地帯にある原発はやめるしかない」と発言、鈴木氏は「軽水炉ももっと安全なものにする研究をすべきだ」と反論し、議論になった。
 このように視聴者に問題の対立点を明らかにし、考えるヒントを与えることがメディアにとって大事だと思う。
 9月6日の2回目は「放射線の除染」を取り上げたが、除染のボランティアをする地元の住民は除染の仕事が重労働なので、やめていくボランティアが多いと悩みを話した。こういう実態こそ日々のニュースに必要だと思う。

 NHKラジオは3月28日の正午のニュースで立命館大教授の安斎育郎氏に原発事故で何をすべきかを聞き、「あらゆる英知と人材を結集して対処すべきだ」と発言させた。彼は東大の教官時代に日本の核政策を批判したことで知られる学者である。
 3月29日には朝のニュースの中で評論家の内橋克人氏は「原発の安全神話はどうして作られたか」を語り、29年前島根原発の公開ヒアリングに触れ、学者・メディア・教育・パブリシティを動員して、安全神話が作られたと指摘した。
 ラジオはより生活に密着したものだけに、多くの情報と共に、知る権利にこたえる内容の放送が求められると思う。

                                              2011年11月号より


 
3K職場のテレビスタジオ 〜ドラマ番組の制作現場〜
                      野中良輔(放送を語る会会員)

 NHKの連続テレビ小説「おひさま」は、9月で放送を終え、大阪制作の「カーネーション」が10月から始まる。

「テレビ小説」はNHKの看板番組「大河ドラマ」に先だつこと2年、1961年4月、獅子文六原作の「娘と私」から始まり、放送開始以来今年で50年、放送を終えた「おひさま」で84作を数える。

 2,3の例外を除き女性を主人公としたストーリーで、ギャラクシー賞(放送批評懇談会)エランドール賞(日本映画テレビプロデューサー協会)などの受賞作も多い。放送時間が朝の8時台にもかかわらず常に高視聴率を保っていて、第31作の「おしん」(83年放送)は平均視聴率が52%台と、驚異的な数字を残している。
 最近の視聴率はやや低迷しているとはいえ、50年の長きにわたり、優れたドラマを生み出している番組関係者の努力は賞賛される。

 だが、こうした表舞台とは対照的に、制作現場の厳しい実態はあまり知られていない。
 私は、18年前に照明スタッフとして「テレビ小説」の制作に携わったことがあった。ドラマ番組の収録は、他の番組に比べて圧倒的に労働量が多い。通常、ドラマ番組の技術関係スタッフ(撮影、照明、音声など30人程度)は、2チームに編成されていて、スタジオでの収録は隔週ごとに3日間連続で担当する。
 収録日は8時〜10時に始まり、終了はほとんど24時を越え、ときには午前3時になったこともある。深夜24時を過ぎる場合はタクシーでの帰宅になるが、大半のスタッフは帰宅せずに局舎に宿泊していた。家に帰ると十分な睡眠が取れないことが理由だ。
 スタジオ内の作業環境もかなり悪い。スタジオ全面に建て込まれたセットには、根元に土が着いた樹木も多く、フロワーに土砂が撒かれる場合もあり、セットの転換時にはかなりの土埃が舞い上がる。照明スタッフは脚立に乗っての作業も多く、転倒、落下の危険が常にあり、ドラマ制作のスタジオ現場は典型的な3K職場だ。 もちろん労働組合も問題にして、度々改善を申し入れてはいたが進展はほとんど無く、実質的に過密労働を規制するものは、月間の時間外労働、深夜勤務の時間数などで、いつも規制値の許容範囲ギリギリの勤務実態だった。

 あれから20年近く経た今、現状はどうであろうか?
 今期放送されたテレビ小説「おひさま」を担当していた技術スタッフの話によると、週4日連続の収録が基本で、1日の労働時間は少ない日で10〜12時間程度、多い日は15〜17時間前後とのことだった。
 話を聞いた限りではドラマ制作現場の状況は以前と比較して改善どころか、むしろ悪くなっているように思える。18年前には無かった4日収録が恒常的に行われているようだ。週3日間でも最終日の終盤には疲労困憊状態になり、注意力も著しく低下した。4日間では、安全面や健康への影響が非常に懸念される。

 2012年度から受信料10%還元を義務づけられたNHKでは、効率化の名の下で制作費の削減が至上命題になっている。多額なコストを要するドラマ番組は、なおさらだ。制作費用の削減は、番組制作の外注化と共に、収録期間の圧縮をもたらしている。
 NHKで放送されているドラマの半数以上は、関連会社や外部プロダクションによって制作されている。
 NHK本体の労働者は不十分とはいえ、それなりの労働条件で働くことが出来るがコスト節減目的の外注化のもとでは、条件がより厳しいことは容易に想像出来る。
 それを裏づけるように、「BS時代劇」の沖縄ロケでは、夜明けの5時に宿舎を出発し帰着したのが翌日の朝4時という、にわかには信じがたい話を最近聞いた。
 番組の質を維持し、制作、労働条件を根本的に改善するには厳しい仕事を安易に外部に押し付けるのではなく、十分な制作費の保障、ゆとりのある制作期間の確保、スタッフの増員などが不可欠だ。

                                              2011年10月号より