尼子家没落のきっかけは大叔父の忠告無視から
吉田郡山城の戦
よしだこおりやまじょうのたたかい
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西暦 1540年
和暦 天文9年10月〜
略図
関連する場所  安芸国 吉田郡山城
 安芸国 風越山
 伯耆国 羽衣石城
概要 ●毛利討ちの決意
出雲国の尼子経久が孫の尼子晴久に家督を譲った1538年時点で、尼子家の勢力は出雲国石見国伯耆国から美作国備前国播磨国と東方へ拡大されつつあったが、1540年、尼子晴久安芸国吉田郡山城攻めを決断した。

これは、尼子家から離反し周防国の太守大内義隆の配下に入っていた、吉田郡山城主の毛利元就を討つためであった。

その際の軍議で、晴久の大叔父、尼子久幸は、毛利の吉田郡山城は難攻不落であり我攻めは無謀だと反対したが、尼子晴久はこの大叔父を臆病者と決めつけ、3万の兵を率いて強引に出陣、吉田郡山城の北西の風越山に着陣した。

途上、大内家の支配していた石見銀山を奪い返すなど尼子軍の士気は高かったが、伯耆国羽衣石城主、南条宗勝の謀反が発覚したことから、尼子晴久は叔父の尼子国久を羽衣石城に向かわせ平定させた。

●吉田郡山城
尼子晴久吉田郡山城下に火を放った後、毛利勢との交戦に入った。

尼子方は当初、部将の湯原宗綱や三沢為幸が討ち取られるなど苦戦、さらに毛利家への援軍に大内勢(陶晴賢、内藤興盛など)1万が駆けつけたため劣勢となった。

機をとらえたとばかりに毛利元就は全軍を率いて、宮崎長尾に布陣していた尼子軍を攻めたが、最終的には吉川興経に進軍を阻まれた。

●孤軍奮闘の大叔父
そのとき陶晴賢が尼子本陣の背後に回りこみ急襲を行ったため、尼子方はたちまち混乱に陥いるが、臆病者と誹られていた大叔父、尼子久幸が孤軍奮闘の末尼子晴久の危機を救ったのちに戦死した。

●退却戦
さらに大内義隆の本軍が毛利の援軍に来つつあるとの情報を得た尼子勢は、雪の夜にも関わらず密かに撤退を開始した。

翌日、尼子勢への追撃戦を仕掛けた毛利勢だったが、尼子方の殿軍、高尾備前守の徹底抗戦にあって、ここでも多数の死者を出したため深追いを断念した。

結局、尼子晴久の毛利攻めは不首尾に終わったばかりか、この敗戦を機に安芸国は完全に大内家の支配下となり、多くの将士を失った尼子家は没落へと向かうことになる。
その他