本能寺の変前夜の越中での攻防
魚津城の戦うおづじょうのたたかい
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西暦 1582年
和暦 天正10年3月
略図
場所  越中国 魚津城
 越中国 松倉城
 越中国 天神山城
写真
魚津城跡
概要 ●謙信の死と越中国
1578年の上杉謙信の死は、織田信長包囲網の瓦解を招いた。
謙信なき越後国では、後継者争いにより国が二分し、謙信の上洛を信じて畿内で信長に反旗を翻した松永久秀荒木村重ら大物も駆逐され、10年もの間抵抗してきた大坂の石山本願寺も1580年の夏、信長に降伏(和睦)したのである。

この時点で主な反信長の勢力としては、甲斐国、信濃国などの武田勝頼と、中国の毛利家が残るだけとなった。

武田に対しては同盟者の徳川家康が、毛利に対しては羽柴(豊臣)秀吉が、それぞれ当たり、北陸方面を担当する柴田勝家も、内紛のざわめきが消え切らない上杉家攻略を進め、加賀国能登国から越中国へと勢力を伸ばし、1581年には佐々成政と、元上杉家臣で織田家に属した神保長住とに、越中国を2分し支配させた。

佐々成政は富山城を居城とし、大改築を行う。

そして織田勢は、1582年3月、越後国との国境に近い魚津城へ迫った。

●富山城
そんな中、神保長住が入城して守っていた富山城(城主は佐々成政)が、上杉家に味方する小島職鎮に急襲され奪われるという事件が起こった。

これにより織田軍は後方を脅かされることとなったが、柴田勝家は総勢1万の兵を富山城に差し向け瞬く間に奪い返すと、すぐさま反転再び魚津城へ向かった。

一旦上杉方に捕らえられた神保長住はこの事件で失脚、佐々成政越中国一国が任されることになった。

●魚津城
魚津城は、富山湾の東部の平野部に、海に面して築かれた平城で、上杉方の中条景泰を守将とする5000の兵が篭っていたが、総大将柴田勝家をはじめとして、前田利家佐々成政ら織田勢が包囲した。総勢3万とも4万とも言われている。

魚津城からの援軍要請を受けた春日山城上杉景勝だったが、武田勝頼甲斐国で攻め滅ぼした織田勢が信濃国上野国にも溢れ、いつ越後国を窺うかわからない状況だったことや、織田に味方し反乱を起こした(新発田重家の乱新発田重家に対する防備もあって、出陣は織田軍の包囲から2ヶ月近く経ってからであった。

織田勢は大鉄砲による城への攻撃を含め、徹底的な攻城戦を展開、上杉景勝春日山城を出陣した二日後の5月6日には、すでに二の丸も攻略した。

そして5月26日、魚津城の支城、松倉城から上杉勢が撤退、また信濃国森長可上野国滝川一益ら織田勢が本拠春日山城への総攻撃を始めるという報に、上杉景勝も入城していた天神山城から撤退し春日山城へ向かったことから、敵中に孤立した魚津城は6月3日に落城、吉江宗信、安部政吉、山本寺孝長、吉江景資、吉江資堅、寺島長資、蓼沼泰重、石口広宗、若林家長、亀田長乗、藤丸勝俊、中条景泰、竹俣慶綱の12人の上杉方の守将は自害した。

●どんでん返し
魚津城の落城により、越中国は完全に織田家の支配するところになるはずであったが、織田勢はすぐに越中国から撤退し、領国である加賀国能登国越前国へと退いて行った。
6月2日起こった本能寺の変の急報を受けたためである。

魚津城は再び上杉に帰した。