秀吉亡き後起こった宇喜多家のお家騒動
宇喜多騒動うきたそうどう
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西暦 1599年
和暦 慶長4年
関連する場所  摂津国 大坂城宇喜多屋敷
略図  
概要 ●宇喜多秀家
織田信長の中国計略以来、豊臣秀吉の猶子となって家中で重きをなしてきた宇喜多秀家は、8歳にして当主となって以来秀吉のいる畿内にいることが多く、家政や備前国経営については国元の重臣たちに任せていた。
宇喜多忠家(秀家の叔父)、長船綱直(紀伊守)、戸川達安、岡利勝らである。

特に長船綱直は、伏見城の普請奉行を務めた際の能力を秀吉から賞賛を受け、豊臣姓を許され、宇喜多氏の国政を牛耳るようになっていった。

一方、大坂屋敷において秀家を補佐する重臣に、加賀前田氏から豪姫(秀家の正室)に伴って宇喜多氏に入ってきた中村次郎兵衛(刑部)がおり、主君からの信頼もあつかった。

中村次郎兵衛(刑部)は家中では新参であったが機を見るに敏で、国元の長船綱直に接近することで権勢を高めていた。

●秀吉の死
その頃の宇喜多家は、朝鮮渡海(文禄の役慶長の役)により経済状況が逼迫していたが、そのような状況であっても大坂屋敷からは従来通りの仕送りをしてくる。

国元にいる古くからの重臣たちは、秀家のそばにいる中村刑部の専横がその原因であると決め付けるとともに、にわかに筆頭家老となった長船綱直に対しても不満を持つようになっていたが、特に長船綱直は秀吉から豊臣姓を拝領しており、遠慮もあって敵対行動に出るようなことはなかった。

しかし慶長3年(1588年)豊臣秀吉が死没すると、対立が表面化した。

●騒動
宇喜多詮家(坂崎直盛)、戸川達安、花房正房、岡勝則らが、長船綱直と中村刑部の殺害を図ったのである。

この騒動の中で、長船綱直は病死するが、中村刑部については主君の宇喜多秀家が密かに大坂から加賀国へ逃亡させた。

これに激怒した国元の重臣たちはついに秀家に対して敵対、兵を率いて上坂すると大坂の宇喜多屋敷に立てこもった。

●調停
その騒ぎの調停に乗り出したのは、豊臣家の中でも特に派閥に属さないことを誇りにしてきた大谷吉継であった。

大谷吉継徳川家康の重臣で徳川四天王のひとり、榊原康政を誘って二人で調停活動を開始したが、これを知った徳川家康は、康政に手を引かせるよう画策した。
豊臣家で重きをなす宇喜多氏が分裂することは、徳川家にとっては喜ばしいことであるのに、康政がわざわざそれを解決してしまっては都合が悪い。

家康は「康政は解決した際の礼金欲しさに奔走している」とわざと言い放ち、それを聞いた康政は激怒し調停から手を引いた。
大谷吉継も一人での解決は難しい。筆頭大老の徳川家康の裁断に任せることになった。

家康は宇喜多詮家(坂崎直盛)、戸川達安らを死罪にすることもできたが、敢えて蟄居処分にとどめて恩を売ることに成功した。

●その後
その後の宇喜多家の家政は明石全登に委ねられたが、全登は見事にそれをやり遂げ、1年後には財政の建て直しに成功する。

しかしこの騒動による宇喜多家の兵力は著しく低下。
現に宇喜多詮家(坂崎直盛)、戸川達安らは関ヶ原の戦で家康に味方する。

宇喜多騒動は、結果的に関ヶ原の戦における西軍の敗戦の一因となった。