尾張統一のきっかけとなった信長の大勝
浮野の戦うきののたたかい
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西暦 1558年
和暦 永禄元年7月
関連する場所  尾張国 浮野の戦場(このあたり)
 尾張国 岩倉城
周辺図
概要 ●尾張の情勢
1555年に守護代織田信友を討って清洲城を手に入れ、1556年に稲生の戦で弟の織田信行に勝利、1557年にその織田信行を殺害と、順調に尾張国で台頭してきた織田信長は、この時点で国の半分を支配するに至っていた。

信長の憂いは、何といっても東の太守今川義元の動きであったに違いない。
駿河国遠江国三河国と豊かな東海の三ヶ国を支配し、相模国北条氏康との同盟に成功した今川義元が次に狙うのは尾張国だということは明白であり、その前に国内での争いを終結させなければならない。

●尾張上四郡に照準
織田信長は、当然のように尾張上四郡の平定に向けて行動を開始する。

上四郡は岩倉織田家の織田信安が支配していたが、ここにお家騒動が起こった。
信安が嫡子の織田信賢ではなく、二男の信家に家督を譲ろうとしたのである。
この騒動は、織田信安が子の織田信賢とその家臣たちに追放される、ということで一応の決着をみていたが、この機会を信長は利用しようとした。

先代の織田信秀の死後、信長に与せず独立を決め込んでいた犬山城主の織田信清に対し信長は、自分に味方すれば織田信賢の領地を任せると誘い、さらには姉(犬山殿)を嫁がせ味方に引き入れた。

●浮野
1558年7月、信長は2千の軍勢で出陣、織田信賢は3千の軍勢で岩倉城から打って出、城の北西、浮野で激突した。

激戦となったが、織田信清の援軍1千の到着と、弓・鉄砲を駆使した戦術で信長勢が優勢となり、信賢勢を岩倉城付近まで追い勝利した。

●追撃戦
一旦は兵を退いた両者であったが、織田信賢は、織田信清が犬山へ戻るところを追撃することを決意し、再び城を打って出た。

これを知った織田信長も再び兵を返して信賢勢を攻撃、1250もの首をあげる大勝となった。

これにより岩倉織田家は崩壊、翌年の岩倉城の戦で滅亡、織田信長尾張国を統一することになる。
その他