乞われて関東管領となった毘沙門天の化身
上杉謙信うえすぎ けんしん
トップページ 戦国年表 人物 合戦・出来事 国と郡 城・社寺 関連表 用語集 公開記録 参考文献 プロフィール・リンク メール
画像
誕生 1530年2月18日(享禄3年1月21日)
生誕地 越後国 春日山城
実父:長尾為景、養父:上杉憲政
青岩院(虎御前・長尾房景の娘)(長尾顕吉の娘とも)
虎千代(幼名)、喜平次、長尾景虎、上杉政虎、輝虎、不識庵謙信など
官名 従五位下、弾正少弼
幕職 越後守護代、関東管領
近親など 正妻:なし
実子:なし
兄:長尾晴景
姉:仙洞院
養子:上杉景勝(姉、仙洞院の子)・上杉景虎北条氏康の子)
ゆかりの地  越後国 栃尾城
 越後国 春日山城
 信濃国 川中島の戦場
略歴
●越後守護代家
1530年 1歳 越後国守護代で、春日山城主の長尾為景の子として生まれる
●仏門
1536年 7歳 父、長尾為景が隠居し兄の長尾晴景が家督を継いだため、春日山城下の林泉寺に入門、天室光育に師事
1543年 13歳 父、長尾為景が死去
●栃尾城主
14歳 守護代となった兄、長尾晴景を不服とする勢力に担がれ元服し、越後国栃尾城主に
1544年 15歳 反長尾派の豪族連合に栃尾城を攻められるが撃退。名声があがる(栃尾城の戦)
1545年 16歳 黒滝城主の黒田秀忠が謀反を起こすが、これを平定
1546年 17歳 黒田秀忠が再び謀反を起こすが、再度平定に成功、黒田秀忠を誅する
●長尾家相続
1548年 19歳 景虎を守護代に推そうとする勢力と、兄、晴景を担ぐ勢力が対立
越後国守護の上杉定実の仲介により兄、長尾晴景が隠居したことから、長尾家を継ぎ、越後国守護代に
春日山城に入城
●越後平定
1550年 21歳 越後国守護の上杉定実が死没。これにより、越後国主に
1551年 22歳 景虎の家督相続に異を唱えて反抗していた上田長尾家の長尾房景、長尾政景父子を降伏させ、越後国を平定
1552年 23歳 北条氏康上野国から追われた関東管領上杉憲政に頼られる
●川中島
1553年 24歳 甲斐国武田晴信(信玄)に追われた北信濃の村上義清らの要請を受けて出兵し、第一次川中島の戦で信玄と対峙
上洛し、後奈良天皇や将軍、足利義輝に拝謁
1554年 25歳 北条城主の北条高広が武田家に通じ謀反を起こす
1555年 26歳 北条城を攻め、北条高広を降し帰参を許す
第二次川中島の戦武田晴信(信玄)と対峙するが、決着はつかず
1556年 27歳 出家を決意し高野山へ向かうが、家臣に説得されて実現せず
1557年 28歳  第三次川中島の戦
1559年 30歳 二度目の上洛
●越山(永禄3年)
1560年 31歳 北条氏康に追われた関東管領上杉憲政の要請を受け関東へ出兵(越山)し、上野国の要衝で、北条家に奪われていた厩橋城(前橋城)を攻め落とす
1561年 32歳 10万の大軍で小田原城の北条攻めを行うも不首尾。(小田原城攻め(上杉謙信)
鎌倉の鶴岡八幡宮において上杉憲政から関東管領を相続し、長尾景虎から上杉政虎に改名し、その後帰国
第四次川中島の戦
将軍足利義輝から偏諱を受け、輝虎に改名
●越山(永禄4年)
関東へ出兵
1562年 33歳 武田家・北条家方である上野国館林城を攻め落とし、下野国唐沢山城を攻めるが落とせず帰国
越中国へ出兵
●越山(永禄5年)
岩付城主、太田資正の要請により関東へ出兵
1563年 34歳 北条家・武田家5万の連合軍に攻められていた太田資正の属城、武蔵松山城の救援に赴くが間に合わず、北条方となっていた武蔵国騎西城忍城下総国関宿城、古河城を攻め奪回
下野国小山城を攻め落とし、唐沢山城佐野昌綱を降伏させて帰国
●越山(永禄6年)
倉賀野城主、倉賀野直行の要請により関東へ出兵
武田方となっていた上野国和田城(のちの高崎城)攻めを行う
1564年 35歳 国府台合戦(第二次)で、上杉方の里見義弘が北条家に大敗
佐竹義昭の要請により、常陸国小田城を攻め落とし帰国
第五次川中島の戦
●越山(永禄7年)
関東へ出兵し、再び北条家についた唐沢山城佐野昌綱を攻め降伏させる
再び上野国和田城(のちの高崎城)を攻めるが落とせず帰国
長尾政景が事故死。政景の子で甥の喜平次(上杉景勝)を養子に
●越山(永禄8年)
1565年 36歳 関東へ出兵
1566年 37歳 小田氏治に奪回されていた常陸国小田城を攻め、降伏させる
下総国臼井城生実城を攻めるが、北条氏康千葉胤富の援軍に大敗し帰国。この大敗により、関東諸豪の人心が離脱
●越山(永禄9年)
関東へ出兵
1567年 38歳 再び北条家についた唐沢山城佐野昌綱を攻める
家臣で上野国厩橋城代の北条高広が再び離反、今度は北条家に寝返る
敵対勢力の相甲駿三国同盟が破綻
1568年 39歳 離反し武田信玄一向一揆と結んだ越中国神保長職富山城や、椎名康胤の松倉城を攻め落とす
家臣で本庄城(村上城)主の本庄繁長が、武田信玄に調略により離反したため、これを攻める
1569年 40歳 本庄繁長を攻め、降伏させる
椎名康胤討伐のため、越中国へ出陣
●越山(永禄12年)・相越同盟
関東へ出兵し、甲斐国武田信玄に備えるために、相模国北条氏康と姻戚関係を結ぶ
北条高広を許し帰参させる
1570年 41歳 北条氏康と同盟(相越同盟)
氏康の子、北条氏秀を養子とし、自分の初名でもあった景虎(上杉景虎)と名づけ帰国
●越山(元亀元年)
武田信玄上野国厩橋城(前橋城)攻めを行うとの情報を受け、関東へ出兵するが、その後帰国
法号、謙信を名乗る
1571年 42歳 北条氏康の死により相越同盟は破棄となり、今度は尾張国織田信長と同盟を結び武田信玄に備える
    ●越山(元亀2年)
1572年 43歳 武田方の上野国石倉城(厩橋城の前身)を攻め落とす
その後、武田・北条連合と対峙するが、戦にはならず帰国(利根川の対陣)
越中国へ出陣し、富山城一向一揆勢を攻める
●信玄の死
1573年 44歳 越中国へ出陣し一向一揆の掃討戦を行い、椎名康胤を降伏させる
椎名康胤が再び離反したことから越中国へ出陣し、富山城を再度攻める
武田信玄の死により武田の脅威が薄れる
椎名康胤や神保長職を攻めて越中国を平定
加賀国朝日山城の一向一揆を攻めるが苦戦
●越山(天正2年冬)
1574年 45歳 上野国に侵攻してきた北条氏政へ備えるため関東へ出兵し、北条方の上野国金山城由良成繁や、武蔵国鉢形城忍城騎西城などを攻め帰国
●越山(天正2年秋)
関東へ出兵し、遠距離にあるため救援が難しい武蔵国羽生城を破却、騎西城を攻め帰国
●信長包囲網
1576年 47歳 対立してきた本願寺の顕如一向一揆)と和睦
信玄の後継者、武田勝頼と和睦
織田信長との同盟を破棄し、反織田同盟の旗頭に
神保家を攻め、越中国を平定
能登国へ侵攻し、畠山家の七尾城を包囲。(七尾城の戦(第一次))
北条氏政に備えるため春日山城へ帰還
1577年 48歳 再び七尾城を攻め、能登国を平定(七尾城の戦(第二次))
手取川の戦で、織田方の柴田勝家に勝利
春日山城に帰還し、大遠征(上洛・織田攻め)の準備に入る
1578年 49歳 春日山城にて急死
死没 1578年4月19日(天正6年3月13日) (享年49歳)
レクイエム 辞世は「極楽も地獄も先は有明の月の心に懸かる雲なし」

遺言を残さなかったことから、死後はふたりの養子の後継争い、御館の乱が起こり、上杉景勝上杉景虎に勝利し、家督を継いだ。

自らを武神のひとりである毘沙門天の生まれ変わりと信じていたという。

文字通り生涯のライバル武田信玄との5度に渡る川中島の戦は、とうとう決着しなかった。

村上義清や管領上杉憲政の要請に応えたのをはじめ、北条家や武田家へ対抗するための関東への出陣(越山)は12度にのぼる。

敵の武田方に塩を送るなど義を重んじ、自らの野望のための戦いは起こさなかった。

若い頃から酒豪で知られ、死因は脳卒中だったといわれている。

1