40年以上つとめた関東管領職
上杉顕定うえすぎ あきさだ
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画像  
誕生 1454年(享徳3年)
生誕地  
実父:上杉房定、養父:上杉房顕
 
龍若、四郎、顕定、可諄
官名
近親など 正妻:上杉憲実の娘
兄:上杉定正
弟:上杉房能
養子:上杉顕実、上杉憲房
ゆかりの地  上野国 平井城
 上野国 平井金山城
 武蔵国 鉢形城
略歴
●越後上杉家
1454年 1歳 越後上杉家当主、上杉房定の子として生まれる
●享徳の乱
関東管領の上杉憲忠が、鎌倉公方の足利成氏に謀殺される
これにより、関東管領の山内上杉家と分流の扇谷上杉家は、鎌倉公方家と敵対関係となり、関東の諸豪を巻き込んでの戦乱状態に。(30年に渡る享徳の乱の始まり)
●関東管領
1466年 13歳 関東管領の山内上杉家当主、上杉房顕が武蔵国五十子で病死すると、幕府の命令により山内上杉家を相続し関東管領となり、平井城に入城
詰の城として平井金山城を築城
1473年 20歳 扇谷上杉政真の武蔵国の拠点、五十子城が古河公方勢に攻められ、上杉政真が戦死。(五十子の戦)
これにより、兄、上杉定正が家督を相続
●長尾景春の乱
1476年 23歳 重臣、長尾景春が反乱を起こし五十子城を攻撃され大敗し、上野国へ逃亡
上杉定正の家宰、太田道灌が長尾景春勢を駆逐し、危機を逃れる
これにより太田道灌の声望が高まる
1478年 25歳 太田道灌が攻め落とした武蔵国の堅城、鉢形城を居城に
1482年 29歳 単独で古河公方と和睦するが、扇谷上杉定正はこれに不満を持ち、両上杉家が対立。(享徳の乱の終結)
●長享の乱
1486年 33歳 扇谷上杉定正、家宰の太田道灌相模国糟谷館に招いて謀殺。
(道灌の名声によって扇谷家が山内家をしのぐ存在になるのを恐れた顕定が、定正をそそのかした、という説もあり)
これにより、道灌の子、太田資康や有力家臣が離反し、山内上杉家に主家を変える。(長享の乱の始まり)
1488年 35歳 相模国の三浦家に入っていた三浦高救が、扇谷上杉家の家督を狙って対立
これらを受けて、扇谷上杉定正は旧敵である古河公方や長尾景春を味方につける
扇谷上杉定正の居館、糟谷館攻撃に向かうが、郊外の実蒔原で奇襲を受け敗退。(実蒔原の戦)
扇谷上杉定正河越城を攻撃するが、長尾景春らの加勢に合い須賀谷原で敗退。(須賀谷原の戦)
扇谷上杉定正鉢形城攻撃に来襲するところを高見原で迎撃するが敗退。(高見原の戦)
長享の3戦にことごとく敗北したが、その後も関東管領である山内上杉家に味方する勢力は多く優勢を保つ
1489年 36歳 扇谷上杉定正、味方だった古河公方と不和に
●早雲
1493年 40歳 伊勢宗瑞(北条早雲)堀越公方家の家督争い(豆州騒動)に乗じ、当主である足利茶々丸堀越御所に攻める。(伊豆討入り
その後、扇谷上杉定正伊勢宗瑞(北条早雲)と同盟
1494年 41歳 古河公方と結ぶ
扇谷上杉定正伊勢宗瑞(北条早雲)とともに武蔵国高見原に出陣してくるが、扇谷上杉定正が落馬し死没。これにより、扇谷・伊勢勢は相模国へ向けて退却
●攻勢
1496年 43歳 相模国へ進攻、伊勢宗瑞(北条早雲)の弟、伊勢弥二郎が入城していた小田原城を攻め落とす
実田要害(真田城)を攻める
1497年 44歳 扇谷上杉朝良の河越城攻めの拠点として、武蔵国上戸に陣を構えて古河公方、足利政氏を招き入れる
1504年 51歳 駿河国守護、今川氏親伊勢宗瑞(北条早雲)の援軍を得た扇谷上杉朝良と、武蔵国立河原で戦うが2千以上の死者を出す大敗。(立河原の戦)
1505年 52歳 実家の越後上杉家の援軍を得、 扇谷上杉朝良の河越城を攻略
1507年 54歳 扇谷上杉朝良が江戸城に隠居することを条件に、両上杉家が和睦。(長享の乱の終結)
●越後介入
1509年 56歳 越後国の守護代、長尾為景の謀反を受け、実家の越後上杉家への援軍のために越後国へ入り長尾為景とその傀儡守護、上杉定実を攻めて追う
その後、越後国での内政に失敗し、国人たちの反感を買うようになり、長尾為景の攻勢を受けるように
1510年 57歳 越後国からの撤退途上、長尾為景の叔父、高梨政盛に攻められ自害。(長森原の戦)
死没 1510年7月25日(永正7年6月20日) (享年57歳)
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