信玄が初めて喫した大敗
上田原の戦うえだはらのたたかい
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西暦 1548年
和暦 天文17年2月
関連する場所  信濃国 上田城
略図
概要 ●新国主
天文10年(1541年)に父で甲斐国主だった武田信虎をクーデターにより駿河国へ追い、新国主となった武田晴信(信玄)は、信濃国への侵攻を開始、天文16年(1547年)までの6年間で、諏訪、佐久、上伊那を平定した。

●村上義清
武田晴信(信玄)が次に狙いをつけたのは、埴科、高井、小県、水内など北信濃を勢力下に置く大領主で葛尾城主の村上義清であった。

●千曲川
天文17年(1548年)2月、武田晴信(信玄)は5000の兵力で北信濃攻略に向かうと、板垣信方が城代をつとめる諏訪の上原城に入り、当地の兵を合わせ8000の兵で大門峠を越え小県に入っていった。

武田勢来るの報に村上義清は、主城の葛尾城や支城の戸石城を中心に5000の兵を集め、葛尾城の南部の上田原に陣を敷き、千曲川の支流、産川を挟んで武田勢を迎え討った。

●逆転
戦いは武田勢が優勢のまま展開されたが、先鋒をつとめた板垣信方が敵前で首実検を行うという暴挙に出たことからその隙を村上勢につかれ、板垣信方はあっけなく戦死。先鋒が崩れた武田勢は体勢を立て直せぬまま劣勢となり、武田晴信(信玄)も2箇所に傷を受けるほどの危機となったが、内藤昌秀、馬場信春、小山田信有などがこれを救助し難を逃れた。

この戦で武田晴信(信玄)は、板垣信方をはじめ700もの兵を討たれたばかりでなく、晴信(信玄)をかばった重臣の甘利虎泰や初鹿野伝右衛門も失うという大敗となった。

●残留
しかし武田晴信(信玄)は、北信濃侵略をあきらめきれず、20日以上も当地に留まり機会を伺っていたため、兵たちの嫌戦気分は高まり、生母である大井の方の説得により、やっと甲斐国へ戻ることを決めた。

この戦により、信濃国小笠原長時など国人衆は結束を固め、武田に支配されていた諏訪衆も離反を決めるなど、周囲に大きな影響を残すことになった。