大器がゆえに攻め殺された信長の甥
津田信澄つだ のぶすみ
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誕生 1555年(弘治元年)
生誕地  
実父:織田信行 養父:磯野員昌
 
幼名 御坊丸
津田七兵衛信澄
官名  
近親など 正妻:明智光秀の娘
子:織田昌澄など
伯父:織田信長
ゆかりの地  近江国 大溝城
略歴 ●信長の甥
1555年 (1歳)
織田信長の弟、織田信行の子として生まれる。

1557年 (3歳)
父、織田信行織田信長に謀反を計画するが発覚し、殺害される。

信澄は信長の生母の土田御前のとりなしにより助命され、柴田勝家に預けられる。

●津田
津田姓を名乗る。

その後、元浅井家家臣の磯野員昌に養育される。

●大溝城主
1578年 (24歳)
磯野員昌が没収された近江国高島郡を拝領し大溝城主に。

1582年 (26歳)
明智光秀の謀反(本能寺の変)の際、四国攻めの準備のため大坂にいたが、明智光秀の娘を妻にしていたために、羽柴(豊臣)秀吉方についた織田信孝丹羽長秀に攻め討たれる。
死没 1582年6月5日(天正10年6月24日) (享年26歳)
レクイエム 謀反を起こした弟の子ながら信長の待遇がよかったのは、それだけ信頼されていた証であり、武勇にも智謀にも長けていた。

殺害された理由に、その大器ゆえに、生かしておくと将来の天下取りに支障があると秀吉が警戒したため、という、まことしやかな説もある。