足軽から関白まで登りつめた苦労人
豊臣秀吉とよとみ ひでよし
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誕生 1537年3月17日(天文6年2月6日)
生誕地 尾張国 中村
木下弥右衛門
仲(大政所)
幼名 日吉
木下藤吉郎 羽柴秀吉 藤原秀吉 豊臣秀吉など
官名 従五位下、筑前守、左近衛少将、従四位下、参議、従三位、権大納言、正二位、内大臣、従一位、関白、従一位、太政大臣、太閤、贈正一位など
通称 猿、筑前、太閤殿下など
近親など 正室:ねね(北政所・高台院
側室:京極竜子(松の丸殿)、淀殿(茶々)、など多数
姉:とも(日秀)
弟:豊臣秀長
妹:旭姫(佐治日向守正室・徳川家康正室)
子:捨丸(早世)、拾(豊臣秀頼
養子:羽柴秀勝(信長の四男)、豊臣秀次(姉の子)、羽柴(結城)秀康(徳川家康の次男)、豊臣秀勝(姉の子)、豪姫前田利家の四女)など
ゆかりの地  美濃国 墨俣城
 近江国 長浜城
 播磨国 姫路城
 山城国 山崎城
 摂津国 大坂城
GOOGLE MAP 山城国 聚楽第
 山城国 淀城(古城)
GOOGLE MAP 山城国 伏見城(指月山)
GOOGLE MAP 山城国 伏見城(木幡山)
 肥前国 名護屋城
 山城国 北野天満宮
 山城国 醍醐寺三宝院
略歴 ●尾張
1537年 (1歳)
尾張国の商人(異説あり)、木下弥右衛門の子として生まれる。

●信長への随身
1554年頃 (18歳)
様々な職を転々としたあと、尾張国織田信長に仕える。

その後頭角をあらわし、組頭、足軽大将と次々に出世。

1561年 (25歳)
ねね(北政所・高台院)と結婚。

●美濃攻略
1566年 (30歳)
墨俣城を短期間で築城し、美濃攻めの足掛りを作る。

1567年 (31歳)
安藤守就氏家ト全稲葉一鉄の西美濃三人衆の誘降に成功。

美濃国斎藤龍興攻め(稲葉山城攻め)で活躍。

美濃国竹中半兵衛を軍師に迎える。

●上洛
1568年 (32歳)
信長の上洛戦に従軍。

1569年 (33歳)
但馬国此隅山城主、山名祐豊を攻め降し、但馬国を平定。

●北近江・越前攻め
1570年 (34歳)
越前国征伐に参陣するが、近江国浅井長政の裏切りにあい退却戦の殿軍をつとめる。(金ヶ崎の退き口

姉川の戦に参陣。

その後、小谷城への抑えとして築城された横山城に入り、対浅井家の最前線を任せられる。

この頃、羽柴姓を名乗る。

●長浜城主
1573年 (37歳)
一乗谷攻めに従軍。

小谷城の戦での浅井長政攻めで貢献。

その功により、浅井家の旧領(近江国3郡=伊香郡、坂田郡、浅井郡)12万石と小谷城を与えられる。

第二次伊勢長島攻めに参陣。

1575年 (39歳)
琵琶湖畔の今浜に新城を築いて移り、地名を長浜に。(長浜城

1577年 (41歳)
北陸方面軍の柴田勝家の応援を命じられ赴くが、勝家と意見が合わず独断で引き上げて、信長の怒りをかう。

許され、信貴山城の戦に参陣。

●中国方面司令官
織田家の中国方面司令官に。

播磨国黒田官兵衛を配下に入れ、その居城姫路城に入城し、毛利家と対峙。

1578年 (42歳)
播磨国、上月城の尼子勝久の救援要請にこたえられず、見殺しに。(上月城の戦)

1579年 (43歳)
別所長治の籠る三木城兵糧攻めを行う。

1580年 (44歳)
三木城別所長治を自害させ、播磨国を平定。

黒田官兵衛から姫路城を譲り受け居城に。

毛利家に寝返った但馬国山名祐豊を攻め、但馬国を平定。

備前国宇喜多直家を織田家に臣従させる。

1581年 (45歳)
吉川経家の籠る、因幡国鳥取城兵糧攻めを行う。

淡路国の岩屋城、由良城を攻略。淡路国を平定。

●信長の死
1582年 (46歳)
清水宗治の籠る備中高松城の水攻めの最中、本能寺の変を知り、主君信長の仇明智光秀を討つことを決意、敵に信長死すの情報を得られる前に毛利家の使僧安国寺恵瓊と和睦交渉を成功させ、京都へ向かう。(中国大返し

摂津国山城国の国境の山崎の戦明智光秀を敗走させる。
この軍功により、織田家での発言力を高め、主導権を握る。

山城国山崎城を居城に。

●勝家との争い
信長の後継を決定する、重臣会議(清洲会議)で、織田家筆頭家老柴田勝家と対立するが、発言権の強い秀吉の案が通る。

1583年 (47歳)
秀吉専横を許せない柴田勝家との戦(賤ヶ岳の戦)では、子飼いの福島正則ら七本槍の活躍もあり勝利。
その際、尾張時代からの親友、前田利家が秀吉方に寝返り、勝家攻めの先鋒をつとめる。

●家康との争い
1584年 (48歳)
小牧・長久手の戦では徳川家康織田信雄と対峙するが、決着がつかず和睦。

家康の二男於義丸を養子に迎え、羽柴秀康と命名。

これにより、実質的な天下人となる。

●関白と全国統一
1585年 (49歳)
摂津国の石山本願寺跡に大坂城を築城し、ここを居城とする。

菊亭晴季の斡旋により、人臣の最高位である関白となる。

この頃、各地で検地(のちに太閤検地と呼ばれる)を始める。

紀伊国の根来衆・雑賀衆を攻め服従させる。(太田城水攻め)

四国攻め長宗我部元親を服従させる。

越中国佐々成政を攻め服従させる。

1586年 (50歳)
太政大臣となり、朝廷から豊臣姓を与えられる。

上杉景勝を上洛させ、臣下に。

徳川家康を上洛させ、臣下に。

1587年 (51歳)
九州攻めで島津家を服従させる。

京都に築城した聚楽第に移り、ここで政務を行うように。

北野大茶会を開催。

1588年 (52歳)
聚楽第に後陽成天皇の行幸を仰ぐ。

海賊禁止令を出す。

刀狩令を出す。

1589年 (53歳)
側室の茶々(淀殿)が、嫡男、(捨丸)を出産。

茶々(淀殿)と鶴丸のために淀古城を修築し与える。

1590年 (54歳)
22万人の大軍で相模国小田原城攻めを行い、北条氏政を自害させ、当主北条氏直を高野山へ追放。

このとき小田原に駆けつけた陸奥国の伊達政宗を臣下に。

奥州仕置を行い、全国を統一。

●斜陽
1591年 (55歳)
嫡男、鶴丸(捨丸)が、幼くして病死。(3歳)

弟で参謀の豊臣秀長が病死。

千利休を切腹させる。

●朝鮮出兵
朝鮮攻めの基地として、肥前国名護屋城を築城。

甥で養子の豊臣秀次に関白を譲って、自身は太閤に。

太閤としての政務のために、山城国に伏見城(指月山)を築城。

1592年〜1597年 (56歳〜61歳)
二度に渡る朝鮮への侵攻(文禄の役慶長の役)も、朝鮮および明の反撃にあい不首尾。

●後継者変更
1593年 (57歳)
側室の淀君が、ふたり目の子、拾(おひろい=豊臣秀頼)を生む。

1595年 (59歳)
甥の元関白、豊臣秀次を切腹させる。(秀次事件

1596年 (60歳)
文禄の大地震で伏見城(指月山)が崩壊。

近くの木幡山に、新たに伏見城(木幡山)を築城。

1597年 (61歳)
バテレン追放令を発令。

外国人を含む26人のキリシタンを処刑。(日本二十六聖人の殉教)

1598年 (62歳)
醍醐寺三宝院で花見を開催。

病に伏し、跡継ぎの豊臣秀頼をくれぐれも頼むと家康や利家に言い残しながら、伏見城にて死没。

辞世は「露と落ち露と消えにし我が身かな浪速のことは夢のまた夢」
死没 1598年9月18日(慶長3年8月18日) (享年62歳)
レクイエム 苦労に明け暮れた前半生、出世を重ね天下人に駆け上り黄金時代を築いた中期、強引な朝鮮戦争や千利休や関白豊臣秀次への切腹命令など暗い話題の多い後半生と、忙しい人生であった。

初めて一城を任された長浜の「長」は、信長の「長」からとって名づけたものであり、秀吉の如才なさを物語っている。