4ヶ月に渡る秀吉の兵糧攻め
鳥取城兵糧攻め
とっとりじょうひょうろうぜめ
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西暦 1581年
和暦 天正9年
略図
場所  因幡国 鳥取城
概要 ●因幡攻略戦
織田信長から中国攻めの総大将を任せらた羽柴(豊臣)秀吉は、1580年に因幡国の名門、山名豊国鳥取城を攻め一旦従属に成功した。

しかし、これに反対する重臣、森下道誉、中村春続らが城主、山名豊国を追放し、1581年2月、石見国福光城主で毛利家配下の吉川経家を城番に迎えることになった。

吉川経家は400の手勢とともに海路を進み、因幡国賀露浜に上陸したが、鳥取城を枕に討ち死にする決意で、自らの首桶を持参の上入城したという。

鳥取城番となった吉川経家は、海賊上がりの部将、奈佐日本之助には海に近い丸山砦の守将を、山賊上がりの塩屋高清には雁金山砦の守将を任せるなど、適材適所の人事を行った。

●干殺し
再度毛利に寝返った鳥取城を攻略するために羽柴(豊臣)秀吉は、前年の播磨国三木城兵糧攻め同様の兵糧攻めを計画、事前に商人を城下に派遣し米を高値で買占めるという周到さを見せた。

姫路城を進発した秀吉は、海上や河川を封鎖し鳥取城への兵糧運搬ルートを封鎖し、7月に鳥取城の東の帝釈山(現在の本陣山)に本陣を据え、2万の大軍で城を囲んだ。

鳥取城内には領民も含む4000が立て篭もったが、約1ヶ月分しかなかった兵糧はまたたくまに底を突いた。

毛利は、海上からの兵糧運搬を試みるが、制海権を秀吉方に奪われており成功しなかった。

4ヶ月後の10月には、城内の草木、小動物、乗馬など食料となるものは全て食べつくされ、死者の肉を奪い合って食する者も出てくる始末であった。

●開城
ここに至って吉川経家は、城兵の開放を条件に切腹する決意を固めるが、羽柴(豊臣)秀吉は地元の人望が落ちることを恐れ、吉川経家には石見国への退却、森下道誉、中村春続、塩屋高清、奈佐日本之助には切腹、という条件を突きつけた。
鳥取城との交渉は、秀吉の部将、堀尾吉晴一柳直末が行った。

交渉の結果、吉川経家の望んだ通り、経家は10月25日に切腹、飢餓が極限に達していた鳥取城は地獄から救われた。

開城後秀吉は、大鍋で炊いた粥を城兵たちに振舞ったが、空腹の上に勢いよく粥を食べたために急死する人も多かったという。

鳥取城の渇殺」(かつえごろし)とも呼ばれる。