徳川260年の礎を作った戦国の覇者
徳川家康とくがわ いえやす
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誕生 1543年1月31日(天文11年12月26日)
生誕地 三河国岡崎
松平広忠
於大の方水野忠政の娘)
width="637">竹千代、松平二郎三郎元信、松平蔵人元康、松平家康、徳川家康
官名 width="637">従五位下、三河守、左京大夫、従五位上、侍従、正五位下、従四位下、
左近衛権中将、従三位、参議、権中納言、正三位、従二位、権大納言、
左近衛権大将、左馬寮御監、正二位、内大臣、従一位、右大臣、
太政大臣、贈正一位
幕職 征夷大将軍、大御所
通称 三河殿、内府、大御所、東照大権現(神号)など
近親など 正妻:築山御前(瀬名姫)(今川義元姪・信康母)
後妻:旭姫(豊臣秀吉妹)
側室:於万の方(秀康母)、西郷局(秀忠母)、阿茶局、陰山殿(頼宣・頼房母)など
子:松平信康結城(羽柴)秀康徳川秀忠松平忠吉松平忠輝、徳川義直、徳川頼宣、徳川頼房など
ゆかりの地  三河国 岡崎城
 遠江国 浜松城
 山城国 伏見城
 摂津国 大坂城
 武蔵国 江戸城
 山城国 二条城
 駿河国 駿府城
略歴
●岡崎
1542年 1歳 三河国岡崎城主、松平広忠の長男として生まれる
●人質生活
1547年 6歳 尾張国の織田家の人質に
1548年 7歳 織田信広との人質交換により、駿河国今川義元の人質に
1549年 8歳 父、松平広忠が家臣に暗殺され(異説有り)、駿府にいながら家督を相続
1557年 16歳  今川義元の姪、瀬名姫(築山御前)と結婚
1558年 17歳 初陣(寺部攻め)
●三河への帰還と信長との同盟
1560年 19歳 今川義元の上洛戦では先鋒として岡崎衆を率い、大高城への兵糧入れに成功するなど活躍
今川義元桶狭間の戦織田信長に討たれたのをきっかけに、故郷の岡崎城に入城
その後も織田信長と対立
1562年 21歳 伯父、水野信元の斡旋により織田信長と和睦、清洲同盟が成立
これにより駿河国の今川家とは敵対関係に
1563年 22歳  「元」の字を返上する意味から、家康と改名 
1564年 23歳 三河国一向一揆が起こり、家臣の多くが離反
1566年 25歳 一向一揆を平定
松平から徳川に改姓
●遠江獲得
1568年 27歳 甲斐国武田信玄と同盟し、今川家を攻め遠江国の大部分を獲得
1569年 28歳 掛川城に入っていた今川氏真を攻め駿河国に追う。(掛川城の戦
武田信玄から一方的に同盟を破棄され、遠江国を攻められたことから武田家と敵対関係に
1570年 29歳 武田家への防衛強化のため、遠江国の引馬城(浜松城)に居城を移す
織田信長に従い、越前国朝倉義景攻めに向かうが浅井長政の裏切りにあい退却(金ヶ崎の退き口
姉川の戦では、織田信長の危機を救うなどの功をたてる
●大敗と大勝
1572年 31歳 長年の強敵武田信玄上洛戦途上、三方ヶ原の戦で大敗
1573年 32歳 武田信玄の死により、危機を回避
1574年 33歳 武田勝頼に、遠江国の要衝、高天神城を奪われる(高天神城の戦(第一次)
1575年 34歳 武田勝頼に、三河国北部(奥三河)の長篠城を攻められるが、信長の協力のもと長篠の戦で破る
遠江国諏訪原城を攻略
遠江国二俣城を攻略
1576年 35歳 遠江国犬居城を攻略
●嫡男殺害
1579年 38歳 正室の築山御前と嫡男の松平信康が武田家と内通しているとのことから、ふたりの処刑を信長から命令され、築山御前を護送途中に暗殺させ、松平信康を切腹させる(信康事件
●遠江回復と駿河獲得
1581年 40歳 武田勝頼に奪われていた、高天神城を攻め奪回
1582年 41歳 織田信長に従い武田勝頼攻め(天目山の戦)に参陣
穴山梅雪の誘降に成功し駿河国へ侵攻、依田信蕃の籠る田中城を攻略
武田家旧領、駿河国を加増される
●信長の死
穴山梅雪を伴い安土城織田信長を表敬訪問
本能寺の変で信長が討ち死に
少人数で和泉国堺を観光中だったが、茶屋清延らの協力の元、伊賀国経由で三河国へ無事帰国(神君伊賀越え)
●甲斐・信濃の併呑
この後、天正壬午の乱北条氏直と争ったあと和睦。これにより武田家旧領の甲斐国信濃国に進出し、その大部分を所領に
●秀吉との争い
1584年 43歳 信長の二男織田信雄の要請を受け、羽柴(豊臣)秀吉小牧・長久手の戦を起こすも決着せず和睦
二男、於義丸(結城秀康(羽柴秀康))を秀吉の養子に送り込む
その後、羽柴(豊臣)秀吉からの再三の上洛命令を拒否
1585年 44歳 羽柴(豊臣)秀吉が関白となる
1586年 45歳 豊臣秀吉の妹、旭姫と再婚
豊臣秀吉が、実母大政所を家康の岡崎城に送り込む。 この秀吉の実質的な人質策により、大坂城に伺候し豊臣秀吉の臣下に
●関東
1590年 49歳 小田原城攻め
秀吉からの関東約255万石への移封命令に従い、武蔵国江戸城を居城とする
その後の豊臣政権では、五大老の筆頭として活躍
1592年〜1597年 51歳〜56歳 二度に渡る朝鮮への侵攻(文禄の役慶長の役)では渡海せず、肥前国 名護屋城に留まる
●天下人
1598年 57歳 豊臣秀吉死没
1599年 58歳 秀吉の遺命に背き、豊臣家の譜代大名らとの婚姻関係を次々と結ぶ
これらについて、前田利家石田三成らから糾弾を受けたことから対立
敵対していた前田利家が病没
武断派七将による、石田三成襲撃未遂事件が発生、石田三成は失脚
伏見城へ入城し政務を行う
秀吉の遺命に背き、伏見城から大坂城西の丸に移り政務を行う
前田利長らによる、家康暗殺未遂事件
これを受け加賀国の前田攻めを計画するが、前田利長の母、芳春院(まつ)が人質として江戸に下ることで解決(これにより前田家は徳川家の配下に)
この後、各地の大名に対する加増などを断行し、多数派工作を露骨化させる
●関ヶ原へ
1600年 59歳 上杉景勝の謀反を口実に、諸将を率いて会津攻めに向かう
大坂において、反家康派である石田三成小西行長らが毛利輝元を総大将に担ぎ、旗揚げ
家臣の鳥居元忠の守る伏見城が西軍に攻められ落城
小山会議で、大坂へ引き返すことを決定
関ヶ原の戦で西軍に勝利、天下人に
1603年 62歳 武蔵国江戸に幕府を開き、伏見城において征夷大将軍の宣旨を受ける
●大御所
1605年 64歳 徳川秀忠征夷大将軍職を譲り、大御所となる
1607年 66歳 江戸城から、駿河国駿府城に移る
1610年 67歳 渡海朱印状を角倉了以らに与える
1611年 70歳 二条城豊臣秀頼と会見
1612年 71歳 岡本大八事件が起こり、大八を処刑
キリスト教禁止令を出す
●豊臣滅亡作戦
1614年 73歳 金地院崇伝の草案による方広寺鐘銘事件を起こす
大坂冬の陣
1615年 74歳 豊臣家(豊臣秀頼)を攻め滅ぼす。(大坂夏の陣
    一国一城令を発令
1616年 75歳 死没
死没 1616年5月22日(元和2年4月17日) (享年75歳)
レクイエム 徳川家を中心とした武家による260年の幕藩体制と、戦の幟に記してきた「厭離穢土・欣求浄土」(戦のない平和な世の中)を実現させた。