村上義清が信玄に連勝
戸石崩れといしくずれ
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西暦 1550年
和暦 天文19年10月
関連する場所  信濃国 林城(小笠原長時の居城)
 信濃国 村井城(信玄が築城した前線基地)
 信濃国 深志城(小笠原長時の支城→信玄の前線基地)(松本城
 信濃国 葛尾城(村上義清の居城)
 信濃国 戸石城(村上義清の支城)
 信濃国 上原城(信玄の諏訪の拠点)
写真
戸石城の遠望
略図
概要 ●深志城
上田原の戦塩尻峠の戦と、信濃国をめぐる戦に一進一退を繰り返していた武田晴信(信玄)は、天文19年(1550年)7月、2年前に北信濃平定の前線基地として築いた村井城に入ると、信濃国守護小笠原長時林城(大城)を攻め落とした。
長時は北信濃の実力者である村上義清を頼って、葛尾城へと逃亡した。

信玄はさらに北上し、林城の支城であった深志城(後の松本城)に入り、馬場信春を城代に据えた。ここを拠点に、いよいよ北信濃の攻略に乗り出すためであった。

●戸石城
その夏信玄は、葛尾城の村上義清が中野の領主高梨政頼との対峙から、葛尾城を動けずにいる隙を突いて、義清の支城で要害の山城、戸石城攻撃を計画した。

信玄は諏訪から進発し、7000の軍勢で戸石城を包囲すると、9月9日に総攻撃を開始した。
わずか5百の兵が守備する戸石城ではあったが、さすがに要害だけあって1週間に及ぶ攻防も決着を見なかった。

●義清後詰
事態は思わぬ展開を見せた。
村上義清が、争っていた高梨政頼との和睦を果たし背後の憂いを除くと、突如戸石城の救援に向かってきたのである。その数2000ではあるが、腹背に敵を迎える武田勢の不利は否めなかった。

村上義清来るの報を受けた信玄は戸石城の攻略をあせるが、10月1日、とうとう撤退を決意した。
その武田勢を背後から追撃した村上義清は、殿軍をつとめた信玄の重臣、横田高松を討ち取る。

信玄は長駆、諏訪の上原城まで逃げ延びたが、結局1000もの兵を討たれる大敗となった。

2年前の上田原の戦に次ぎ、村上義清は対信玄2連勝をおさめた。

●その後
武田晴信(信玄)が最後まで落とせなかった難攻不落の戸石城は、信玄の家臣、真田幸隆の調略により、翌年武田家が手中にすることになる。