信長横死後に起こった甲斐と信濃の奪い合い
天正壬午の乱てんしょうじんごのらん
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西暦 1582年
和暦 天正10年7月〜10月
周辺図
信濃


甲斐
関連する場所  甲斐国 新府城
 信濃国 松本城(深志城)
 信濃国 小諸城
概要 ●本能寺の変
1582年6月2日の本能寺の変により織田信長が倒れると、信長の支配下に入っていた東国にも大きな動きが出てきた。

特に武田家の遺領である甲斐国信濃国、それに上野国では、周辺の有力大名たちによる争奪戦が繰り広げられた。この一連の動きが天正壬午の乱と呼ばれている。

●上野国を北条が掌握
以前から関東の北条家と越後国の上杉家が争っていた上野国は、武田家を滅亡に追い込んだ功から信長の関東方面司令官滝川一益が統治を始めていたが、これに襲い掛かったのは北条家であった。

北条氏直神流川の戦滝川一益に勝利し追いやると、以前から敵対関係にあった沼田城真田昌幸を服属させ、その勢いを駆って西進、碓氷峠を越え信濃国の佐久へ進出。

●信濃国から森長可が逃亡
信濃国の4郡(更級、高井、水内、埴科)を与えられ、海津城(松代城)主となっていた信長の家臣森長可も、国内に起こった一揆に攻められ美濃国へと逃亡していた。

●甲斐国の河尻秀隆が討ち死に
甲斐国でも一揆が起こり、河尻秀隆はその混乱の中で討ち死にする始末。

●家康の動き
これより先徳川家康は、本能寺の変の直後、伊賀超えルートと海路を使って三河国岡崎城へ戻ると、明智光秀討伐のため畿内への進軍を始める一方、甲斐国方面への進軍と信濃国方面への進軍を行うという抜け目ない行動を開始していた。

家康自身は京都を目指していたが、途上、山崎の戦羽柴(豊臣)秀吉が光秀に勝利したという報を受けると進路を変更、一旦浜松城へ戻った後北への進軍を開始、南信濃を平定しながら甲斐国へ入り新府城へ入った。

●北条、信濃へ
信濃国の佐久、小県を平定していた北条氏直は、武田家を裏切り織田家に寝返っていた木曾義昌や、家康に服従していた諏訪頼忠の本領を安堵するという条件で勢力下に組み込むなど、信濃国の平定を順調に進めていたが、北から上杉景勝が進出してきたため川中島で対峙した。


●上杉、信濃へ
上杉景勝北条氏直は、先の御館の乱でも敵対関係にあったこともあり、北信濃をめぐる対立は必然的に起こった。

そこに甲斐国新府城にいた徳川家康が、信濃国へ北上する構えを見せた。
腹背に敵を迎える不利を恐れた北条氏直は、信濃国の北4郡(更級、高井、水内、埴科)を明け渡す条件で上杉景勝と和睦し、小諸城へ引き上げた。

●甲斐国をめぐる徳川と北条
信濃国をあきらめた北条氏直は、甲斐国だけは何としても併呑するために、叔父の北条氏規に1万3千をつけて佐久から甲斐国へ向かわせ、自身も八ヶ岳の麓の要衝の地、若神子城に陣を置き、新府城徳川家康と対峙する。(若神子の戦)

一方、駿河国方面からは北条氏尭や北条氏勝を、武蔵国秩父方面からは北条氏邦をそれぞれ動かして、甲斐国の徳川勢殲滅を画策した。

北条氏尭、北条氏忠北条氏勝ら1万の軍勢は、家康の部将鳥居元忠平岩親吉の2千と甲斐国都留の黒駒で戦ったが多勢を活かせず敗北してしまう。(黒駒の戦)

●信濃を追われる北条
この甲斐国での敗北が影響し、北条についていた木曾義昌真田昌幸らが徳川に寝返った。

家康が信濃国へ派遣していた依田信蕃は、小諸城にいた北条方の大道寺政繁を攻め上野国へ追いやる。

家康に服従していた小笠原貞慶は、深志城(松本城)に入り松本平を平定。

このように、信濃国における北条勢は劣勢となった。

●北条と徳川の和睦
さらには、関東では佐竹義重が北条領を伺う気配を見せ始めたため、北条氏直徳川家康と和睦することを決意し、叔父の北条氏規に交渉を命じた。
和睦の条件は、甲斐国信濃国は徳川の切り取り次第、上野国は北条の切り取り次第、家康の娘督姫を北条氏直に嫁がせる、というものであった。

●その後
この後、上野国沼田の地を領する真田昌幸が上記条件を不服とし、上杉と結んで徳川に敵対し、第一次上田城の戦に発展する。

家康としては、信長の跡目を継ぐことが予想される羽柴(豊臣)秀吉といずれ戦うことを想定した場合,、背後の脅威となる北条家との和睦に成功し、さらには従来の三河国遠江国駿河国に加え、甲斐国全てと信濃国の多く(北4郡は上杉領に)を領有できたことや、強兵の武田遺臣を取りこんだことは大きな意義があった。