甲斐武田家滅亡への道
天目山の戦てんもくざんのたたかい
トップページ 戦国年表 人物 合戦・出来事 国と郡 城・社寺 関連表 用語集 公開記録 参考文献 プロフィール・リンク メール
西暦 1582年
和暦 天正10年2月
略図
場所  信濃国 飯田城
 信濃国 大島城
 信濃国 高遠城
 甲斐国 新府城
 甲斐国 景徳院(勝頼自害の地)
 甲斐国 恵林寺
写真
新府城
 

景徳院(勝頼夫妻の墓所)


恵林寺
概要 ●武田家の衰退
1575年の長篠の戦で、織田・徳川連合軍に完敗し多くの重臣を失った武田家は、衰退の一途をたどっていた。

その間織田信長は、着々と周囲の敵を蹴散らしながら天下統一への道を進んでいた。

●木曾の寝返り
1582年2月、木曾義昌が、武田勝頼の相次ぐ出兵命令や新府城築城費用の強要に対する不満から、信長の嫡男織田信忠に対し、自分の弟、植松義豊を人質として差し出し寝返った。

武田勝頼はただちに武田信豊の5千を先鋒として木曾討伐に向かわせ、義昌の老母や子らを処刑したのち、1万5千の軍勢を率いて出陣した。

●信長出陣
これを知った織田信長も、武田家の息の根を止めるチャンスとばかりに出陣を決意。
信長の嫡男織田信忠は伊那谷から、徳川家康は駿河方面から、金森長近には飛騨から、さらには武田家と関係の悪化していた北条氏政も関東から侵攻を開始した。
この連合軍は総勢18万にのぼったといわれる。

武田勝頼は鳥居峠で木曾勢と戦うが織田勢の援軍を受けた木曾義昌に敗北、諏訪から新府城へ退却した。
木曾義昌はその勢いを駆って、信濃国松本平の深志城(のちの松本城)攻めに向かった。

その頃、武田家一門(勝頼の従兄)で駿河国江尻城代の穴山梅雪も武田家を見限り、徳川家康に内通していた。徳川家康は梅雪の案内で甲斐国への侵攻を開始。

一方、伊那谷を北上した織田軍は、瞬く間に保科正俊が入っていた飯田城、武田(逍遥軒)信廉の大島城などを次々と落とし、さらには勝頼の実弟、仁科信盛が入っていた高遠城を包囲した。
高遠城の城兵は果敢に抵抗したが、大手から織田信忠が、搦め手からは森長可河尻秀隆が猛攻撃を開始すると落城、仁科信盛は自害した。

織田信忠は本陣を諏訪に進め、武田家の管理下にあった諏訪大社を焼き討ちした。

●勝頼逃亡開始
勝頼の築いた新府城は、躑躅ヶ崎館よりも防備しやすいことから新たな居城となってはいたが、未完成だったため籠城には耐えられないと判断した武田勝頼は、盛信の死を知ると、真田昌幸の居城、上野国岩櫃城へ逃れることを決意した。

この時点で武田勝頼は、信濃国のみならず、甲斐国さえもあきらめて上野国での再起を決意したわけである。

●小山田の寝返り
しかし家臣の小山田信茂が、自城で難攻不落の岩殿山城への退却を薦めたことから方針を転換。やはりまだ甲斐国への未練があったのであろう。
しかしこれが命取りとなった。
新府城を焼き落とした武田勝頼は、郡内地方の要害、岩殿山城へ向かう途中の笹子峠で、味方であるはずの小山田方から思わぬ発砲を受ける。小山田信茂の裏切りであった。

武田勝頼一行は進退極まり、天目山に向かうことになった。
その間家臣の中から逃亡兵が続出、新府城を出たとき5百ほどだった人数はわずか44人の兵と23人の婦女子となっていた。

●田野
そして追手の先鋒滝川一益が迫ってくるのを知った武田勝頼は、天目山麓の田野で妻子や重臣の長坂長閑斎らとともに自害し、武田家は滅亡した。

勝頼夫妻らの墓は、景徳院にある。

●心頭減却すれば火も自ずから涼し
織田信長美濃国岩村城に滞在しており、戦が終わってから甲斐国に入り、武田家ゆかりの恵林寺では、匿っている者どもを引き渡すように命じたものの快川和尚に拒否されたことから、快川和尚を初めとする100人ほどの僧侶を焼き討ちにした。
「心頭減却すれば火も自ずから涼し」という快川和尚の言葉はこのときのものである。

●論功と処分
小山田信茂は主君を裏切った罪科を織田信忠に咎められ、甲斐国善光寺で処刑された。
穴山梅雪は早い段階での内訌が幸いし、本領を安堵された。
木曾義昌に至っては、本領安堵に加え、筑摩郡と安曇郡を加増された。

●遺領分配
武田家の遺領は、戦後次のように配された。

甲斐国:河尻秀隆
駿河国:徳川家康
上野国:滝川一益

信濃国は郡毎に分配。
小県郡・佐久郡:滝川一益
諏訪郡:河尻秀隆
筑摩郡・安曇郡:木曾義昌(前出)
高井郡・水内郡・更科郡・埴科郡:森長可
伊那郡:毛利長秀