父子相克の伊達家お家騒動
天文の乱てんぶんのらん
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西暦 1542年
和暦 天文11年
周辺図
関連する場所  陸奥国磐城 桑折西山城
概要 ●伊達殖宗
陸奥の戦国大名、伊達殖宗は1522年、念願だった陸奥国守護を拝命、居城を梁川城から西の桑折西山城に移しし、塵芥集という分国法を制定するなど、伊達家発展の基盤を着々と構築していた。

1542年殖宗は、嫡子のいない越後国守護上杉定実の元へ三男の伊達実元を養子に送りこもうとした。
このように縁戚関係による巧みな外交戦略が、殖宗の得意とするところであった。

●越後の反対分子
この養子戦略は、越後国北部の国人(揚北衆)である本庄房長らの反発を招いた。乱自体は早々に鎮圧されたものの、伊達殖宗は越後国内にくすぶる反対派に対抗できるように有力な家臣を100名選び、越後国へ向かう実元に随行させることを決めた。

●伊達晴宗の反対
ところが、これに反対したのが、嫡子伊達晴宗である。国内の軍事力の低下を恐れたこともあるが、越後国への介入が伊達家にとって意味のないことであると判断したのであろう。

伊達晴宗は重臣たちと謀って、父、稙宗をその居城である桑折西山城に幽閉するが、間もなく脱出した稙宗は三男の伊達実元や会津の蘆名盛氏を初めとする国人たちを味方に引き入れ、晴宗勢と真っ向から対立した。

●和睦
この父子による対立は結局6年間続き、当初優勢だった父の稙宗側が味方していた国人たちの寝返りなどにより弱体化し、最終的には1548年、将軍足利義輝の停戦令により和睦した。伊達稙宗が隠居して、伊達晴宗に家督を譲ることがその条件であった。
その他 伊達殖宗は伊達政宗の曽祖父、伊達晴宗は政宗の祖父である。

この天文の乱は、洞(うつろ)の乱とも呼ばれており、「洞」とは近隣の地侍や国人たちを取り込み支配する形態のことを指す。

伊達殖宗は守護という立場を利用して、陸奥国における一大「洞」を統括しようとしたのだが、越後国をも取り込もうとした野望は少し大きすぎた。