信長が謙信強しと悟った北陸をめぐる戦い
手取川の戦てとりがわのたたかい
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西暦 1577年
和暦 天正5年9月
場所 GOOGLE MAP 加賀国 手取川戦場
 能登国 七尾城
 加賀国 松任城
周辺図  
概要 ●謙信能登へ
1576年、越後国上杉謙信は、能登国の平定のため2万を率いて春日山城から出陣、能登畠山家の居城、七尾城へ向かった。

●七尾城の戦
当時の畠山家は、当主の畠山義隆の急死により、6歳の春王丸が幼少の身で家督を継いだばかりであり、これを重臣の長続連らが補佐していた。

長続連は、上杉の大軍に備えるため多くの領民を城内に引き入れたが、そのため疫病が流行し、当主の春王丸が病死してしまい、城内は大混乱となった。

籠城による抵抗が難しくなったことから、長続連は誼のあった織田信長に援軍を要請、上杉の南下を恐れていた信長もこれを承諾し、総大将に据えた柴田勝家1万8千に能登遠征を命じ、自らも本隊3万にて出陣した。

しかし、織田の援軍到着を待つ七尾城では、内紛が勃発していた。
かねてから長続連に不満を持っていた、重臣、遊佐続光らが上杉謙信に内通し、織田派の長一族を討ち取ってしまったのである。(七尾城の戦(第二次))

こうして七尾城は上杉方の手に落ちたが、柴田勝家はこれを知らぬまま北上を続けた。

この間、柴田勝家の指揮下に入れられた羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、勝家との意見の相違から、無断で長浜城に戻ってしまうという事件も起きている。

●松任城と手取川
北上してくる柴田勝家の大軍(1万8千)に対応するため、上杉謙信七尾城から出陣、南下し、加賀国の松任城を攻めるが落とせず、一向宗の若林長門守と和睦開城の上、入城した。

松任城の10kmほど南を流れる手取川を渡ったところで柴田勝家はそれを知り、謙信に対しての城攻めは危険と判断し、まずは手取川後方までの撤退を開始した。
これに松任城から打って出た上杉軍が襲い掛かった。

追撃戦は追われる方が不利である。結局柴田勢は手取川での溺死者も相次ぎ、合計2000もの死者を出す大敗を喫し、信長も途中で進軍を止めた。

●謙信勢力拡大
この戦いにより、上杉謙信の勢力範囲は越後国越中国能登国、さらには加賀国の広範囲まで拡大され、翌年の上洛戦を予定したと言われるが、謙信の急死により実現しなかった。
考察 柴田勢の大敗を聞いた信長が、上杉勢の4倍もの兵を率いていながら決戦に向かわず兵を引いた理由だが、間もなく降り出すであろう雪のために、上杉勢は越後国へ一旦帰国するであろうことを確信しており、北陸戦線は越前国の柴田勢ににらませ、その間に、反旗を掲げた信貴山城松永久秀を討つことを優先させたのであろう。