最強騎馬軍団を率いた名武将
武田信玄たけだ しんげん
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誕生 1521年(大永元年)11月
生誕地 甲斐国 積翠寺
武田信虎
大井の方(大井信達の娘)
幼名 太郎
武田晴信(元服名)、信玄(出家後の諱)、法性院(院号)、機山(道号)、徳栄軒など
官名 従五位、下大膳大夫など
幕職 甲斐守護、信濃守護
通称 甲斐の虎など
近親など 正妻:上杉朝興の娘、三条の方(三条公頼の娘)
側室:諏訪御料人諏訪頼重の娘)、禰津御料人、油川婦人など
弟:武田信繁など
子:武田義信、黄梅院(北条氏政正室)、海野信親、武田信之、見性院(穴山梅雪正室)、武田(諏訪)勝頼仁科信盛、葛山信貞、安田信清、信松尼菊姫上杉景勝正室)
ゆかりの地  甲斐国 躑躅ヶ崎館
 信濃国 川中島の戦場
 三河国 野田城
 甲斐国 恵林寺(墓所)
略歴 ●武田家嫡男
1521年 (1歳)
甲斐源氏で甲斐国守護、武田家の嫡男として生まれる。

1533年 (13歳)
扇谷上杉氏当主、上杉朝興の娘と結婚。

1534年 (14歳)
正妻、上杉朝興の娘が難産のため死没。

1536年 (16歳)
元服。

武田家、駿河国の今川家と同盟。

三条の方と再婚。

1537年 (17歳)
父、武田信虎に従い信濃国佐久郡へ初陣。
その際信濃国佐久郡の海ノ口城攻めを単独で行い勝利。

1538年 (18歳)
長男、太郎(武田義信)誕生。

●父の追放
1541年 (21歳)
傅役の板垣信方らと諮って、悪政で名高かった父武田信虎駿河国に追放し、武田家の17代当主に。

●信濃侵攻
1542年 (22歳)
諏訪氏の一族高遠頼継と組んで諏訪頼重を討ち、信濃国諏訪郡を平定。板垣信方を郡代として上原城に入れる。

諏訪頼重の娘(諏訪御料人)を側室に。

領土問題のこじれから、上伊那の高遠城主、高遠頼継と戦い勝利。(安国寺の戦)

1543年 (23歳)
信濃国佐久郡、大井城の大井貞隆を攻めて追う。

1545年 (25歳)
上伊那(伊那郡)の高遠頼継を降伏させる。

上伊那、箕輪城の藤沢頼親を攻め降し、上伊那を平定。

1547年 (27歳)
東信濃平定をめざし佐久郡に侵攻、前山城に上原伊賀守を入れる。

家法(55条)を制定。

信濃国佐久郡、志賀城の笠原清繁上杉憲政の連合軍と戦い勝利。
このとき、降伏してきた佐久勢3千を許さず全員殺害。
これにより佐久郡を平定。(小田井原の戦)

1548年 (28歳)
上田原の戦(小縣郡)で、北信濃の村上義清に敗北し、板垣信方甘利虎泰らを討たれる。

武田軍劣勢に乗じて攻めてきた 守護で林城主の小笠原長時に勝利し押し戻す。(塩尻峠の戦

村井城を築城し、筑摩平定の前進基地に。

1550年 (30歳)
小笠原長時を攻め筑摩郡から追う。

村上義清の戸石城(小縣郡)を攻めるが敗北。(戸石崩れ
殿軍の横田高松が戦死。

1551年 (31歳)
家臣、真田幸隆の謀略が成功し、戸石城を奪う。

1553年 (33歳)
村上義清を居城の葛尾城(更級郡)から追う。(葛尾城攻め)

●謙信との対立
第一次川中島の戦

1554年 (34歳)
越後国長尾景虎(上杉謙信)へ対抗するために、子の武田義信の嫁に駿河国今川義元の娘を迎える。
また娘(黄梅院)を相模国北条氏政に嫁がせ、甲相駿三国同盟を結成させる。

1555年 (35歳)
第二次川中島の戦

木曽福島城の木曾義昌を降伏させる。

信玄家法に2条追加し57条に。

1557年 (37歳)
第三次川中島の戦

1559年 (39歳)
出家し、信玄を名乗る。

高梨政頼の中野城(高井郡)を攻め落とし、信濃国のほとんどを平定。

●領土拡大
1560年 (40歳)
桶狭間の戦織田信長今川義元を討ち取ると、甲相駿三国同盟を破棄し駿河国今川家への侵略を始める。

1561年 (41歳)
越後国長尾景虎(上杉謙信)への備えに、埴科郡に海津城を築城。

第四次川中島の戦で、実弟で副将の武田信繁諸角昌清山本勘助らが戦死。

1564年 (44歳)
第五次川中島の戦

1565年 (45歳)
信玄の駿河国侵攻に反対する嫡男の武田義信とその重臣、飯富虎昌の謀反が発覚。捕らえて幽閉する。(義信事件)

1566年 (46歳)
上野国箕輪城を攻め落とし、西上野を掌握(箕輪城の戦

●嫡男自害
1567年 (47歳)
嫡男の武田義信を自害させる。(義信事件の結末)

1568年 (48歳)
徳川家康との共同作戦で駿河国に侵攻し、今川氏真を攻め掛川城に追い駿河国を一時平定。(駿府攻め

その後今川氏の縁戚である北条氏と、駿河国の薩垂峠で激突。

●北条氏との対立
1569年 (49歳)
徳川家康北条氏康と結んだため、穴山梅雪を横山城に残し兵を退く。

北条氏康上杉謙信と同盟したため、上野国経由で武蔵国相模国へ侵攻。

小田原城を急襲するが落ちず4日で包囲を解き甲斐国へ向かう。(小田原城攻め(武田信玄)

帰路、相模国三増峠の戦武蔵国から攻めてきた北条軍に勝利。
北条氏を駿河国から撤退させるきっかけに。

1570年 (50歳)
北条氏の撤退した駿河国を併合。

このころまでに甲斐国信濃国駿河国の他、上野国遠江国三河国美濃国飛騨国の一部を支配。

●上洛戦
1572年 (52歳)
織田信長の台頭に気を揉んでいた信玄は、足利義昭の呼びかけを受け3万の大軍で上洛戦を開始。

三方ヶ原の戦徳川家康を破り、西へ向かう。

1573年 (53歳)
攻め落とした三河国野田城で持病が悪化し(鉄砲で撃たれたとの異説あり)、進軍を停止。

甲斐国へ戻る途中、信濃国伊那の駒場で無念の死。
死没 1573年(天正元年)4月 (享年53歳)
レクイエム 信玄病死のあと、 武田軍はその死を秘し静かに甲斐国へ帰還していった。

その後の統治は、四男武田(諏訪)勝頼が行うことになる。

孫子の四如(風林火山)を軍旗に印し、自慢の騎馬軍団を率いて戦ってきた信玄であるが、有力国人の集合体に過ぎない国内を長きに渡り統治できたのは、その人物的な魅力や外交手腕によるところが大である。

また、人は石垣、人は城と、歌に残されているように、本拠の府中、躑躅ヶ崎館は一重の堀をめぐらせただけの平城だった。