好戦的な最期の甲斐武田家棟梁
武田勝頼たけだ かつより
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誕生 1546年(天文15年)
生誕地 信濃国 諏訪
武田信玄
諏訪御料人諏訪頼重の娘)
幼名 四郎
諏訪四郎勝頼(元服名)
官名 なし
通称 四郎
近親など 正室:遠山殿(織田信長の養女)、
継室:桂林院北条氏康の娘)
兄:武田義信、海野信親、武田信之
姉:黄梅院北条氏政正室)、見性院(穴山梅雪正室)
弟:仁科信盛、葛山信貞、安田信清
妹:信松尼菊姫
子:武田信勝
ゆかりの地  信濃国 高遠城
 甲斐国 躑躅ケ崎城
 甲斐国 新府城
 甲斐国 景徳院(墓)
略歴 ●諏訪家と武田家の血脈
1546年 (1歳)
甲斐国武田晴信(信玄)の四男として生まれる。

1555年 (10歳)
母、諏訪御料人が死没。

1562年 (17歳)
信玄が破った諏訪家の血を引いていたことから、諏訪家を継ぎ高遠城主に。

1565年 (20歳)
織田信長の養女(美濃国苗木城主、遠山勘太郎の娘)を正妻に迎える。

1567年 (22歳)
長男、武田信勝誕生。その際、正妻の遠山夫人は難産のため死没。

●信玄の後継者
兄で武田家嫡男の武田義信が、父信玄と対立した結果自害。
(義信事件)

これにより信玄の実質上の後継者となり、甲府に戻り武田二十四将のひとりとして仕える。

1568年 (24歳)
武田家が今川家を攻め始め、北条家が上杉家と結んだことから相甲駿三国同盟が破たん。

1569年 (25歳)
小田原城攻め(武田信玄)三増峠の戦に従軍。

1571年 (26歳)
北条氏康の死没後、北条家との同盟(相甲同盟)が復活。

1572年 (27歳)
上洛戦三方ヶ原の戦に従軍。

●父の死
1573年 (28歳)
父、武田信玄上洛戦途上病死すると、旧来の宿老たちと、勝頼を担ぐ新進派との争いが起こる。

三河国遠江国の武田家の拠点を徳川家康から攻められるように。

遠江国諏訪原城を築城。

1574年 (29歳)
美濃国へ侵攻し明知城を攻略。

高天神城を攻略し、遠江国における拠点とする。(高天神城の戦(第一次)

●長篠の大敗
1575年 (30歳)
徳川家康に奪われていた三河国長篠城を攻めるが、長篠の戦で、織田信長と家康連合軍により大敗、信玄以来の多くの部将を失う。

1577年 (32歳)
相甲同盟強化のため、相模国北条氏政の妹(桂林院)を継室に迎える。

1578年 (33歳)
越後国上杉謙信が死没。

●滅亡への階段
1579年頃 (34歳)
上杉謙信なきあとの後継者争い、御館の乱に巻き込まれるが、上杉景勝と和睦し同盟。(甲越同盟)

これがきっかけとなり、北条家から同盟を破棄され、北条氏と同盟した尾張国織田・三河国徳川、相模国北条と周囲を敵に回してしまう。

1581年 (36歳)
遠江国の拠点高天神城を、徳川家康に奪われる。(高天神城の戦(第二次))

真田昌幸に命じ、甲斐国韮崎に新府城を急造し本城とする。

1582年 (37歳)
信濃国福島城主木曾義昌が、織田信長へ寝返る。

駿河国江尻城代で従兄の穴山梅雪が、織田信長へ寝返る。

新府城を出て岩殿山城へ向かうが、城主、小山田信茂の裏切りに合い入城できず。

甲斐国田野にて、妻桂林院らとともに自害。
これにより武田家は滅亡。(天目山の戦

辞世は、「おぼろなる月もほのかに雲かすみ晴れて行くへの西の山のは」
死没 1582年4月3日(天正10年3月11日) (享年37歳)
レクイエム 何かにつけて偉大な父武田信玄と比較されることが多かったに違いなく、並大抵でない苦労を強いられたであろう。

しかし、父信玄でさえ落とせなかった城(高天神城など)を落とすなど、武将としてはかなり優秀だった。

ただし、外交戦略は苦手だったようで、周囲を皆敵に回したことが、没落の大きな原因となった。

父信玄へのコンプレックスから無理な戦もしたが、それが最初の頃はうまくいったため、甲斐軍団の力を過大評価してしまったことも、外交を重要視しなくなった要因である。

そして戦国時代の常ともいえるが、ひとつの敗戦(長篠の戦い)をきっかけに、秋の落日のような速さで最後の日を迎えることになった。