博多支配を目指した毛利元就
立花城の戦たちばなじょうのたたかい
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西暦 1569年4月
和暦 永禄12年
略図
関連する場所  筑前国 立花城
概要 ●博多支配
中国の雄、大内義隆は、1532年に北九州へ進出し、大友家や少弐家との抗争を続けながらも博多港を支配し、明との貿易を独占、大きな利益を得ていた。

その大内義隆が1551年に家臣の陶晴賢の謀反により討ち死に、その陶晴賢を討った毛利元就も大内家同様に博多港の支配をもくろみ、北九州に触手を伸ばしてきた。

●豪族たちの反応
毛利元就の勢いに、大友宗麟に従っていた北九州の豪族の内、秋月家、筑紫家、原田家などが毛利家へ一時寝返るが宗麟に平定される。

1565年、北九州一の要衝と言われる、立花城主、立花鑑載も大友宗麟に敵対した。
これも宗麟によって平定された。
宗麟は立花鑑載を許す替わりに、その監視のために家臣の怒留湯融泉を立花城に入城させた。

1567年には、毛利家についた宗像家と許斐家が立花城を攻めるが、落城には至らなかった。

●立花城
しかし大宰府そばの宝満城主高橋鑑種が毛利家に寝返ったことを受け、立花鑑載は再び大友家から離反し毛利家に寝返った。

この情勢を重く見た大友宗麟は、1569年4月、戸次鑑連(立花道雪)臼杵鑑速吉弘鑑理ら3万の軍勢を立花城へ派遣、立花鑑載や毛利勢1万の城兵に対したが、城方で大友家への寝返りが起こり戸次鑑連(立花道雪)を城内に引き入れたことから城は落城、立花鑑載は逃走途上自害した。

●毛利両川
これを受けて毛利元就安芸国から出陣、毛利両川の吉川元春小早川隆景も関門海峡を渡海し豊前国から筑前国に入る。
大友勢はこれを迎え撃とうとするもののかなわず、立花城に籠城するが、毛利勢に城を包囲されたばかりか水の手も抑えられたため苦戦となった。

これを受け大友宗麟は立花城の開城を容認したため、立花城は再び毛利方に渡り吉川元春小早川隆景が入城、その後乃美宗勝が城代となった。

一方の大友勢は博多に3万7千の大軍を集結させ、4万といわれる毛利勢と博多や多々羅において大激戦を展開するが、決着には至らなかった。

●撤退
そうこうする内に出雲国において、尼子家の残党山中鹿之介に担ぎ出された尼子勝久月山富田城奪回のために動き出した、という情報が入った。
この尼子家の動きは、大友宗麟の画策によるものであった。

毛利元就は1569年10月に兵を退かせたが、このときの退却戦で3千もの戦死者を出してしまう。

立花城には毛利勢の守備兵が残ったが、翌1570年大友宗麟の攻撃を受けて城を明け渡した。

翌1571年、立花城主には戸次鑑連(立花道雪)が任命され、鑑連は立花姓を名乗った。
その他