奥州の覇者となった伊達政宗
摺上原の戦すりあげはらのたたかい
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西暦 1589年
和暦 天正17年6月
略図
場所  陸奥国岩代 大森城
 陸奥国岩代 安子ヶ島城
 陸奥国岩代 高玉城
GOOGLE MAP 陸奥国岩代 駒ヶ峯城
 陸奥国岩代 猪苗代城
 陸奥国岩代 摺上原
 陸奥国岩代 黒川城(のちの会津若松城)
概要 ●人取橋の戦以降の南奥州
1585年の人取橋の戦以降、南奥州においての主導権を握った伊達政宗は、陸奥国陸前大崎5郡の領主で名門の大崎家を、1588年に攻めるが大敗した。(大崎攻め)

伊達家の台頭に脅威を感じていた周辺の諸勢力は、この機とばかりに伊達包囲網を強化、さらには常陸国佐竹義宣が、陸奥国岩代蘆名義広とともに北上してきた。
蘆名義広は、前年に佐竹家から蘆名家に入って家督を相続していた。

伊達勢600と佐竹・蘆名連合軍4000は陸奥国岩代窪田で激突、両軍合計300人近い死者を出したあと和睦、兵を退いた。(窪田の戦)

一方伊達政宗と大崎家の対立は続いており、大崎家に味方した最上家の援軍も加わったことで膠着状態が長引いたが、最上家から嫁いで来ていた伊達政宗の母、義姫の仲介により和睦した。

●佐竹・蘆名の動揺
このように、奥州における勢力争いは一時休止状態にあったが、さらに1589年4月、大崎家が伊達政宗へ服従をしてきた。
また、蘆名家の家臣で、すでに隠居して嫡男に家督を譲っていた猪苗代盛国が、蘆名家から離反して内応すると言ってきた。

この勢いに乗りたい伊達政宗に、さらに嬉しい知らせが届く。
常陸国の佐竹家の家臣が謀反を起こしたのである。

伊達政宗は、これを蘆名攻めの好機ととらえた。
佐竹義宣はお家騒動により、蘆名への援軍を送られないはずと読んだのである。

●政宗出陣
4月22日、米沢城から出陣した伊達政宗は、翌日陸奥国岩代の拠点としていた大森城に入城。
その後、蘆名家の支城、安子ヶ島城と高玉城を攻め落とすと、蘆名家の本拠会津ではなく、陸奥国磐城の相馬中村方面へ転じ、駒ヶ峯城を攻め始めた。
これには理由があり、伊達家と同盟関係にあった田村家が相馬義胤に攻められていたため、その牽制のための軍事行動であった。
伊達政宗はこのとき初めて海(太平洋)を見、船遊びを行ったという。

蘆名義広は実家の佐竹義宣に援軍を要請するとともに、伊達勢に落とされた安子ヶ島城と高玉城奪回のために出陣、援軍に駆けつけた佐竹義宣勢と陸奥国岩代南部の須賀川で合流した。

●会津へ
これに対し伊達政宗は、いよいよ蘆名の本拠、会津へ向かった。
さらにここで、伊達家への内応を約束していた猪苗代盛国猪苗代城で蘆名家への謀反を表明した。

これに驚いたのが蘆名義広である。本拠の黒川城(のちの会津若松城)のすぐ東に位置する猪苗代城が敵方となってしまったのである。

6月3日にあわてて須賀川の陣を引き払い、翌4日には黒川城に駆け戻った。
佐竹義宣は、南の北条家の動きがあって、蘆名義広への同行はかなわなかった。
その日伊達政宗猪苗代城に入城した

●摺上原
翌5日、黒川城から出陣した蘆名義広は、1万6千の大軍で猪苗代城の西方にある高森山に着陣、伊達政宗猪苗代城から出て2万1千の大軍で磐梯山の中腹、八ヶ森に着陣した。
伊達軍の先陣は、もちろん猪苗代盛国が務めた。

戦いは翌朝、摺上原で始まり、序盤は強い追い風を受けた蘆名勢が優勢となった。

●政宗の戦術
伊達政宗は先鋒の猪苗代盛国に、磐梯山の中腹を経由して敵陣の後ろに回りこみ、敵勢が黒川城(のちの会津若松城)へ戻る途上にある日橋川の橋を焼き落とすよう命じ、さらには伊達成実白石宗実にも磐梯山方面へ移動を命じ一斉に旗を立てさせた。

思わぬ方向に現れた旗に、米沢方面から伊達軍が到着したと錯覚した蘆名勢は大きく動揺、次第に崩れ始め、蘆名の主力部隊が次々に降参を始め、とうとう総崩れとなった。

蘆名勢の先鋒、富田将監は最後まで戦場に留まり、伊達政宗の本陣へ切り込むなど勇敢に戦ったが討ち死にした。

また、蘆名義広も死を覚悟し、400ほどの手勢で伊達政宗の本陣に向かったが、家臣の説得により黒川城への退却を決めた。

黒川城へ向かった蘆名勢は、日橋川の橋が焼き落とされていたため渡河に難渋し、追撃してきた伊達勢に徹底的に打ちのめされた。

この戦の死者は、蘆名勢2300、伊達勢500だったという。

●戦後
猪苗代城に戻った伊達政宗に対して、蘆名義広の家臣たちが次々と降参してきた。
蘆名義広は元々他家である佐竹家から迎えた当主であり、元からの蘆名家の家臣たちが見限った形である。

黒川城に戻った蘆名義広も、重臣たちから佐竹家へ戻るように要求を突きつけられ6月10日に退城し常陸国へ向かった。

ここに名門、蘆名家は滅亡、伊達政宗は開城された黒川城に入り念願だった会津を入手し、その後出羽国羽前米沢城から、この黒川城に本拠を移す。

伊達政宗はその後、周辺の小豪族を次々に服従させていき、陸奥・出羽66郡の内、約半分を支配下に置き、その石高は114万石にのぼり、奥州最大の領主となった。