同盟を破棄し駿河に襲い掛かった虎
駿府攻めすんぷぜめ
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西暦 1568年
和暦 永禄11年12月
略図
関連する場所  駿河国 今川館(後の駿府城
 遠江国 掛川城
写真
駿府城の家康像
概要 ●義元の後継者
1560年、桶狭間の戦織田信長に討ち取られた今川義元の後継者は今川氏真であったが、信長に対する弔い戦を決行しなかったことなどから家臣の離反が相次ぎ、1562年には徳川家康にも背かれ、さらには松平家と織田家間に清洲同盟が結ばれたことから、三河国の支配権を失ったばかりか、遠江国にも離反する家臣が出てくる始末であった。

さらに6年後の1568年には、甲斐国武田信玄からも同盟を一方的に破棄され、駿河国への侵攻を許すようになる。

信玄と家康の間の、「徳川は遠江国を、武田は駿河国をそれぞれ切り取り次第」という約束が、この頃までにできていたためである。

●駿府炎上
そして同年12月、武田勢の侵攻を受けた今川氏真は、北東約5里の由比と興津の間にある薩垂峠で迎え撃とうと出陣するが、家臣が相次いで武田家に寝返ったことから駿府へ逃げ戻り、わずか2千の手勢を率いて今川館(駿府城)を出て、家臣朝比奈泰朝遠江国掛川城へ落ち延びた。

武田信玄は、今川勢のいない館に乗り込むと、残されている宝物を奪うよう家臣たちに命ずるが、馬場信春(信房)は「それでは後々盗賊のそしりを受けかねない」と、運び出した財宝を火中に放り込んでしまったという。

この時の火災で、城下の臨済寺や浅間神社も灰塵と化した。

武田信玄は、待望だった「海のある国」、駿河国を手に入れたのである。

この翌年、今川家は事実上の滅亡を迎える。(掛川城の戦
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