厳島で散った周防の守護代
陶晴賢すえ はるかた
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誕生 1521年(大永元年)
生誕地 周防国
陶興房(道麒)
 
幼名 五郎
陶隆房、陶晴賢、全羨
官名 中務大輔、尾張守など
近親など 兄:陶義清など
ゆかりの地  周防国 若山城
 安芸国 厳島
略歴 ●守護代家
1521年 (1歳)
周防国守護代で若山城主の、陶興房の子として生まれる。

その後、大内義隆に仕える。

●家督相続
1539年 (19歳)
父、興房の死により、家督を相続。

1540年 (20歳)
武略にすぐれていたことから、吉田郡山城の戦で総大将を任せられる。

1542年 (22歳)
主君の大内義隆が、月山富田城の尼子攻め(第一次月山富田城の戦)に失敗。

その後、主君、義隆の公家文化への傾倒が強まったことから、不信をつのらせる。

●謀反
1551年 (31歳)
主君大内義隆に謀反を起こし、深川大寧寺に追い詰め自害させる。(大寧寺の変)

文治派筆頭の相良武任を、義隆を腑抜けにさせた元凶とみなして、追い詰め自害させる。

対立していた杉重矩(豊前守護代)も殺害。

1552年 (32歳)
大内義隆の養子、大内義長(大友宗麟の弟)を大内家の当主に擁立し、大内家での実権を握る。

この後、軍備強化を行う。

1553年 (33歳)
石見国津和野、三本松城主、吉見正頼が敵対、これを受け吉見攻めに出陣。

●毛利との対立
1554年 (34歳)
安芸国吉田郡山城主、毛利元就が敵対。

毛利元就の謀略により、参謀の江良房栄を殺害。これにより兵力が大幅に低下。

安芸国佐西郡明石で毛利家と戦うが敗北。(明石口の戦)

吉見正頼と和睦し、毛利攻めを優先させる。

折敷畑の戦で毛利元就に敗北。元就に安芸国をほぼ掌握される。
(折敷畑の戦はなかったとの異説あり)

1555年 (35歳)
毛利元就の謀略により厳島におびき出され、攻められ、自害。(厳島の戦
死没 1555年(弘治元年)10月 (享年35歳)
レクイエム 主君が公家文化に傾倒し始めたことに不満を抱き、謀反を起こすなど、徹底した武断派であった。

しかし謀略では一枚も二枚も上手の毛利元就の出現により、35年の生涯を閉じた。

辞世は、「何をおしみ何をうらみに元よりもこの有様の定まれる身に」