半世紀に渡り伊具郡を伊達家と争った
相馬盛胤そうま もりたね
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誕生 1529年(享禄2年)
生誕地  
相馬顕胤
屋形御前(伊達稙宗の娘)
幼名  
元服名  
孫次郎
官名 従四位下、弾正大弼など
近親など 正室:懸田義宗の娘
妹:於北(田村清顕の正室)
子:相馬義胤、相馬隆胤、相馬郷胤など
ゆかりの地  陸奥国磐城 小高城(現在の相馬小高神社)
 陸奥国磐城 相馬中村城
略歴 ●相馬家
1529年 (1歳)
陸奥国磐城小高城主、相馬顕胤の子として生まれる。

●伊達家との確執
1542年 (14歳)
伊達家におけるお家騒動、天文の乱が起こると、相馬家は伊達稙宗に味方。

1548年 (20歳)
伊達晴宗が勝利したことから、相馬家と伊達家は敵対関係に。

嫡男、相馬義胤が誕生。

●家督
1549年 (21歳)
父、相馬顕胤が死没、これにより家督を相続。

妹を田村清顕に嫁がせ、化粧領として標葉郡の中で4ヶ村を田村氏は割譲。

1553年 (25歳)
妻の父で懸田城主の懸田義宗が伊達晴宗に攻め滅ぼされる。

1557年 (29歳)
嫡男、相馬義胤とともに座流川で伊達晴宗と戦う。

1559年 (31歳)
小高城に伊達稙宗が訪れる。

1560年 (32歳)
伊達稙宗の娘、越河御前を、 嫡男、相馬義胤の正室に迎える。

1562年 (34歳)
常陸国太田城主、佐竹義昭と孫沢で戦う。

1563年 (35歳)
敵対する伊達家に寝返った中村城代の草野直清討伐に、相馬義胤を出陣させ、佐藤好信の活躍などで乱を平定。(貝殻坂・石積坂の戦)

1564年 (36歳)
亘理元宗に協力して名取郡北目に出陣し、伊達家有力家臣、粟野家に勝利。

伊達晴宗が隠居、伊達輝宗が伊達家当主に。

●伊達領へ
1565年 (37歳)
支援してきた伊達稙宗が死没。

その遺言である、伊具郡と宇多郡の領有を主張し侵攻、稙宗の居城だった丸森城を接収。

1566年 (38歳)
亘理元宗と示し合わせ、小斎、金津攻めを行い勝利。伊具郡小斎を支配下に。

1568年 (40歳)
伊達郡小島で伊達輝宗と戦う。

1570年 (42歳)
丸森城を攻略。

家臣の室原伊勢が岩城方に寝返ったことから、岩城親隆から木戸城、富岡城を攻め取られる。

1575年 (47歳)
座流川で伊達輝宗と戦う直前、共同戦線を張っていた国分家、亘理家、葛西家が敵対する素振りを見せたことから撤退を決意、退却戦では自ら殿軍を務める。

●隠居
1578年 (50歳)
相馬義胤に家督を譲る。

●伊達との和睦
1584年 (56歳)
伊具郡を明け渡す条件で、伊達家(伊達輝宗伊達政宗父子)と和睦。

●再びの対立
人取橋の戦では、相馬家は伊達家ではなく、反伊達連合軍につく。
これにより、再び伊達家と対立。

1589年 (60歳)
多くの領土を伊達政宗に侵略される。

1590年 (61歳)
相馬中村城代で叔父の相馬隆胤が、伊達家との戦(童生淵の戦)で討ち死に。

●惣無事令
伊達家からの降伏勧告にも従わず、決戦による滅亡を覚悟したが、豊臣秀吉の惣無事令や小田原城攻め開戦により回避。

豊臣秀吉に行方、宇多、標葉の3郡を安堵される。

1600年 (71歳)
関ヶ原の戦で相馬家は中立の立場をとる。

1601年 (72歳)
死没。
死没 1601年11月10日(慶長6年10月16日) (享年72歳)
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