七本槍の活躍で、織田家内の抗争が終結
賤ヶ岳の戦しずがたけのたたかい
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西暦 1583年
和暦 天正11年3月〜4月
場所  近江国 賤ヶ岳
GOOGLE MAP 近江国 玄蕃尾城
 美濃国 岐阜城
 越前国 府中城
 越前国 北ノ庄城
略図
概要 本能寺の変織田信長が倒れたあと、山崎の戦清洲会議を経て織田家での主導権を握った羽柴(豊臣)秀吉と、その台頭を快く思わない織田家筆頭家老の柴田勝家の戦。

●秀吉の先手
羽柴(豊臣)秀吉1583年初頭、雪で勝家が出てこれない内に、長浜城主となっていた柴田勝豊を調略で寝返らせた。
勝豊は柴田勝家の甥で、しかも勝家の養子となっていたが、日頃勝家が重臣の佐久間盛政を重用することに不満を持っていたのである。

秀吉はさらに、岐阜城神戸(織田)信孝を攻め服従させ、伊勢国滝川一益を攻めたてるなど、勝家に味方する勢力を次々と弱体化させてゆく。

●春先の対陣
2月末、雪解けを待ちきれず北ノ庄城から出陣した柴田勝家は、佐久間盛政を先鋒に3月12日に柳ヶ瀬に着陣後、内中尾山に本陣を置き(玄蕃尾城)、南の行市山(柴田勝政・佐久間盛政)、別所山(前田利家前田利長)、林谷山(毛受庄助)、天神山(山路正国)などの山地に砦を築いた。

一方、羽柴(豊臣)秀吉は、近江国の木之本に本陣を置いて、余呉湖周辺と北国脇往還の通る平地を見下ろす山々に砦を築いて柴田勢に備えたが、大きな動きのないまま1ヶ月の長い対陣となった。

●秀吉の離脱
4月16日、岐阜城神戸(織田)信孝が再び反旗をひるがえしたという情報が入ったことから、秀吉はこれに備えるために本隊1万5千を率いて大垣へ向かった。

●大岩山砦
4月19日、秀吉のいなくなった絶好の機会を活かし、柴田勢の先鋒佐久間盛政が余呉湖の西岸から南岸に回りこみ、中川清秀のいる大岩山砦を急襲し全滅させた。大岩山は、余呉湖の東にあって、縦に伸びた秀吉軍の陣形の中間に位置していた。
ここを攻略すれば、秀吉軍の先鋒に位置する堀秀政小川祐忠、木下利久らを柴田勝家の本隊と共に挟撃できる布陣となる。

柴田勝家佐久間盛政に「くれぐれも深入りするな」と指示していたが、佐久間盛政は大岩山を落とした勢いに乗りさらに北上、岩崎山砦の高山右近を攻め敗走させた。
盛政は、秀吉本隊が戻ってくるのは早くても翌朝であり、その間に少しでも戦局を優勢に導こうとしたのである。

4月20日午後、両砦陥落の報を受けた秀吉は、すぐに取って返すことを決意、1万5千の大軍を率いて大垣からの13里(52km)の距離を約5時間という猛スピードで駆け続けた。
この驚異的なスピードの実現には、秀吉が石田三成に命じて北国脇往還沿いに用意させた松明や炊き出しが効果をあげたという。

●賤ヶ岳七本槍
夜になって、おびただしい松明の列が近づいてくるのを見た佐久間盛政も、初めはまさか秀吉本隊の到着とは信じなかったが、それと知るとあわてて全軍に退却を命じた。

秀吉は駆け通しで疲労している全軍に対し、深夜2時頃、攻撃に入るよう指示した。
攻めてくるのは翌朝だろうと考えていた柴田勢は、ここでも意表をつかれた。

主戦場となったのは賤ヶ岳付近で、退いていく柴田勢の殿軍(しんがり)、柴田勝安への追撃戦で活躍した秀吉子飼の近習たちが、のちに賤ヶ岳の七本槍と呼ばれ称された、福島市松(正則)加藤虎之助(清正)加藤嘉明(孫六)脇坂(甚内)安治片桐且元(助作)、平野権平(長泰)、糟野武則(賀須屋助右衛門尉)である。

柴田勝安は、秀吉勢に攻め立てられながらも徐々に後退、佐久間盛政勢に合流し体勢立て直しを図るものの崩れ始めてしまう。
これを見た前田利家前田利長父子が独断で退却を始め、また琵琶湖を渡ってきていた丹羽長秀らの攻撃を側面から受けたことから、柴田勢は総崩れとなった。

すると、前田父子と同じ府中衆の不破勝光(直光)や金森長近も退却を始めてしまい、ここに勝敗は決定的となった。

●北ノ庄城
柴田勝家は、居城の北ノ庄城に退却入城。

秀吉はそれを追う途中、越前国府中城に寄り前田父子を許して味方に引き入れると、その足で北ノ庄城へ向かい4月23日に城を包囲、翌日勝家を自害に追い込む。その際勝家の室、お市の方(信長の妹)も自害した。

佐久間盛政は、その後農民に捕まり秀吉に引き渡され、家臣になるよう誘われたが拒否、山城国で斬首となる。

前田、不破、長森の府中三人衆の裏切りについては、以前勝家が時間かせぎのため、この三人を秀吉の元に派遣し和睦交渉に当たらせた際、話がついていたとされる。

●戦後
秀吉に敵対した神戸(織田)信孝は、岐阜城を弟の北畠信意(織田信雄)に包囲され降伏したのち自害。

伊勢国滝川一益長島城に篭り抗戦していたが降伏し、蟄居処分に。

羽柴(豊臣)秀吉はこの戦のあと、朝廷より従四位参議に任じられ、また織田信長も構想を持っていたと言われる大坂石山の地への新城(大坂城)築城に取り掛かる。
天下取りへの視界良好、といったところであろう。