土佐国における天下分け目の合戦
四万十川の戦
しまんとがわのたたかい
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西暦 1575年
和暦 天正3年7月
場所  土佐国 中村城
GOOGLE MAP 土佐国 栗本城
関連する略図
概要 ●長宗我部の圧迫
応仁の乱の渦巻く京都を離れ、知行地である土佐国西部、中村に下向して土着した関白家の一条家であったが、7代当主一条兼定のときに、土佐国平定を目指す長宗我部元親の圧迫を受け、1574年中村の地を追われた。
兼定は妻の実家である九州豊後国大友宗麟を頼った。

●再起
翌1575年、大友宗麟の支援を受けた一条兼定は、旧領を挽回するために伊予国宇和島に上陸し、土佐国へ攻め込んだ。

一条家の旧臣たちも従い始めたことから軍勢は3500に増え、元の居城である中村城の城下を焼き、四万十川の河口西岸にある栗本城を攻め落とすとこれを拠点とし、わずか半里(2km)北東の中村の長宗我部勢と対峙した。

●長宗我部勢来襲
長宗我部元親は、弟の吉良親貞を大将とする軍勢7300を、わずか3日後に中村に派遣した。
短期間の内に現れた大軍に仰天した一条勢であったが、四万十川を挟んでの対峙から、川を渡っての戦いとなった。

長宗我部勢は隊を2隊に分け、福留隼人率いる別働隊を川上へ回り込ませるために移動させた。
一条兼定は、あらかじめ川中に乱杭を仕掛けており、敵が渡河する際に足をとられ身動きできなくなるところを攻めようと考えていたが、杭の無い上流から回りこまれてはかなわないと、自軍も二手に分け、一隊を上流の敵に備えさせることにした。

手薄になった一条勢の本隊に対し、長宗我部勢はすかさず一斉渡河を開始、数にものをいわせ徹底的に一条勢を攻め始めた。

一条勢の死者は数百名にのぼり、一条兼定の再起の夢は潰えた。