裏切りを繰り返した梟雄の最期
信貴山城の戦
しぎさんじょうのたたかい
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西暦 1577年
和暦 天正5年10月
周辺図
場所  大和国 信貴山城
 大和国 片岡城
概要 ●信長への臣従
1568年、織田信長足利義昭を担いで上洛、(信長の上洛戦)、畿内を平定する勢いを見せると、大和国で勢力を伸ばしていた松永久秀はその配下となった。
これは心からの臣従ではなく、畿内で争っていた三好三人衆らへの対抗のためであった。

●一度目の反旗
松永久秀はその後の1572年前後、甲斐国武田信玄と連絡をとり、織田信長に反旗を翻した前科がある。
その時は、まだ久秀には使い道がある、という理由で信長は許した。

●二度目の反旗
そして1577年8月、松永久秀は二度目の反旗を翻す。
これは、中国の毛利家、摂津国石山の本願寺などの強大な勢力を敵に回し、さらに越後国上杉謙信が信長打倒のため北陸路を南下するとの情報を得た久秀が、今度こそは信長は滅亡へ向かうだろう、と読んでの謀反であった。

その前年、織田信長大和国の守護に、かねてからの宿敵であった筒井順慶を据えた、ということも大きく影響していた。

●信貴山城
松永久秀は、本願寺攻め(石山合戦)の最中、守っていた天王寺砦を焼き払うという暴挙に出てそのまま大和国へ戻り、居城である信貴山城に立て篭もった。

信貴山城は、生駒山系の信貴山に築かれた、110以上の曲輪を持つ巨城で、本丸には4重の天守が築かれていた。

2度目の裏切りであったが、織田信長は久秀の使用価値をまだ認めていたようで、右筆の松井友閑を説得に向かわせるなど翻意を促すが、久秀はこれを拒否した。

●片岡城攻め
織田信長は9月、とうとう信貴山城攻めを決意。
大和国守護の筒井順慶明智光秀細川幽斎(藤孝)を先鋒として奈良法隆寺へ集結させ、まずは久秀の支城で、海老名友清の片岡城を攻め落とした。
片岡城は信貴山城の東南約1.5里(6km)に位置し、これを失ったことで久秀は周囲を信長勢に囲まれた形になった。

●謙信の停止
さらに信長にとって幸いなことに、手取川の戦加賀国)で織田家の柴田勝家に大勝した上杉謙信が、進軍を止めたのである。
信長は、間もなく降り出す雪のため、上杉謙信はこれ以上は進軍しないだろうと読んでいた可能性もある。

謙信への防御に当てていた大軍を、信長はただちに信貴山城攻めに向かわせることができた。
信長の嫡男織田信忠を筆頭に、佐久間信盛羽柴(豊臣)秀吉らを加えた織田軍の総数は4万に膨れ上がった。

●信貴山城攻め
10月5日から総攻撃が始まったものの、堅城の信貴山城はなかなか落ちる気配を見せなかったが、10月10日、筒井順慶を先鋒とした城攻めの最中に、三の丸の各所が炎上。
これは、筒井順慶に寝返った久秀の家臣、森好久が火をつけたためである。

これがきっかけとなり、籠城方は混乱に陥り、松永久秀松永久通父子は自害、4重の天守も炎上し落城した。

松永久秀の自害は壮絶で、信長が以前から欲しがっていた名茶器、平蜘蛛の茶釜もろとも爆薬により木端微塵になったといわれる。