御館の乱の恩賞への不満が爆発
新発田重家の乱
しばたしげいえのらん
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西暦 1581年〜1587年
和暦 天正8年6月頃〜天正15年11月
周辺図
場所  越後国 新発田城
 越後国 五十公野城
 越後国 赤谷城
 越後国 水原城(すいばら)
 越後国 新潟城(場所は推定)
概要 ●御館の乱のあと
上杉謙信の死後起こった後継者争い御館の乱は、上杉景勝の勝利に終わった。

揚北衆(越後国北部、阿賀野川以北の豪族の総称)の有力者で、新発田城主の新発田重家も景勝に味方し、上杉景虎についた加地城主、加地秀綱攻め、三条城主、神余親綱攻めなどを行い、伊達家や蘆名家の介入を退けるなどの大きな貢献があった。

しかし期待された戦後の恩賞は、景勝の出身である上田衆ばかりに篤く、新発田重家はこれに不満を持つようになった。

1581年(天正9年)、この状況を知った伊達輝宗蘆名盛隆は再び越後国に介入、工作を行い、新発田重家上杉景虎方の豪族たちの蜂起を煽った。

上杉謙信の甥である加地秀綱も味方に引き入れた新発田重家は、6月16日に新潟津を占拠し運上徴収権を強奪、さらには新潟城を築城、上杉景勝に対して反旗を掲げた。

折りしも北陸戦線は織田信長の北陸方面団長柴田勝家の侵攻が続いており、能登国が間もなく平定されそうな状況であった。

上杉景勝は西の織田、東の伊達、蘆名の挟撃に加え、越後国国内に大きな反勢力を受けることになった。

●南の脅威
さらに翌天正10年3月(1582年)、上杉景勝と同盟していた甲斐国の武田家が織田信長に攻め滅ぼされてしまう。(天目山の戦

これにより、甲斐国信濃国は織田や徳川のものとなり、信濃国の北部、川中島を拝領した森長可の南からの脅威を受けることになった。

また、北陸戦線も動きは活発で、越中国魚津城の戦で敗北した上杉家の危機は益々つのっていた。

●本能寺の変
ところが6月2日に起こった本能寺の変が事態を一変させた。

信長の横死を知り柴田勝家は北陸戦線から撤退、信濃国では一揆をが起こり森長可も旧領の美濃国へ撤退したのである。

上杉景勝はまず、森長可のいなくなった信濃国の北部に出兵しこれを平定すると(天正壬午の乱),
反転北上し新発田重家攻めに向かった。

●新発田攻め
上杉景勝は9月に新発田城を包囲し約1ヶ月間攻め立てるが落とせず、撤退するところを敵勢の反撃を受け、上杉景勝が討たれそうになるほどの大敗を喫した。(放生橋の戦)

●畿内の対立
その後、織田家で後継者争いが起こった。
主君信長の仇、明智光秀を討った羽柴(豊臣)秀吉と、織田家筆頭家老の柴田勝家の対立である。

羽柴(豊臣)秀吉は、北陸に拠点を持つ柴田勝家の背後を衝いてもらうべく上杉景勝に誼を通じ、勝家の組下で越中国佐々成政新発田重家と誼を通じたことで、越後国内の抗争が、中央の抗争に影響を及ぼすことになった。

中央の抗争は、天正11年4月(1583年)の賤ヶ岳の戦羽柴(豊臣)秀吉が勝利した。
これを機に上杉景勝羽柴(豊臣)秀吉と結ぶことを正式に表明、新発田重家攻めに専念できるようになった。

●景勝出陣
各地での小競り合いを経た5月1日、上杉景勝春日山城から出陣、新発田勢と戦うが白黒はつけられず9月に帰城した。

●徳川と佐々
翌、天正12年(1584年)は、羽柴(豊臣)秀吉に対立した徳川家康佐々成政の画策により、上杉景勝は隣国の越中国信濃国北部への牽制のための出兵を余儀なくされた。

しかし小牧・長久手の戦ののち徳川家康羽柴(豊臣)秀吉と和睦、翌、天正13年(1585年)には佐々成政羽柴(豊臣)秀吉に降伏したことで、上杉景勝は再び新発田重家攻めに専念する。

●新発田攻め
天正14年6月(1586年)、上杉景勝は上洛し正式に羽柴(豊臣)秀吉の臣下につくと、7月に帰国、8月には出陣して新発田勢を攻めるが大局は変わらなかった。

しかし10月には新潟城と沼垂城を攻め落とした上杉景勝は、新発田攻略の手ごたえを感じ始めていた。

翌、天正15年4月(1587年)、上杉景勝春日山城から出陣、5月には水原城を攻略し、一旦帰城したのちの8月には再び出陣、加地城と今泉城を落とし、9月14日には新発田方の要衝である赤谷城を攻略した。
赤谷城は新発田に味方する蘆名家の会津へ向かう街道沿いに急造されたのだが、これを攻略されたことにより、新発田重家は蘆名家からの援軍をあきらめざるを得なかった。

10月には五十公野城が落城、その後新発田城上杉景勝の総攻撃にさらされた。
10月25日から総攻撃が始まり、徐々に包囲が狭められ、28日の新発田重家の突撃を最後に新発田城は落城、新発田重家は自害した。

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