徳川の天下取りを決定した大決戦
関ヶ原の戦せきがはらのたたかい
トップページ 戦国年表 人物 合戦・出来事 国と郡 城・社寺 関連表 用語集 公開記録 参考文献 プロフィール・リンク メール
西暦 1600年10月21日
和暦 慶長5年9月15日
略図


西軍主力の配置
場所  美濃国 関ヶ原
 尾張国 清洲城
 美濃国 大垣城
 信濃国 上田城
写真
家康最後の本陣跡、陣場野


石田三成の本陣、笹尾山(向こうの山は南宮山)
概要 ●秀吉の死
1598年8月の豊臣秀吉の死後、政局は五大老筆頭の徳川家康を中心に動いていた。

秀吉に代わって天下を治められるのは、豊かな政治経験と260万石という膨大な領土を持つ自分しかいない、というのが徳川家康の考えであった。

この家康の野望に気づき、豊臣家の将来を最も危ぶんだのは、秀吉子飼の奉行石田三成であるが、そんな三成をあざ笑うかのように、家康は次々と謀略を繰り出した。

家康がまず目に付けたのは、秀吉亡きあとの豊臣政権が、決して一枚岩でないことだった。
特に豊臣秀吉が若輩の頃家臣とした加藤清正などの武断派と、秀吉が長浜城主となったあとに官僚候補として召抱えた石田三成ら奉行衆の関係は、6年に渡る朝鮮出兵(文禄の役慶長の役)の際のいざこざなどによってこじれにこじれており、家康は両陣営の対立をあおるとともに、加藤清正ら武断派大名たちを次々と抱き込んでいった。

●違法の婚姻
まず家康は、奉行衆を挑発するために、秀吉が遺命として残していた、許可なき婚姻を、福島正則伊達政宗蜂須賀家政といった大名たちとの間に計画する。

これに激怒したのは、石田三成はもちろん、大老である前田利家宇喜多秀家上杉景勝たちであり、特に前田利家は家康との一戦も覚悟の上、糾弾のための使いを伏見にいる家康に送った。
使いに立ったのは、大老と奉行の間にあって仲介役を務める三中老の生駒親正堀尾吉晴中村一氏、それに顧問僧として豊臣家に重用されていた西笑承兌を加えた4人であった。

●大坂対伏見
これをきっかけに、伏見にいた徳川家康は、大坂方である前田利家石田三成らと一触即発状態となるが、江戸から6万の大軍勢を招きよせているとの偽情報を流し、大坂方の戦意を奪うことに成功した。

さらに家康は、前田利家の嫡男、前田利長を通じて前田利家と形式ばかりの和睦を行った。仲を取り持ったのは前田利長と義兄弟の関係にある細川忠興であった。
家康と利家はこれにより矛を収めたが、邪魔な前田利家の死期が近いことを家康は見抜いており、ほんの短い間の辛抱であると思っていたに違いない。

1599年閏3月、その前田利家が死ぬと、石田三成加藤清正ら武断派大名から追い回されることになる。
尾張国出身の太守前田利家は秀吉が最も頼りにしていたことからもわかるように大きな存在で、その前田利家が三成を誅そうとする加藤清正らを押さえ込んでいたのである。

石田三成は、佐竹義宣らに救助されるが、意表をついて大坂から伏見へ渡り、何と徳川家康の屋敷へ逃げ込んだ。

驚いたのは徳川家康である。天下取りに際し最も邪魔な石田三成が懐に飛び込んできたのである。

家臣の中には、すぐにでも三成を殺すべきと主張するものもあったとか。
しかしここで三成を殺してしまっては、天下人たらんとする家康の評判は悪くなる。家康は仕方なく三成を保護し、実子である結城秀康を護衛に付けて、三成をその居城である佐和山城まで送り届けた。
その際三成は隠居し、奉行を辞職した。

●家康の増長
さらに家康は、大坂や伏見にいる諸将に対して帰国を勧める。
朝鮮出兵後大坂に詰めきりの諸将は、気になっていた領国の統治のため次々と帰国、ここに政治的な空白が出現した。

家康は次に、警備上の不備を理由に伏見の屋敷から伏見城内に移り、さらに天下の大坂城へ入ることで天下人としての威厳を示そうと考えをめぐらせた。

そして家康は、豊臣秀頼への重陽の節句の賀詞と称して大坂城を訪れる。
その際、豊臣秀頼の側近が家康暗殺を計画していたという偽情報を流した。

その後伏見城に戻った家康は、このような暗殺情報が流れるのは、天下の主である豊臣秀頼と自分とが、大坂と伏見とに分かれているからであるとの理屈をつけ、高台院(秀吉の正室)を言葉巧みに口説いて大坂城の二の丸を明け渡してもらう形で入城してしまった。

さらに家康は、この暗殺計画に関わったとして、大老の前田利長の母、芳春院(まつ)を人質にとり前田家を屈服させるという大技に成功、五奉行筆頭の浅野長政隠居させ甲斐国へ、大野治長と土方雄久を関東へ流罪に処した。

これにより、自分を除く四大老の内、前田利長と、五奉行の内浅野長政石田三成の二名が失脚したことになる。

家康はその後も、秀吉の遺命に逆らう形で、諸大名への加増や転封を次々と命じ、味方の大名を増やすとともに、実質上の天下人は自分であることを世間に印象付けようとした。
いよいよ天下は徳川家康の思いのままになりつつあった。

●三成とその味方
石田三成は隠居し政界から遠のいたが、家康打倒についてはあきらめていなかった。
家康の危険性を各地の大名へ説くための書状を、数多く送ったりしている。

三成の考えに同意していたのは、秀吉の養子であった宇喜多秀家、会津の上杉景勝直江兼続主従、朝鮮で加藤清正と対立し通しだった小西行長、三成との繋がりの深い佐竹義宣らである。

●上杉討伐
1600年6月、徳川家康は上洛命令を無視し続ける会津の上杉景勝討伐に向かった。
前田家を屈服させたあとの課題は、大老でもあり、出羽国羽前などに130万石以上の禄高を持つこの上杉家攻略である。

名目上は主君豊臣秀頼に弓引く者を討つ、というものであったが、実際には先代上杉謙信以来「義」を最も重んじる上杉家が自分の天下取りに邪魔だったのと、京都を離れれば石田三成が必ず挙兵し、そうなれば三成に味方する大名たちをことごとく討ち平らげてしまおう、という遠謀もあったに違いない。
従う大名は、秀吉子飼いの福島正則をはじめ、細川忠興加藤嘉明を先鋒とし、黒田長政池田輝政浅野幸長山内一豊など。
また、

討伐に先立ち上杉景勝の家老、直江兼続から家康の外交僧西笑承兌に送られた文書(直江状)には、徳川に屈してなるものか、という上杉家の強い決意が表されていた。

●西軍旗上げ
7月11日、佐和山城に隠居していた石田三成は家康打倒を決意し、親友大谷吉継を口説いて、西軍に味方させた。

7月12日、石田三成増田長盛安国寺恵瓊との密談で、毛利輝元を総大将に担ぐことを決定。
慎重な家風で知られる中国の太守毛利輝元が味方すると聞いて、西軍にはせ参じた大名も多かった。

西軍は、失脚した石田三成浅野長政を除く奉行衆、増田長盛長束正家前田玄以の連名で、徳川家康の横暴を弾劾するための書状「内府違いの条」を発給、西国の諸大名を味方につけるべく旗上げした。

大坂城には毛利輝元が残り、豊臣秀頼を守ることになった。

また、家康に従おうとする諸将の東下を阻止するための関を愛知川に設け、三成の兄、石田正澄がこれを守った。
これに引っかかり西軍につかざるを得なくなったのが、長宗我部盛親や鍋島勝茂であった。

●人質作戦
西軍は、家康とともに上杉攻めに向かった大名たちの家族を大坂城内に移らせる人質策を決行するが、細川ガラシャ細川忠興正室)の死を持った拒否(7月17日)にあい、人心の離脱を恐れてこの戦略を撤回した。

●伏見城の戦
石田三成宇喜多秀家ら4万の大軍に、家康の留守を預かった鳥居元忠のいる伏見城を攻めさせ、10日以上をかけて、8月1日にやっと落城させた。
(伏見城の戦)

●田辺城の戦
また西軍は、7月19日に小野木公郷や前田茂勝を初めとする1万5千を持って、細川忠興の父細川幽斎(藤孝)が籠る、丹後国田辺城を攻め始めるが、500名の寡兵にも関わらずその後2ヶ月以上落城させることができなかった。

この1万5千の兵力は、田辺城攻略に終始したため本戦には参陣できなかった。

●小山会議
三成挙兵の報を得た徳川家康は、これほど多くの大名が石田三成に従うとは思っていなかったが、7月25日に小山会議(小山評定)を開き、引き返して西軍と戦うことを決定。

●東軍西上開始
家康は全軍をふた手に分け、嫡子徳川秀忠率いる徳川譜代中心の主力3万7千を中山道経由で、また、自ら率いる豊臣恩顧の大名勢を東海道経由で西上させることにした。
上杉への抑えとして、実子の結城秀康をはじめ、蒲生秀行、里見義康、那須資景らを宇都宮に残した。

●東軍清洲城入城
西上した東軍勢は、8月14日、福島正則の居城尾張国清洲城に入城するが、肝心の徳川家康江戸城に居座ったままであった。

家康出陣を待ちかねている東軍諸将のもとに、家康の伝令を携えた村越茂助が到着。
「家康が出発しないのは、諸将がなかなか西軍を攻め始めないためである」と伝えさせた。
軍監の井伊直政本多忠勝はこれに驚くが、「家康殿の申し分、なるほどもっともである」と納得した福島正則の一言で出陣が決定。

●東軍、美濃へ進攻
福島正則細川忠興ら1万6千は、清洲城から出兵して美濃路を進み、木曽川を渡り美濃国に入ると、西軍の竹ヶ鼻城を囲み開城させることに成功。(8月22日)

また池田輝政浅野幸長山内一豊ら1万8千は、清洲城から北上し岐阜城を目指す。
これを受けて岐阜城主の織田秀信(三法師)は、家臣の木造長政、飯沼長資、百々綱家らに6500の兵を与え木曽川で東軍を食い止めるべく布陣するが、河田島から木曽川の渡河を開始した東軍の大軍勢に対しなすすべもなく、中洲の小屋場島まで進軍を許してしまう。(河田木曽川渡の戦 8月22日)

さらに東軍は対岸にある米野へ向けて渡河を開始、待ち構えていた西軍は3千の寡兵だったためたちまち大敗、残兵たちは岐阜城に戻った。(米野の戦 8月22日)

岐阜城を囲んだ東軍は、2日で城を攻め落とす。(岐阜城の戦 8月23日)

岐阜城陥落も時間の問題と知った、東軍の別働隊、黒田長政田中吉政藤堂高虎らは功を求めて岐阜へは向かわず大垣方面へ西進、長良川の支流合渡川で石田三成の家臣舞兵庫らと激突、これを粉砕した。

●家康出陣・着陣
徳川家康岐阜城落城の知らせを受けて、9月1日、3万の軍勢で江戸城から出陣。
9月11日に清洲城に到着、徳川秀忠の3万の軍勢を待つがなかなか到着しなかったことからあきらめ、9月14日に東軍勢が陣取っていた美濃国赤坂に着陣した。

●大垣城
石田三成が8月10日に入城し西軍の本拠とした大垣城は、赤坂の南東にあるため、東軍は大垣城を取り囲む形となっていた。

上杉勢を警戒してまだ江戸から動けないでいるはずと考えていた西軍は、家康の旗印を見つけ騒然となった。

兵たちの動揺を鎮めようと、石田三成の家老島左近が500の手勢で、東軍の中村一栄有馬豊氏勢に小競り合いを仕掛け、巧みな戦術で快勝した。(杭瀬川の戦)

夜になって西軍の島津義弘宇喜多秀家は、着陣したばかりで疲労しているはずの家康陣営への夜討ちを主張するが、慎重派の三成はこれを却下する。
歴戦を経てきた島津義弘は、この時点で石田三成の指揮には従わないことを決意してしまう。
宇喜多秀家も、「戦知らずの三成が事実上の大将では、西軍に勝ち目なし」と嘆いたといわれる。

●秀忠遅参
一方、中山道を進む徳川秀忠の主力部隊は、信濃国上田城真田昌幸真田幸村父子を攻めるのに手間取り(第二次上田城の戦)、関ヶ原の本戦には間に合わなかった。

これについては、家康が、西軍に万一敗北したときのために戦力を温存しようと秀忠にわざと遅参させたという説もあり、それが本当であれば家康の深い読みと遠謀が見えてくる。
ただし、当初は西軍の拠点である大垣城や最終的には西軍が籠るであろう大坂城への攻城戦が想定されていたに違いなく、温存説は少し弱いといえる。

●佐和山城攻撃の虚報
その後、東軍は大垣城へは向かわず、三成の本拠佐和山城に向かうという情報を得た三成はあわてた。

これは、西軍勢を大垣城から打って出させ、得意の野戦に持ち込むために家康が流した偽情報だったといわれる。

家康は、大坂城にいた毛利輝元豊臣秀頼を担ぎ出し出馬してしまうと、折角味方につけた豊臣恩顧の大名たちが西軍に寝返ってしまう恐れがあったことから、できるだけ早く決着をつける必要があった。

しかし三成は、畿内への砦とも言える佐和山城を落とされては全軍の士気に影響することから、近江国への入り口である関ヶ原に先回りして東軍を迎え撃つべく、大軍を率いて大垣城から密かに出て南進した。東軍に発見されるのを恐れ南宮山の南麓を迂回して関ヶ原に向かったのである。

この夜は雨で、この強行軍により西軍の主力の疲労が想定以上に溜まってしまったのだが、家康の戦略が思わぬ副産物を生んだといえる。

●西軍布陣
関ヶ原は伊吹山地が北に、養老山地が南に迫る地であり、北国街道と中山道が通る交通の要衝であった。

西軍はともあれ、夜のうちに北国街道を塞ぐように主力を布陣させた。
北の笹尾山に石田三成の本陣を置いて、南へ向かって島津義弘小西行長、天満山に宇喜多秀家、その南に大谷吉継など、約3万5千が配された。

その主力を南から見下ろす形で松尾山に陣取ったのは小早川秀秋の1万5千。

中山道を進んでくる東軍を南から見下ろすように南宮山に布陣したのは、吉川広家毛利秀元安国寺恵瓊らの毛利勢、合計約2万であった。

すなわち西軍は、東軍を北、西、南から包み込むような鶴翼の陣を敷いたことになる。

●東軍布陣
一方、中山道を西進してきた東軍も次々に敵の正面に陣取った。
これは無謀にも鶴翼の陣の奥深く突っ込んできた形であり、西軍の中にはすでに東軍への寝返りを約束していた部隊が多数いたことを裏付ける布陣だったと思われる。

三成の笹尾山に対する最右翼には黒田長政、そこから南へ向かって加藤嘉明細川忠興、宇喜多直盛、田中吉政筒井定次、そして左翼の福島正則など、敵の正面に2万以上が陣取り、その後方にも多くの部隊が控える魚鱗の陣となった。

総大将の徳川家康は3万の軍勢で後方の桃配山に陣し、西軍の毛利勢の2万を左後方に見上げる形になった。
これも本来であればかなり無謀な布陣である。

●合戦開始
そして天下分け目の戦が始まったのは、1600年9月15日の、濃霧の朝である。

8:00
家康四男松平忠吉とその義父の井伊直政が、西軍の宇喜多秀家隊へ突撃。これは抜け駆けであった。

先陣の功にあせった東軍の福島正則もそれに続き宇喜多秀家隊を攻撃。
石田三成、その家老島左近蒲生郷舎らの西軍と、黒田長政細川忠興加藤嘉明田中吉政らも激突。

古田重勝、織田有楽斎らの東軍は、西軍の小西行長と交戦。
西軍の大谷吉継に、東軍の藤堂高虎京極高知らが攻撃。

まずは戦意旺盛な勢力同士がぶつかりあった。

10:00
戦況は五分五分か西軍がやや優勢であった。
石田三成は傍観していた島津義弘に参戦を要請するが拒否される。前夜三成に夜襲を提案して却下された義弘にしてみれば、三成のためになど戦ってたまるか、という気持ちであったろう。

三成は島津はあきらめ、松尾山で動かない小早川秀秋や、南宮山の毛利秀元といった西軍主力に何度も使者を送り参戦するよう促すが、無視されたままである。
小早川秀秋は家康に旧恩があり、密かに東軍に内応する約束をしていたのである。

西軍の安国寺恵瓊長束正家も、毛利秀元吉川広家に参戦を促すが、吉川広家は東軍に内通しており動かず、後方にいた毛利秀元長宗我部盛親も動くに動けなかった。
三成は、主力として期待していた小早川秀秋の1万5千、毛利秀元の1万6千などを最後まで戦場に投入できなかったのである。

12:00
家康は、内応を約束していながらなかなか動かない小早川秀秋のいる松尾山に向かって威嚇射撃を行う。
秀秋とその首脳は、戦局がどちらかに傾くまで待ち、有利な方に味方しようとしていたために動かなかったと思われる。
家康が怒っていることに驚いた秀秋は、一気に山を駆け下り、西軍の大谷吉継の右翼を攻撃し始めた。

これを見て西軍から東軍に寝返った脇坂安治赤座直保小川祐忠朽木元綱も大谷勢を大混乱に陥れ、大谷吉継は自害。

13:00
この報を受けた宇喜多秀家小西行長も、敗走し始める。
福島正則は、宇喜多秀家の残兵を攻撃、本多忠勝石田三成勢を攻撃、石田隊も総崩れに。その際、島左近が討ち死に。石田三成は戦場を離脱。

14:00
戦場に孤立しそうになった西軍の島津義弘は、家康の本陣前をあえて通り抜け(島津の退き口)、伊勢国方面へ退却。島津義弘を逃すために殿軍を買って出た義弘の甥で重臣の島津豊久長寿院盛淳は討ち死に。

15:00
天下分け目の戦は、約7時間という意外な速さで決着。

●決戦後
西軍の立花宗茂は、東軍の京極高次大津城攻めに手間取り、決戦の前日にやっと落城させたばかりで、決戦には間に合わなかった。

毛利輝元は、西軍が敗戦となったあと、東軍の井伊直政本多忠勝の全領地の安堵の約束を信じ大坂城を退城、これにより家康は、籠城されたら面倒であった大坂城を難なく入手。

首謀者の、石田三成安国寺恵瓊小西行長は、捕らえられて京都六条河原で斬首された。
長束正家は、近江国の水口城を池田輝政に攻められ自害。

石田三成の居城佐和山城は、井伊直政田中吉政小早川秀秋脇坂安治らの1万5千に攻め落とされ、三成の父、石田正継や兄、石田正澄らは自害、天守は炎上した。

鳥羽城に立て籠もっていた九鬼嘉隆は自害。

●西軍武将の処分
岐阜城主、織田秀信は13万石を没収され、高野山へ追放。

毛利家は、吉川広家の内応があったため長門国周防国の2ヶ国、29万石だけが安堵された。

宇喜多秀家は改易となり、しばらくの間薩摩国の島津家にかくまわれていたが自首し、後年八丈島へ流された。

島津義弘薩摩国に戻り、2年間の交渉の末許され、本領を安堵された。

戦のきっかけとなった上杉景勝は、会津や佐渡国など100万石を没収され、出羽国羽前米沢30万石だけに大きく削られた。
これほど早く決着するだろうとは思っておらず、なすすべもなかった、というのが実情であろう。

上杉家と同盟関係にあり、態度を鮮明にしなかった佐竹義宣は、出羽国羽後秋田18万石に減封の上転封となった。

上田城の攻防(第二次上田城の戦)で徳川秀忠を決戦に参加させなかった真田昌幸真田幸村に対しては、東軍についた昌幸の長男真田信幸(信之)とその岳父本多忠勝の嘆願により高野山への追放だけとなった。

長宗我部盛親は、戦後土佐国へ逃げ戻った後、家臣久武親直の讒言を信じ兄である津野親忠を殺害したことを家康に咎められ改易となった。

●主な東軍部将の論功行賞
福島正則は、安芸国備後国、49万石、広島城主。

小早川秀秋は、備前国美作国、52万石、岡山城主に。

黒田長政は、筑前国52万石、名島城主、のちに福岡城主に。

池田輝政は、播磨国52万石、姫路城主に。

細川忠興は、豊前国中津39万石、中津城主、のちに小倉城主に

田中吉政は、筑後国柳川32万石、柳川城主に。

浅野幸長は、紀伊国和歌山37万石、和歌山城主に。

藤堂高虎は、伊予国今張20万石、宇和島城主に。

加藤嘉明は、伊予国松山20万石、のちに松山城主に。

真田信幸(信之)は、父真田昌幸の旧領、信濃国上田9万5千石を加増される。

山内一豊は、小山会議での発言が評され、土佐国24万石、浦戸城主、のちに高知城主に。

京極高次は、決戦の前日まで大津城に籠って西軍の立花宗茂を釘付けにし、決戦に参加させなかったことを評価され、若狭国一国8万5千石、小浜城主に。

弟の京極高知は、丹後国一国12万3千石、田辺城主、のちに宮津城主に。

蒲生秀行は、宇都宮城で上杉家への抑え役を果たしたことから、会津若松城主に復帰。(60万石)

●豊臣家の処分
この戦は石田三成の私戦であり、豊臣秀頼や生母淀殿らについては、お咎めなしという処置がとられた。
ただし直轄領の多くは没収され、豊臣秀頼の領地は摂津国河内国和泉国の65万石だけが安堵され、居城の大坂城については従来通りとされた。

この寛大な処置が、のちのちの豊家滅亡の布石となってしまうのは皮肉である。
(詳細:方広寺鐘銘事件
考察 秀吉なきあとの豊臣家の安泰を願う子飼の武将は、何も石田三成ばかりでなく、家康方についた福島正則黒田長政ら武断派の武将たちも同じ気持ちであった。

しかし、福島正則黒田長政らは、実力者徳川家康の元での豊臣家の安泰が最も安全だと考えたことと、官吏の三成に対する以前からの根深い不信感から、東軍に味方したものである。
戦もせずに、秀吉の近臣として権力を握っていた三成ら官吏派に対するやっかみや、朝鮮の役で、三成の監察により秀吉の不興を買ったことなどが、その要因である。。

また、秀頼の実母淀殿(茶々)石田三成ら近江国出身の奉行衆と懇意だったのに対し、秀吉の正夫人だった高台院(ねね)が尾張国出身の武断派たちに慕われており、且つ高台院(ねね)淀殿(茶々)との正妾対立もあり、両派閥の対立を生んでいた。

これらの点をよく把握、利用し、武断派の豊臣大名らを巧みに取り込んだ家康の人心収攬術は見事である。

それに対して、戦いの直前にも関わらず島津義弘の不信を買ったり、担ぎ出した毛利勢を意のままに動かせなかった石田三成は、やはり大軍の総大将としては器量不足であったと言える。