坂東太郎と恐れられた常陸の雄
佐竹義重さたけ よししげ
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誕生 1547年(天文17年)
生誕地  
佐竹義昭
岩城重隆の娘
幼名 徳寿丸
元服名 佐竹次郎義重
通称 坂東太郎、鬼義重
 
官名 常陸介
近親など 子:佐竹義宣蘆名義広、岩城貞隆、多賀谷宣家、佐竹信直など
ゆかりの地  常陸国 太田城
 出羽国羽後 六郷城
略歴 ●守護家
1547年 (1歳)
常陸国守護で太田城主、佐竹義昭の嫡男として生まれる。

1558年 (12歳)
元服。

●家督相続
1562年 (16歳)
家督を譲られる。

その後、関東制覇を狙う北条家に対するために、越後国上杉輝虎(謙信)との連携を強化。

1565年 (19歳)
父、佐竹義昭が死没。

1566年 (20歳)
下野国那須の武茂守綱を攻め降し、臣下に。

1569年 (23歳)
手這坂の戦で、常陸国南部の小田城主、小田氏治に勝利し小田城を奪う。

越相同盟が成立すると、上杉輝虎(謙信)への不審から密かに武田信玄に接近。

●北条氏との対立
1571年 (25歳)
北条氏政や、北条家と同盟した陸奥国岩代会津の蘆名盛氏下総国結城城主、結城晴朝らと対立。

1575年 (29歳)
陸奥国磐城白河小峰城の小峰義親を支配下に。

1578年 (32歳)
上杉謙信の急死により、関東において北条家の威勢が強まったことから、関東での勢力拡大をあきらめ、南陸奥への展開に重点を置く。

●伊達氏との対立
これにより、伊達政宗との抗争が激化。

1579年 (33歳)
二男の喝食丸(後の蘆名義広)を白河小峰城の小峰義親の養子に送り込む。

1580年頃 (34歳)
下野国宇都宮国綱を臣下に。

1583年 (37歳)
羽柴(豊臣)秀吉に誼を通じる。

1585年 (39歳)
陸奥国岩代人取橋の戦伊達政宗に敗北。

1586年 (40歳)
支配していた下野国長沼城を北条家に落とされ、下野国西部を失う。(沼尻の戦)

1587年 (41歳)
白河小峰家の養子としていた喝食丸(後の蘆名義広)を、陸奥国岩代会津黒川城(会津若松城)蘆名盛隆の娘と結婚させ、蘆名家を相続させる。

1589年 (43歳)
二男の蘆名義広摺上原の戦伊達政宗に大敗し黒川城(会津若松城)を奪われ、常陸国へ逃れる。(蘆名氏の滅亡)

●隠居
北の伊達政宗と南の北条氏政北条氏直父子に脅かされたことから隠居し、子の佐竹義宣に家督を譲る。

●秀吉の臣下
1590年 (44歳)
交友のあった石田三成の勧めで、豊臣秀吉小田原城攻め佐竹義宣とともに参陣したことから、本領を安堵される。

江戸重通を攻め下し水戸城を手中に。

●常陸での台頭
1591年 (45歳)
子の佐竹義宣が、常陸国南方の小領主33名を謀略で誅し、常陸国での主導権を得る。

1594年 (48歳)
子の佐竹義宣水戸城に居城を移す。

1596年 (50歳)
子の佐竹義宣常陸国54万石の大大名に。

1600年 (54歳)
関ヶ原の戦の直前、 徳川家康につくよう進言するが、子の義宣石田三成のいる西軍に呼応することを主張したため対立。

その後徳川家康が小山から引き返したため動けず、そのまま静観。

●出羽
1602年 (56歳)
関ヶ原の戦の際の曖昧な態度を徳川家康から咎められ、佐竹家は出羽国羽後秋田18万石に転封されると、羽後南部の六郷城に入る。

1612年 (66歳)
狩猟の最中落馬し死没。
死没 1612年(慶長17年)4月 (享年66歳)
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