秀吉に抵抗した越中富山城主
佐々成政さっさ なりまさ
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誕生 1536年2月6日(天文5年1月15日)
生誕地 尾張国 比良城
佐々成宗
  
幼名  
内蔵助
官名 陸奥守
近親など 正室:村井貞勝の娘
子:娘ばかり5人
兄:佐々隼人正政次、佐々孫介
ゆかりの地  尾張国 比良城(現在の光通寺付近)
 越前国 小丸城
 越中国 富山城
 肥後国 熊本古城
略歴 ●比良城主の子
1536年 (1歳)
尾張国の豪族で比良城主、佐々成宗の子(五男)として生まれる。

●黒母衣衆の筆頭
1550年 (15歳)
織田信長に仕え、戦場ではことごとく貢献する。

1560年 (25歳)
兄たちが戦死していたことから家督を相続し、比良城主に。

1567年 (32歳)
黒母衣衆の筆頭に抜擢される。

●府中三人衆
1575年 (40歳)
越前国一向一揆討伐後、越前国府中に3万3千石を拝領し大名に。
小丸城を築いて居城に。

同じく越前国を与えられた前田利家不破光治とともに府中三人衆と呼ばれる。

その後、織田家の北陸方面司令官柴田勝家の旗下で、越後国の上杉家と対峙。

●越中国
1581年 (46歳)
越中国半国を任せられる。

その後、富山城を改修し居城とする。

1582年 (47歳)
富山城を上杉勢に奪われるが、すぐに取り戻す。

越中国一国を任せられる。

魚津城の戦に参陣し上杉家に勝利。

●信長の死
本能寺の変で主君信長を失った際、越後国上杉景勝から、奪ったばかりの魚津城を攻められていたため身動きがとれず。

1583年 (48歳)
羽柴(豊臣)秀吉との決戦賤ヶ岳の戦にも、上杉軍との対峙中で参戦できなかったが、かえってそれが幸いし、戦後秀吉から本領を安堵される。

●秀吉への反抗とさらさら越え
1584年 (49歳)
小牧・長久手の戦では徳川家康織田信雄に与する。

秀吉方についた加賀国の前田利家を攻めるが敗退。(末森城の戦)

越後国の上杉景勝との対峙も続いており、敵に挟まれる。

羽柴(豊臣)秀吉徳川家康の対峙が膠着状態にあった際、厳冬の北アルプスを越え(さらさら越え)て浜松の家康の元を訪れ、挙兵を促すが、すでに家康は秀吉と和睦をすすめていたため叶わず。

●降伏
1585年 (50歳)
羽柴(豊臣)秀吉が10万人の大軍で越中国に討伐にやってくると、織田信雄の仲介を受けて降伏。ほとんどの領土を没収される。

●肥後国
1587年 (52歳)
九州攻めの戦功により、肥後国一国を与えられ、熊本城主(熊本古城)となるが、検地に対する国人たちの不満から大規模な国人一揆が勃発。

1588年 (53歳)
一揆の責任は成政の失政にあるとされ、豊臣秀吉からの命を受け摂津国で切腹。

辞世は「この頃の厄妄想を入れ置きし鉄鉢袋今破るなり」
レクイエム 信長のもとで黒母衣衆の筆頭だったころは格下だった秀吉に対して、臣下の礼をとるのはプライドが許さなかったであろう。

しかし肥後国一国を与えられ、心機一転秀吉へのわだかまりを捨てて領国経営に努めるつもりになっていたであろう矢先の一揆だっただけに、皮肉である。

ただし秀吉からは、3年間検地は行うなと命じられていたことも事実であり、なぜ検地を行おうとしたのだろう・・・
死没 1588年7月7日(天正16年閏5月14日) (享年53歳)