家康を追い詰め死に花を咲かせた
真田幸村さなだ ゆきむら
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誕生 1567年(永禄10年)
生誕地  
真田昌幸
寒松院(山手殿)(菊亭晴季の娘、または宇多頼忠の娘)
幼名 弁丸
源二郎、真田信繁(本名)
官名 従五位下、左衛門佐
近親など 祖父:真田幸隆
兄:真田信之など
正室:竹林院(大谷吉継の娘)
子:阿菊(石合重定の正室)、於市、阿梅(片倉重長の後室)、あくり(蒲生郷喜の正室)、真田幸昌(大介)、なほ(御田姫、岩城宣隆の正室)、阿昌蒲(片倉定広の正室)、おかね(石川貞清の正室)、真田守信、三好幸信など
ゆかりの地  信濃国 上田城
 紀伊国 九度山村
 摂津国 大坂城
 摂津国 真田丸大坂城の出城)
略歴 ●真田家の二男
1567年 (1歳)
武田信玄の家臣で後の信濃国上田城主、武藤昌幸(真田昌幸)の次男として生まれ、甲斐国古府中で過ごす。

1575年 (9歳)
長篠の戦武田勝頼勢が織田・徳川軍に大敗した際、叔父2人が戦死したことから、父、昌幸が家督を継ぎ、それにともない信濃国上田に移る。

1582年 (16歳)
武田勝頼が織田・徳川軍に追われ自害し、武田家が滅亡(天目山の戦)したことから織田信長に降り本領を安堵される。

本能寺の変で信長が死ぬと、織田家家臣で関東管領の滝川一益北条氏直らに攻められ敗戦し(神流川の戦)、地元伊勢国に引き上げたことから、後ろ盾を失ない北条氏直に下る。

その後、徳川家康に寝返る。

●上杉の元に
その後、北条家と徳川家が結ぶ際、真田の領土である上野国沼田を北条家に返すよう徳川家康から命令されたことに不満を持ち、越後国上杉景勝を頼り配下になり、上杉家で過ごす。

●秀吉の元に
1585年 (19歳)
主家を豊臣家に替え、幸村は豊臣秀吉の元で過ごす。

1590年 (24歳)
秀吉の小田原城攻め前田利家の与力として従軍し、功をたてる。

1591年 (25歳)
大谷吉継の娘と結婚。

秀吉から豊臣姓を許される。

1598年 (32歳)
秀吉の死後、徳川家康に従う。

●上田城
1600年 (34歳)
徳川家康の会津征伐軍に加わったが、石田三成挙兵の報せに、父昌幸とともに西軍につく。
この際、兄の真田信之は東軍につく。(犬伏の別れ)

関ヶ原の戦の直前、中山道を進んできた徳川秀忠軍を巧みにおびき寄せ、上田城攻撃に耐え、結局秀忠軍を戦に参加させなかった。

●高野山
戦後は、東軍についた兄真田信之の嘆願により、高野山への謹慎だけで免れる。(父、真田昌幸とともに)

●九度山
その後、紀伊国九度山へ移される。

1601年 (35歳)
長男、大助(真田幸昌)誕生。

●大坂の陣と真田丸
1614年 (48歳)
大坂冬の陣では豊臣秀頼の要請を受け、長男大助とともに蟄居先の九度山を抜け出し大坂城に入城。

集まった浪人衆の内、長宗我部盛親後藤又兵衛毛利勝永明石全登とともに、大坂城五人衆と呼ばれる。

後詰めに期待ができないことから、城外に討って出る作戦を主張するが容れられず、小幡景憲の主張する籠城策がとられることに。
(小幡景憲は甲斐武田家の浪人だが、徳川方の間者で、わざと不利な籠城策を進言したと言われる)

大坂城の弱点、玉造口に真田丸(出城)を築く。

真田丸の戦で、徳川方の前田利常、井伊直孝、松平忠直らに勝利。

大筒攻撃に脅えた大坂方が、徳川方と和睦。

1615年 (49歳)
大坂夏の陣では、家康も自害を覚悟するほど深く攻め込んだものの、追い詰められて自害。
死没 1615年6月3日(慶長20年5月7日) (享年49歳)
レクイエム 大坂の陣では赤備で入城し、最期は家康を心胆寒からしめたが衆寡敵せず、死に花を咲かせ散っていった。

冬の陣の前に主張したように城外で戦うことができたら、歴史は変わっていたかもしれない。

家臣として活躍した忍者たち「真田十勇士(猿飛佐助・霧隠才蔵・根津甚八など)」は、創作と言われている。