強力な鉄砲衆にぶつけられた信長の意地
雑賀攻めさいがせめ
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西暦 1577年(第一次・第二次)、1582年(第三次)
和暦 天正5年2月、天正10年6月
周辺図
場所  紀伊国 雑賀城(現在、和歌公園)
GOOGLE MAP 紀伊国 中野城(この辺り)
概要 ●第一次雑賀攻め
1574年の伊勢長島攻め(第三次)で伊勢長島の一向一揆を平定し、翌1575年には越前や加賀一向一揆も平定した織田信長だったが、第一次木津川の戦で、織田方の九鬼嘉隆率いる水軍が毛利水軍に敗北するなど、 本願寺の顕如との石山合戦は泥沼化していた。

信長は、本願寺との戦いを有利にすべく、紀伊国の雑賀攻めを決行した。

紀伊国の雑賀荘を根拠とした雑賀衆は、雑賀孫市(鈴木孫一)を中心とした一向衆徒の集まりであり、早くから組織化された鉄砲集団を率いて、これまでにも本願寺に味方しては信長に抵抗し続けてきた強敵であった。

信長は10万の大軍を浜手、山手の二手に分け、雑賀へ向かって南下させた。

山手の部将は、佐久間盛政荒木村重羽柴秀吉らで、風吹峠を超え紀ノ川を渡り、雑賀城の東側に布陣。
そして堀秀政を先鋒に小雑賀川を渡河し雑賀城へ迫ろうとしたところ、雑賀衆が川に沈めた多数の瓶に足を捕られ進退が極まったところを一斉射撃され、たちまち苦戦に陥った。

浜手の部将は、滝川一益明智光秀丹羽長秀らで、大坂湾に近いルートを南下し孝子峠を超え、雑賀城の北方にある支城、中野城を難なく落とした。

雑賀勢は中野城を失って、さらに10万の大軍に大挙されては雑賀城落城も時間の問題であることを悟り、信長に降伏した。

●第二次雑賀攻め
雑賀衆の降伏により信長は兵を引いたが、半年後の8月、雑賀衆は再び信長に背いた。
信長にあくまでも従おうとする雑賀三緘衆に対して、雑賀孫市が不満を抱いたことから両者が戦闘状態となった。仲間割れである。

信長は、雑賀三緘衆への援軍として佐久間盛政を雑賀に派遣し、井の松原で激戦となるが敗北してしまう。

●第三次雑賀攻め
1580年、本願寺住職の顕如が信長に降伏し石山合戦は終結、顕如は雑賀の鷺ノ森別院に逃れた。

1582年、信長は今度こそ顕如と雑賀衆を根絶やしにすべく、神戸(織田)信孝丹羽長秀に命じ、1万7千の軍勢で三度目の雑賀攻めを行った。
憂いは事前に全て取り除け、といったところであろう。

200名足らずの雑賀衆は織田勢の急襲にあわて、雑賀孫市が負傷するなど防戦一方となったが、その間に本能寺の変が起こり、その報を受けた織田勢は急遽包囲を解き退却していった。

雑賀孫市はこれに喜び、負傷した身体のまま踊り狂ったといわれ、これが雑賀踊りの発祥とされる。