陶隆房と対立し失脚した大内家の文治派
相良武任さがら たけとう
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誕生 1498年(明応7年)
生誕地 周防国
相良正任
 
幼名
官名 従五位下 遠江守
近親など 弟:勝屋興久
子:娘
ゆかりの地  周防国 大内氏館
GOOGLE MAP 筑前国 花尾城
略歴 ●守護代家
1498年 (1歳)
周防国など5ヵ国の守護、大内家の側近、相良正任の子として生まれる。

その後、父同様大内家に仕える。

1522年 (25歳)
大内義隆が大内家当主に。

●右筆
その後、大内義隆の右筆として主に内政面で活躍。

1537年 (40歳)
従五位下、遠江守に叙任される。

大内家の評定衆に。

●対立
1540年頃 (43歳)
周防国守護代、陶隆房(晴賢)が主張する出雲国の尼子攻めに反対したことから対立。。

1542年 (45歳)
尼子攻め(第一次月山富田城の戦)が失敗すると、大内義隆が文治政治を行うようになったことから家中の主導権を握る。

●失脚
1545年 (48歳)
陶隆房(晴賢)や内藤興盛ら武断派との抗争で失脚、出家し、肥後国に隠棲。

1548年 (51歳)
大内義隆から呼び戻され復帰。

1550年 (53歳)
陶隆房(晴賢)らから暗殺されそうになるが、事前に察知して逃れる。

再度大内家から出奔。

●陶の謀反
1551年 (54歳)
筑前守護代、杉興連に押し留められ、周防国に戻される。

「相良武任申状」で陶隆房(晴賢)や内藤興盛の謀反計画を義隆に伝え、また、杉重矩を讒言。これにより武断派との対立が激化したため、三度目の出奔。

陶隆房(晴賢)が主君大内義隆に謀反を起こし、深川大寧寺に追い詰め自害させる。(大寧寺の変)

陶隆房(晴賢)から義隆を腑抜けにさせた元凶とみなされていた武任は筑前国花尾城に籠るが、陶勢に攻められ城は落城、自害。

辞世は「空蝉のつくしよしとは思はねど身はもぬけつつなくなくぞ行く」
死没 1551年(天文20年) (享年54歳)
レクイエム