田村家、伊達家、蘆名家と主君を替えた戦上手
大内定綱おおうち さだつな
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誕生 1545年(天文14年)
生誕地  
大内義綱
 
太郎左衛門、勘解由左衛門、廉也斎
官名 備前守
近親など 弟:片平親綱
子:大内重綱など
ゆかりの地  陸奥国岩代 小浜城
 陸奥国岩代 二本松城
 陸奥国陸中 前沢城
略歴
●小浜城
1545年 1歳 塩松石橋家の重臣で小浜城主、大内義綱の子として生まれる
1568年 24歳 父、大内義綱や田村家を後ろ盾として、主君で四本松城主の石橋家を追放、塩松を支配
●家督
その後、家督を相続
その後、主君の田村家に不満を持つように
●伊達家
1582年 38歳 伊達輝宗の小斎家攻めに参陣
これを機に、伊達家に従うように
1583年 39歳 田村家配下の百目木城主、石川光昌を攻める
会津の蘆名盛隆の支援を受け、田村清顕を攻めて勝利、これにより田村家から独立
1584年 40歳 伊達輝宗が隠居し、子の伊達政宗が当主に
●蘆名家
1585年 41歳 伊達政宗の正妻が田村家だったことなどから、伊達家から離反し会津の蘆名家への寝返りを画策
伊達政宗から、支城の小手森城を攻め落とされる。(小手森城の撫で斬り)
居城の小浜城を棄て、娘婿の畠山義継二本松城へ逃れる。これにより蘆名家の臣下に
畠山義継伊達輝宗を人質にとり会津への逃亡を謀るが伊達兵に射殺される。(粟之巣の変・高田原の変)
人取橋の戦で、佐竹、蘆名連合軍が伊達家に敗北
1588年 44歳 伊達政宗が北方の大崎義隆攻めを行うと、蘆名家の先方として伊達領へ侵攻、苗代田城攻略などで戦功
●伊達家
その後、伊達家重臣、伊達成実の誘降により、実弟で片平城主の片平親綱とともに伊達家へ寝返る
1589年 45歳 摺上原の戦伊達政宗に従軍
伊達政宗、会津の蘆名家を滅ぼし黒川城(会津若松城)を居城に
1590年 46歳 伊達政宗小田原城攻めを行っていた豊臣秀吉に伺候し臣下につく
1591年 47歳 伊達政宗が惣無事令違反、領内での一揆(葛西大崎一揆)を煽動した疑いなどから、米沢など約150万石から陸奥国陸前玉造郡など58万石に減封となり、岩出山城(岩手沢城)に入ると、胆沢郡前沢城主に。(1万石)
1597年 53歳 秀次事件の際は、片倉小十郎とともに豊臣秀吉の元へ赴き、主君伊達政宗の無実弁明に成功
1600年 56歳 関ヶ原の戦では、京都の伊達屋敷にて留守居を務める
1610 66歳 死没
死没 1610年??月??日(????年??月??日) (享年??歳)
レクイエム 戦上手で、特に十字槍の名手であったという