ザビエルを厚遇したキリシタン大名
大友宗麟おおとも そうりん
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誕生 1530年1月31日(享禄3年1月3日)
生誕地 豊後国 大友氏館
大友義鑑
大内義興の娘(義鑑正室)または坊城俊名の娘(義鑑側室)とも
幼名 塩法師丸
五郎、新太郎、義鎮(よししげ)・ドン・フランシスコ(洗礼名)・休庵宗麟(入道名)
官名 正四位下、左衛門督
幕職 豊後国豊前国肥前国肥後国筑前国筑後国守護、九州探題
近親など 正妻:一色義幸の娘、後に奈多鑑基の娘(田原紹忍の妹)
子:大友義統
弟:大内義長(大友晴英)、塩市丸など
ゆかりの地 GOOGLE MAP 豊後国 大友氏館
 豊後国 臼杵城
略歴
●大友家
1530年 1歳 豊後国肥後国筑後国守護で大友氏館主、大友義鑑の嫡男として生まれる
●二階崩れ
1550年 21歳 父、大友義鑑が、粗暴で人望も薄い宗麟に不安を感じ、側室の子塩市丸を跡継ぎに推したことからお家騒動が勃発し、父、義鑑が死亡(二階崩れの変
これにより家督を継ぐ
    変の首謀者、入田親誠を攻めて追う
1551年 22歳 周防国から北九州へ侵略してきていた大内義隆が、家臣の陶隆房(晴賢)の裏切りにより自害
陶隆房(晴賢)からの要請で、弟の晴英(大内義長)を大内家の養子に入れ、家督を継がせる。
これにより、豊前国筑前国も支配下に
●キリスト教
この頃、フランシスコ・ザビエルに会い、布教を支援
●毛利との対立
1555年 26歳 陶晴賢厳島の戦で破った毛利元就と敵対し、抗争を続ける
1559年 30歳 幕府から正式に豊前国筑前国守護職を拝命
1561年 32歳 門司城の戦(豊前国)で、毛利家に大敗
●出家と臼杵移転
1562年 33歳 出家し宗麟と号す
臼杵城を築いて移る。これにより、子の大友義統との二元政治が始まる
1569年 40歳 筑前国立花城をめぐり、大友家は毛利家と対立。(立花城の戦
1570年 41歳 毛利家が九州から撤退したことから、大友家は豊後国豊前国筑後国筑前国肥後国肥前国日向国伊予国半国を支配下に
今山の戦で、龍造寺隆信の家臣鍋島直茂に敗北
●隠居
1576年 47歳 隠居し、家督を子の大友義統に譲る
●耳川の戦と受洗
1578年 49歳 島津家に追われた伊東義祐に頼られ、子の大友義統とともに日向国に進攻するが、耳川の戦島津義久に大敗
キリシタンに帰依、ドン・フランシスコと名乗る
1582年 53歳 同じキリシタン大名の有馬晴信大村純忠らが、天正遣欧使節を欧州へ派遣
1584年 55歳 龍造寺隆信沖田畷の戦島津家久有馬晴信に討たれる
●秀吉への臣従
1586年 57歳 島津家の豊後国への侵攻を受け始める
岩屋城の戦で、有力家臣、高橋紹運を失う
豊臣秀吉からの和睦命令に対し、自ら大坂に赴き、臣下につく
島津家から居城の臼杵城を攻められるが、輸入していた大砲「フランキ砲=国崩し」で辛うじて勝利
戸次川の戦で豊臣勢が敗北したため、豊後国を島津家に奪われる
1587年 58歳 豊臣秀吉九州攻めを行い、島津家を服従させる
戦後は、子の大友義統豊後国一国を拝領
宗麟にも日向国が与えられることになったが辞退
死没
死没 1587年6月23日(天正15年5月6日) (享年58歳)
レクイエム 1578年の耳川の戦の敗因は、宗麟が日向国にキリシタンの国建設に夢中になり軍を省みず、そのため統率が乱れたためといわれる。

6ヶ国の守護である大友家が、まさか島津家に破れるとは思っていなかったことも敗因のひとつである。

そしてこの頃から、大友家は衰退の一途をたどり、最後は天下人豊臣秀吉に頼ることになった。