武断派・官吏派の両方から信頼されていた、秀吉の奉行
大谷吉継おおたに よしつぐ
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誕生 1559年(永禄2年)
生誕地 近江国
大谷吉房または大谷盛治
東殿(秀吉正室北の政所の侍女)
平馬、紀之介、吉継、大谷刑部、白頭
官名 従五位下、刑部少輔
近親など 正妻:高姫(榊原康政の娘・徳川家康の養女)
側室:千恵
子:大谷吉治(実弟説あり)、木下頼継(甥または養子説あり)、大谷泰重(養子説あり)、竹林院(妹または姪説あり・真田幸村の正室)、
ゆかりの地  越前国 敦賀城
略歴
●近江
1559年 1歳 近江国の武士、大谷吉房の子として生まれる。(大谷盛治の子とも)
●秀吉の小姓
1574年頃 16歳 近江国長浜城羽柴(豊臣)秀吉に側小姓として仕える。(石田三成の口利きという説あり)
1577年 19歳 秀吉の中国攻めに従軍
1583年 25歳 賤ヶ岳の戦の直前、敵の吉村又吉郎の調落に成功し、今尾城の開城に立ち会っていたことから、参戦できず
これにより、官吏面での才をかわれるようになる
1586年 28歳 病気治癒のため千人切りを行っているという噂を立てられるが、真犯人が見つかり無実となる
    九州攻めでは石田三成の元で兵站を担当
●敦賀城主
1589年 31歳 越前国敦賀城主に(2万石)
1590年 32歳 小田原城攻めの際、石田三成とともに忍城水攻めを行うが失敗
    奥州仕置では出羽国の検地を行う
    その後3郡を加増され、計5万7千石に
1592年 34歳 文禄の役(朝鮮出兵)で、軍監として自らも渡海
    この頃、娘(竹林院)が真田幸村に嫁ぐ
1594年 36歳  草津で湯治
1598年 40歳 秀吉が死ぬと、徳川家康に接近
●三成との友情
1600年 42歳 徳川家康に従い上杉討伐へ向かう途中、美濃国の垂井で親友石田三成へ使いを出し、家康との和睦のため三成自身か子の石田重家の上杉征伐への同道をすすめたが埒が明かず、自身佐和山へ向かい三成と会談、逆に三成に説得され西軍につくことを決意
関ヶ原の戦では藤堂高虎らと激突、善戦するが、小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによる横槍をまともに受けて隊は壊滅、その中で自刃
レクイエム 辞世は「契りあらば六つのちまたに待てしばしおくれ先立つたがひありとも」

当時はまだ治癒が難しかった、ハンセン氏病を患っていたとされる。

茶会の席で、病気の吉継が口にした茶碗を回された他の大名たちは、病がうつるのを恐れて飲む真似だけしていたが、石田三成だけは平然と口にあてて茶を喫したことから、最も信頼できる人物は三成であると思うようになったとされている。

最後にはその友情に応え、負けるとわかっていた三成の味方をした。

秀吉子飼の部将は、武断派と官吏派に分かれて対立することが多かったが、吉継は両派から慕われていた。
死没 1600年10月21日(慶長5年9月15日) (享年42歳)