築城の名手だった扇谷上杉家の名家宰
太田道灌おおた どうかん
トップページ 戦国年表 人物 合戦・出来事 国と郡 城・社寺 関連表 用語集 公開記録 参考文献 プロフィール・リンク メール
画像  
誕生 1432年(永享4年)
生誕地  
太田資清(道真)
長尾景長の娘
鶴千代、持資、資長、道灌
官名 従五位下、左衛門大夫、備中守
幕職 武蔵守護代
近親など 実子:太田資康、太田資家
養子:太田資忠、太田資雄
ゆかりの地  武蔵国 河越城
 武蔵国 江戸城
略歴
●太田家
1432年 1歳 扇谷上杉家の家宰で相模守護代、太田資清の子として生まれる
その後、鎌倉五山や足利学校で教育を受ける
1438年 7歳 永享の乱
●享徳の乱
1454年 24歳 関東管領の上杉憲忠が、鎌倉公方の足利成氏(後の古河公方)に暗殺されたことから関東を二分する大乱に発展。
(享徳の乱)
その後、父、太田資長(道真)が、関東管領の補佐役に
●家督相続
1456年 25歳 父、から家督を相続
1457年 26歳 武蔵国河越城を築城。主君上杉定正が居城とする
武蔵国江戸城を築城し居城に
古河公方に対するために、京都より将軍の弟、足利政知が派遣されるが箱根の坂を超えられず伊豆国堀越にとどまる。
堀越公方
1466年 35歳 主君で、関東管領の上杉房顕が死没、養子の上杉顕定が関東管領家の家督を相続
1471年 40歳 古河公方足利成氏が、小山家、結城家などを率いて伊豆国堀越公方攻めに向かうがこれを撃退し、さらには古河城も落とす
1472年 41歳 古河公方足利成氏に、古河城を奪回される
●長尾景春の乱
1473年 42歳 関東管領家の家宰、長尾景信の死後、後継者問題が起こる。
(長尾景春の乱)
1476年 45歳 駿河国の今川家の後継者争いに介入、駿河国へ出兵するが、北条早雲との話し合いにより問題解決、撤兵
長尾景春が古河公方と結んで武蔵国鉢形城で挙兵、関東管領の上杉顕定は、拠点、五十子の陣を攻められ大敗。
これにより多くの武蔵国の国人衆が古河公方に寝返る
1477年 46歳 この対策として、古河公方方の相模国の諸城を攻め落とし、さらに江戸城に近い豊島泰経、泰明兄弟の居城、石神井城を攻略
用土原の戦(鉢形城の北方)で長尾景春に勝利するが、古河公方の援軍到来により撤兵
塩売原の戦(上野国南部)で長尾景春と対陣するが決着はつかず
1478年 47歳 鉢形城を攻め落とし、関東管領上杉顕定が入城
武蔵国小机城を攻め落とし、相模国周辺の古河公方方の勢力を一掃
境根原の戦で、古河公方の有力武将、千葉孝胤に勝利
1479年 48歳 千葉孝胤と家督を争っていた千葉自胤を担ぐなど、千葉家の相続問題を利用して房総半島の敵勢を一掃
その後、千葉孝胤の反抗を受け、撤兵
1480年 49歳 長尾景春の拠点、武蔵国日野城を攻め落とす
1482年 51歳 古河公方(足利成氏)、関東管領(上杉顕定)、扇谷上杉家(上杉定正)、3者の和議が成立。
(享徳の乱の終結)
●当方滅亡
1486年 55歳 主君の上杉定正に、相模国糟屋館に招かれ暗殺される。
死の間際道灌は、「当方滅亡」と叫んだとされる。
死没 1486年8月25日(文明18年7月26日) (享年55歳)
レクイエム 上杉定正の暗殺劇は、享徳の乱の鎮圧に多大な貢献をした道灌が、将来実力による謀反を企てることを恐れての先制攻撃だったという説が有力。

当方滅亡とは、自分なくして扇谷上杉家に将来はない、という意味で、その予言は北条早雲の台頭を受ける形で的中することになる。